第一話 渋谷編 浮かない街
わたし、ひとつの場所にじっとしているのが苦手なの。
だって風だから。
そう言うと、なんだか当たり前みたいだけど、わたしにだって好きな場所と苦手な場所くらいあるよ。通り抜けたくなる道もあれば、早く抜け出したくなる街もある。
でも、この街は少し違うんだよね~。
何度来ても、うまく言葉にできないし。
落ち着かないのに、嫌いじゃないんだ。
騒がしいのに、寂しい。
誰もが誰かを見ているのに、本当は誰も見ていない。
そういう街。
朝のビルの隙間から、わたしはそっと入り込んだ。
まだ昼には少し早い時間。駅前にはもう人が多かった。スーツ姿の人、制服の子、外国から来たらしい大きなリュックの人、スマホを見ながら歩く女の子。みんな別々の方向を向いているのに、なぜか同じ流れの中にいる。
信号が赤になる。
人が止まる。
青になる。
人が流れる。
わたしはその間をすり抜けるのがとっても好き。
髪をふわっと持ち上げたり、コートの裾を少しだけ揺らしたり、誰かの香水を別の誰かのところまで運んだりする、ちょっといたずらしてみたり…。
もちろん、誰もわたしのことなんて気にしない。
でも、それでいいんだ。
気づかれないくらいが、ちょうどいいこともある。
その時、赤い髪の男の子がいた。
男の子、と言っていいのかは分からない。たぶん二十代前半くらい。わたしがもし人間だったら、同じくらいの年に見えるかもしれない。
真っ赤な髪。黒いロングコート。銀色のピアス。重そうなブーツ。指にはいくつかリングをしていた。
わたし、こういう人を見ると、少し気になってしまう。
何かを隠しているようで、何かを見せたがっているようで。
強そうに見えて、ほんとは少しだけ不安そうで。
彼は交差点の手前で立ち止まり、スマホを見た。
誰かを待っているのかなぁ。
そう思って、わたしは彼の髪を少し揺らしてみた。
彼は一瞬だけ顔を上げたけど、わたしには気づかない。まあ、当然なんだけどね。
他の街なら、きっと彼は浮く。
住宅街の昼下がりなら、誰かがちらっと見る。地方の駅前なら、たぶん何人かは振り返る。もしかしたら、家族に「その格好で行くの?」なんて言われたこともあるかもしれない。
でも、この街では違う。
誰も振り返らない。
見えていないわけじゃない。
ちゃんと見えている。
でも、気にしない。
その感じが、わたしは好きだった。
この街には、いろんな色がありすぎる。
赤い髪も、青い髪も、金色の髪も、全身黒も、派手なメイクも、何歳なのか分からないくらい若々しいおじさんも、逆に妙に大人びた高校生もいる。
みんな少しずつ浮いている。
だから、誰も浮かない。
変だよね。
でも、ほんとにそうなの。
わたしは彼のそばを離れず、しばらく一緒に流れることにした。
彼は誰かを待っているようだった。
スマホを見る。
画面を消す。
また見る。
少しだけ唇を噛む。
待ち合わせしている人を見るの、わたし結構好きなんだ。
特に、待っていることを悟られたくない人。
「別に待ってないし」みたいな顔をしながら、五秒おきにスマホを確認する。髪を触る。靴の位置を変える。なんとなく周りを見る。だけど本当に見ているのは、たった一人だけ。
可愛いなぁ、なんて思う。
人間って、ほんと不思議だよね?
誰かに会いたいだけなのに、どうしてあんなに強がるんだろう?
