23 手放すなと言ってくれる人
身を起こすと、それに気付いた侍女が急いでドアを出て行った
身につけていた簡素なワンピースは、装飾の華やかなドレスへと変わっている。
見回せば、しばらく前までは馴染みのある部屋だった。
一人では少し持て余し気味の広さ。大きなベッドの上の天蓋。猫足のテーブル。薄暗い窓の外に遠く見えるのは魔法塔。見慣れたそれらが絶望を呼び起こす。
学び舎でリリカさんと別れた後、昇降口を出てクロカゲのもとへと向かった。
そこにちょうど男性が歩いてきた。この小さな町では話したことはなくても顔くらい見たことがあるが多いけれど、見知らぬ人だった。
口を引き結んで、少し思い詰めたように見える表情が気になった。かといって、声をかけるのもなんとなく気が引ける。
向こうが会釈したから、こちらも会釈を返した。
その擦れ違いざま、口と鼻とを覆われた途端視界が真っ暗になって今に至る。
窓からの景色は見晴らしがよく、あの頃はそれが気に入っていたけれど、今は飛び降りて逃げることがかなわない高さが恨めしい。
硬く閉ざされたドアの向こうに立ち動く人の気配はあっても、開けてはもらえない。
ならばとドアが開くのをひたすら待ち続け、開いた瞬間体当たりで逃げだそうとしたら、入ってきた兵士にこちらのほうが跳ね飛ばされてしまい床に転がる羽目になった。
兵士の後ろから来た侍女がテーブルに食事の支度を調え恭しく礼をして部屋を出て行くまで、誰ひとり口を開かなかった。あの頃もそんなにおしゃべりをしたわけではないけれど、目すら合わせずに出て行くなどということはなかった。
ワケがわからない。わからないけれど、ここがヤフェエールだということはわかる。
攫われたの? どうして? また聖女が必要になったの?
ぐるぐると考えながらテーブルを見れば、この城に居た頃、私が好きだと言ったものばかりが並べられている。
豆のスープも、ふわふわのオムレツも、果物が練り込まれたパンも。テーブルいっぱいに並べられた皿は、どれもこれもおいしそうな匂いを漂わせている。
のろのろと椅子に腰を下ろす。食欲なんてなくても、食べて元気を出さなければここから逃げ出せない。そう思ってスープを口に運んでみたけれど、あの時お気に入りだった味を今はおいしいと思えなかった。
どのくらい時間が経ったんだろう。夕闇に沈んでいく外の景色から、数時間なのか、それとも既に数日なのか考えてみる。
ノクスのご飯が食べたい。そのために、スプーンを口に運び、どうにか嚥下する。
ノクスの声が聞きたい。大丈夫って言ってほしい。
「ミアでもいいよ。ミワって呼びにくいでしょう?」
食堂で働くようになって、ノクスに言ったことがある。
誰に名乗っても"ミワ"と呼んでくれる人はいなかった。この国の言葉を話すようになって、この音の並びが発音しにくいのだということが理解できたし、みんながそう呼ぶならもうそれでいいんじゃないかと思ったからだ。
ノクスは野菜を切る手を止めて、「今更だな」と笑った。
「大事なものをそうやすやす手放すな。せっかくこの国まで持ってきたんだ。そのまま使え」
それを聞いて、みんなが"ミア"と呼ぶなか、最初から"ミワ"と呼び続けてくれた意味を知った気がした。
私が突然この世界に連れてこられたことを知る彼が、彼だけが元の世界にいた私も尊重してくれていた。この世界流に、呼びやすいように呼ぶのでなく、私が持ってきた名前を大切なものだと考えてくれていたのだと、その時、初めて知った。
食べなければと思う気持ちほどにはさして食べることができず、食事は下げられていった。
──ノクス……
コンコンとドアをノックする音にはっと顔をあげる。まさか、こんなにタイミングよく彼が現れるはずがない。そう思うのに、つい期待してしまう。
「ミア? 入りますよ」
その声に凍り付いた。
ドアが開く。
金髪の長い髪をゆるく編み、肩に流している青年──。
『な、んで……』
唇は震え、うまく音を紡がなかったかもしれない。それでも彼はこちらを向いて目を細め、感慨深げに「会いたかった」と囁いた。
「こうして無事な姿を見られてよかった。ずっと探していたのです」
言いながらゆったりと歩み寄ってくる。これまでのことなど何もなかったように、かつて私が好きだった、優しい笑みを浮かべて。
「ああ、やっと会えた。ミア……髪が、伸びましたね」
差し伸べられた手から逃れるように、一歩足をひくと、痛ましいものでも見るように眉を寄せた。
「貴女が城を出されたのを知ったのは随分後だったのです。長く城を空けたせいで公務に追われて……まさかサヴィが、貴女を追い出すだなんて思いもしなかったのです。ああ、でもサヴィばかりを責められません。すぐに気付かなかった私の落ち度です」
