34.善悪
アルマが上層へ登るというニュースは瞬く間に中層地帯全域に知れ渡った。最後にMI技術者のウォルター・ブラッド博士が移動を許可されてからおよそ十年ぶり、さらに中一層に所属している者が二、三層を飛び越えて一気に上層へ到達するのは過去に前例のない出来事だった。
その快挙を記念した盛大なパーティーが、オースティン邸にて催された。住民たちは各々が培ってきた趣味や特技の腕を存分に活かしてアルマのために料理を振る舞い、プレゼントを贈り、パフォーマンスで盛り上げた。
ただ、その参加者のほとんどはアルマと同じ中一層に属する人々で、中二層の住人は誰一人として参加しなかった。中三層の住人は表向きにはアルマの快挙を祝いつつ、アルマを貶めようとしたり研究内容を聞き出して利用しようと画策する者も多く、そうした者が現れるたびにオースティンに睨まれ、形だけの挨拶をしてそそくさと帰っていった。中層におけるオースティンの影響力はやはり大きく、彼と出会えたことはとても運が良かったと、アルマは下層でサルガドに出会ったときと同じように改めて思った。
「運が良かったのは私も同じだ」
本人に伝えると、オースティンはそう言って笑った。
「もしアルマが別の誰かと協力して上層に行く権利を手に入れていたら、私も彼らと同じように君を嫉妬の目で見ていただろう。君のおかげで、私は人として大切なものを失わずに済んだんだ」
オースティンはアルマがMIで動いていると聞いたとき、安堵したと言っていた。その感情が、先ほど挨拶を交わした彼らと同じであるとアルマは思わない。ただ、それは何故かと聞かれたら、オースティンのことをよく知っているからとしか答えられなかった。
基本的にMIはあらかじめ規定されたプログラムに沿った正しい行動しか選ばないが故に、アルマには「善悪」という概念が希薄だった。荒野にいた頃は、コロニーで肩を寄せ合って暮らす仲間たちは味方、彼らにとって脅威となる野盗や機械獣は明確な敵という認識で何ら問題はなかった。だが、ひとつの場所にさまざまな立場の人間が混在するこの「塔」という場所に来たことで、「誰かにとっての善行は別の誰かにとっての悪行である」という、考えてみれば至極当然の事柄をアルマは学習した。今なら、あの野盗たちが生きるために必死だったことも、機械獣は誰かの命令を忠実に遂行しているだけだということも分かる。MIに記録されている使い古された表現を借りるなら「正義の反対はまた別の正義」というやつだ。
もしもこの世界にただひとつの絶対的な正義が存在し、誰もがその理想を目指していたとしたら、こんな面倒なことにはならなかった。だが人間は愛、欲、怒り、慈しみ、妬み、誇り……機械には持ち得ない数多の感情に突き動かされて生きている。そして、それこそが人間らしさなのだと、ここに至るまでの道程でアルマは深く理解するに至った。
オースティンが腑に落ちたという「博士がアルマを塔へ向かわせた理由」を、アルマ自身もすでに気付き始めている。おそらくその予感は、上層にて確信へと変わることだろう。しばし喧騒から離れ物思いに耽っていたアルマは、パーティーの参加者たちが自分を呼んでいる声に応え、再びその輪の中へ戻っていった。
翌日、アルマとミコは中層内を移動するものとは別の、塔の入口から下層、下層から中層へ登ったときと同じエレベーターに乗って上層地帯へと向かった。
『いよいよ上層ですね、アルマ。着いたら、まずはウォルターを探しましょうか』
「うん。こっそり近づいて、驚かせよう」
絹のように滑らかな長いブロンドの髪をばっさりと切り落とし、肩にかからない程度のショートヘアになったアルマが、ミコに応える。かつては名だたる映画スターやミュージシャンのスタイリストを務めていたという婦人に、燃えてしまった髪を整えてもらった。その腕前のほどはアルマにはよくわからなかったが、前より動きやすいので気に入っている。さすがにこれだけ様変わりすればウォルターも驚くだろう。
そんな話をしているうちに上昇を続けていたエレベーターが停止し、目の前のドアが開く。
「やあ。アルマ、ミコ」
開いたドアの先にいたのは、たった今名前を口にしたウォルター本人だった。驚かせようと思っていたのに逆に不意打ちをくらい固まるアルマを見て、ウォルターが不思議そうな表情を浮かべる。
「あ、あれ? 僕のこと忘れちゃったかい?」
「違う、少し驚いただけ」
不安そうに訊ねるウォルターに首を振り、エレベーターの外へ出るアルマとミコ。
「久しぶり……というほどでもないか。いずれ君たちは上層へ来るだろうと思っていたけれど、まさかこんなに早いとは、さすがに予想外だったよ」
「この塔で出会った人たちのおかげ。私たちはとても運が良かった」
「なるほど……アルマ、君はこの短い期間でずいぶん大人びたように見える。ねえ、ミコ」
『ええ。私もアルマの成長には日々驚かされています』
手放しに褒められ、どこかむず痒いような気持ちになったアルマは、話題を変えるためにウォルターに問いかけた。
「どうしてウォルターがここに? 私たちが上層へ来るのを知っていた?」
「ああ、それは僕たち上層民が上層への移動許可証を出すかどうかを決定しているからだよ。あの研究報告書を読んで、僕も強くアルマを推薦したんだ」
「それは、自分の研究と深く関わっているから?」
アルマの質問に、ウォルターは小さく微笑んで答えを濁した。
「積もる話は諸々の手続きを済ませてからにしないかい? 上層の管理局まで案内しよう。まあ、上層は狭いから迷うこともないだろうけれど」
話を切り上げ、ウォルターが歩き出す。確かに彼の言う通り、いますぐ慌てて話す内容でもない。納得したアルマは先を行くウォルターの背中を追って上層地帯へ続く扉に向かって進んでいった。
第三章完!