彼の横を、白い髪の女の人が通り過ぎた。
年齢は六十代くらいだと思う。けれど、背筋がきれいで、赤い口紅がよく似合っていた。深い緑のジャケットに、細い黒のパンツ。足元は少しだけ尖った靴。
わたし、その人にも見とれてしまった。
この街の年上の人って、他の場所の同年代とは少し違う。
若作りとは違う。
無理している感じでもない。
なんて言えばいいんだろう。
自分の色を諦めていない感じ。
わたしは年を取らない。
たぶん明日も、来年も、百年後も、わたしはわたしのまま流れている。だから、年を重ねた人を見ると少し羨ましくなる。
あの人たちは、時間を着ている。
服よりも、髪よりも、言葉よりも、歩き方の中に時間がある。
赤い髪の彼と、白い髪の女の人がすれ違った。
二人は互いを見なかった。
でも、すれ違う瞬間、わたしは二人の間を通り抜けた。
赤い髪が揺れた。
白い髪も揺れた。
ただそれだけ。
でも、わたしは思うの。
それだけのことにも、きっと何か意味があるんじゃないかなって。
もちろん、意味なんて分からないけど。
二人は一秒後にはお互いを忘れているかもしれない。もう二度と会わないかもしれない。名前も、声も、人生も知らないまま。
でも、同じ瞬間に、同じ場所で、同じ風に触れた。
わたしには、それだけで十分すごいことに思える。
昼が近づくにつれて、街の匂いが変わっていった。
コーヒーの匂い。
新しい服の匂い。
コンビニのホットスナックの油の匂い。
誰かの香水。
地下から上がってくる、少し湿った空気。
わたしはいろんな匂いを拾って、いろんな人に届ける。
たまに、余計なことをしてしまう。
さっきまで知らなかった誰かの香水が、別の誰かの記憶を急に揺らすことがある。
昔の恋人を思い出したり。
もう会わない友だちを思い出したり。
何でもないはずの午後に、急に胸が痛くなったり。
人間は、それを偶然だと思う。
まあ、偶然でもいいか。
でも偶然って、そんなに軽いものなのかな?
赤い髪の彼は、まだ待っていた。
何度もスマホを見る。
わたしは少し心配になった。
来ないのかな。
誰か来るはずだったのかな。
それとも、来てほしいだけなのかな。
わたしは人間の事情を全部知ることはできない。スマホの中も見えないし、昨日の夜に何があったのかも分からない。
でも、待っている人の空気は分かる。
待っている人の周りには、少しだけ時間が溜まる。
街の流れから、そこだけ取り残されたみたいになる。
彼の周りにも、そんな時間があった。
通り過ぎる人たちは、誰もそれに気づかない。
でも、わたしは気づいた。
だから、彼のコートの裾を少しだけ揺らしてあげたよ。
大丈夫、なんて言えない。
わたしは風だから。
でも、そばを通ることくらいはできる。
午後、彼は歩き出した。
誰も来なかったのか。
それとも、最初から誰かを待っていたわけではなかったのか。
分からない。
彼はセンター街の方へ向かっていった。
わたしもついていく。
人が増える。音が増える。色が増える。
この街では、昨日の新しさが今日には少し古くなる。今日かっこいいものも、明日には誰かの背景になる。
人間はそれを流行と呼ぶ。
でも、わたしには流れに見える。
消えたように見えるものも、ほんとはどこかに残っている。誰かの服の選び方に。誰かの話し方に。誰かの勇気に。誰かの恥ずかしかった記憶に。
何かが完全に消えることなんて、たぶんない。
ただ、形が変わるだけ。
彼は古着屋の前で立ち止まった。
ショーウィンドウに自分の姿が映る。
彼は少しだけ髪を直した。
わたし、そういう瞬間が好き!
誰かに見せるための顔じゃなくて、自分で自分を確かめる顔。
「これでいいかな」
「変じゃないかな」
「いや、変でもいいか」
そんな声が、聞こえた気がした。
彼は店には入らなかった。
ただ少しだけ自分を見て、また歩き出した。
その後ろ姿を見ながら、わたしは思った。
この街では、変であることが少しだけ許されている。
でも、許されているからといって、怖くないわけじゃない。
個性的でいることは、案外、勇気がいる。
誰にも見られないのは寂しい。
でも、見られすぎるのも怖い。
人間はほんとうに面倒くさい。
そして、だから可愛い。
夕方になった。
ビルのガラスに光が反射して、街全体が少し赤くなる。
彼の髪も、さらに赤く見えた。
その時、彼のスマホが震えた。
わたしには画面の文字までは読めない。
でも、彼の肩が少しだけ動いたのは分かった。
彼は立ち止まり、画面を見たまましばらく動かなかった。
嬉しい知らせだったのか。
悲しい知らせだったのか。
もう会えないという連絡だったのか。
今から行くという連絡だったのか。
分からない。
彼は笑わなかった。
泣きもしなかった。
ただ、画面を消して、空を見上げた。
わたしはその頬に触れた。
ほんの少しだけ、冷たく。
彼は目を閉じた。
その顔を見た時、わたしは少しだけ胸が苦しくなったんだ。
風に胸なんてないのにね。
でも、苦しくなっちゃった。
この街には人がたくさんいる。
なのに、孤独もたくさんある。
人が多いからこそ、孤独が目立つのかもしれない。
誰かと一緒にいる人も、一人に見えることがある。
一人でいる人が、誰より強く見えることもある。
彼はまた歩き出した。
夜が近づく。
街の色が変わる。
昼なら目立つ黒が、夜には自然になる。
昼なら派手すぎる赤が、夜には少し大人になる。
青い光が肌を冷たく見せる。
白い靴が人工的に浮かぶ。
この街は、時間によって常識が変わる。
昼の顔。
夜の顔。
終電前の顔。
始発前の顔。
どれが本当かなんて、わたしには分からない。
でも、全部本当なんだと思う。
彼は交差点へ戻ってきた。
最初にいた場所。
朝と同じ場所なのに、まるで違う街みたいだった。
人はまだ流れている。
笑っている人。
急いでいる人。
迷っている人。
撮っている人。
撮られている人。
誰かを待っている人。
もう誰も待っていない人。
彼はその中に立っていた。
赤い髪。黒いコート。銀色のピアス。
やっぱり、浮いていなかった。
でも、浮いていないから寂しくないとは限らないね。
誰も振り向かないことは、優しさにもなるし。
でも、時々、孤独にもなる。
わたしは彼の周りをぐるりと回った。
ねえ。
あなたは今日、誰を待っていたの?
誰かに会えた?
それとも、会えなかった?
この街に来た意味はあった?
そんなことを聞いてみたかった。
でも、わたしは風だから。
言葉は持てない。
持てるのは、匂いと、温度と、ほんの少しの揺れだけ。
だから、彼の髪をもう一度揺らした。
彼は小さく息を吐いた。
その息を、わたしは受け取ったよ。
そして、人混みの中へ運んでみた。
誰かに届いたかは分からないけど。
届いたとしても、その誰かは気づかないだろうね。
でも、それでいい。
分からなくても、意味はあると思うから。
分かったとしても、その次にまた別の意味が来る。
この街も、彼も、わたしも、きっとそういうものなんだと思う。
信号が青になる。
人が流れる。
彼も歩き出す。
赤い髪が、人混みの中へ溶けていく。
わたしはしばらく追いかけたけれど、途中で別の匂いに呼ばれてしまった。
誰かの涙の匂い。
誰かの笑い声。
誰かの新しい服。
誰かの古い記憶。
わたしはまた流れる。
ひとつの場所にはいられない。
でも、今日この街で、赤い髪の彼を見たことは、たぶん忘れない。
少なくとも、次にこの街を通る時、わたしはまた赤い髪を探してしまうと思う。
それが恋なのか、興味なのか、ただの気まぐれなのかは分からない。
風にも分からないことはある。
ううん。
分からないことばかりだ。
でもね。
この街では、分からないままでも歩いていける。
浮いているようで、浮いていない。
寂しいようで、少しだけあたたかい。
冷たいようで、なぜか戻ってきたくなる。
この街そのものが、そんな色をしている。
その色の名前を、わたしはまだ知らない。
知らなくてもいいのかもしれない。
だって、名前をつけた瞬間に、こぼれてしまうものがあるから。
わたしはまた、ビルの隙間を抜けていく。
誰かの髪を揺らしながら。
誰かのため息を運びながら。
誰かの今日を、ほんの少しだけ撫でながら。
この街では、誰も浮いていない。
浮いている人が多いからじゃない。
きっと、この街には、浮いているものをそのまま受け止める風が吹いているから。
そして今夜も、その風はわたしだった。