本当に申し訳ありませんでした、と。まるであらかじめ台詞が用意されていたように、すらすらと言った彼は、私の手を取り唇を寄せようとしたから慌てて振り払った。
「怒っているのですね……どうかあの頃のように、貴女の小鳥のさえずるような声で、私の名を呼んでください」
「……」
なんと呼べというのか。リュミリエルだろうか。それともまさか、リエルと呼べとでも言うのだろうか。
精一杯の拒絶をこめて睨み付けても、彼は意に介した様子もない。それどころか、先ほど兵士にぶつかって転がった時に出来た腕の痣に視線を落として口を開いた。
「その痣、痛みますか? 手荒なことはするなと命じてあったはずですが……すぐに回復師を呼んでおきます」
命じてあったはず。やっぱりここに私を連れてこさせたのは彼だ。そう確信して「結構です」と言い放つ。きっぱりと言いたかったのに、思ったよりも声は小さく、震えてしまった。
「ああ、やはり話せるのですね」
「……」
「食欲もあまりないようだと聞きましたが、お口に合いませんでしたか? この城にいらした頃、貴女が好きだと言っていたものを用意するよう申しつけていたはずですが」
心から気遣うように聞こえる声音。でも次の言葉に、私は再び凍り付いた。
「大切にしてください。世継ぎを産むかもしれないお体なのですから」
「は……?」
何を言っているのだろう。世継ぎ? 誰が? 誰の? 疑問のように浮かぶ言葉は、けれど既に答えにたどり着いている。
「ルナさんが、いるじゃないですか」
隣国の私ですら知っている。彼は聖女と婚約した。今年盛大に婚儀が行われる。
食堂に来る商人たちは、既にヤフェエールがその準備でいろいろなものを買いそろえている、かき入れ時だとはしゃいだ声音で語っていた。
「ええ。皇后は聖女であるルナです。ですが心配は無用ですよ。あなたは皇妃になれるのですから。だから、そんな風に嫉妬する必要はないのです」
背筋を恐怖が這い上る。同じ言語を話しているはずなのに、まったく通じている気がしない。
「ミア」と呼びかけながら再び伸びてきた手を、パシリと音がするほど強くはらうと、リュミリエルは楽しそうに目を細めた。
「ふふ、そんなに怯えて可愛らしいですね。安心なさい。気が立った獣のような女人をどうこうする気はありませんよ」
怖い。だけじゃない。腹立たしい。自分のほうが絶対に優位だと信じて疑わない態度が。そして今、それに抗うすべがないことが、腹立たしくて悔しい。
「瘴気を祓うだけの道具として生きるか、皇妃として平穏に暮らすか。どちらが得策か、じっくり考えてみるといい」
「どちらも、どちらにもなりません」
「ふふ、否定しないのですね。やはり祓いの力は健在のようだ」
「た、たとえ、そうだったとしても、絶対なりません」
「なりますよ。他に選択肢はない。あとはせいぜい貴女が死ぬことくらいです」
そうすれば、次の聖女を呼べますから、となんでもないことのように語る。
「ああ、助けがくるとお考えですか? そもそも貴女がこの国にいることは、誰も知りません。それに、知ったとしても、貴女の待つあの男はこの国に入ることはできない。そのように手配は済んでいます」
知って、いるんだ。私がどこにいたか。これまで誰に助けられていたのか。
ここはフェルディリアじゃない。国境を無理やり越えることなど、いくらノクスだってきっと出来ない。
「この次あの男に会えるとしたら、貴女が私の皇妃になった後でしょうか。もっとも、他国の庶民がヤフェエール皇妃に会うすべなどありませんがね。ああ、それとも会わせてさしあげましょうか。我が国の宝を掠め取ったあの男に」
まるで子守歌でも歌うような声音だ。それがかえって恐ろしくて、背筋が粟立つ。
「旅の間も、私が貴女に触れるたび、あの男が物欲しそうにこちらを見ていたのは実に愉快でしたよ」
リュミリエルは、愉しくてたまらないとでも言うように言葉を続けた。
「今度こそ本当に私のものになったと、目の前に突きつけて、知らしめてやるのもいいかもしれませんね」
「……」
「また来ます。それまで、貴女が生きていくために何を選ぶべきか、ゆっくりお考えください」
ゆったりとした仕草で、リュミリエルが部屋を出て行く。
泣きたい。泣きそうだ。でも、ぐっと息を詰めてそれを堪える。
握り込んだ掌に爪が食い込む。
悔しい。悔しい。でも、絶対に絶望なんてしてやらない。
逃げよう。改めて強く思う。
帰る。あの場所に。自分の力で。
部屋の中に視線を走らせる。カーテン。敷布と掛布。裂いて編んだらロープになるだろうか。あの椅子を叩きつけて窓を割ったら。
できそうなことをひとつひとつ考えて、組み立ててみる。
私の足で、大切な人たちがいるあの場所──ノクスの待つ食堂に帰るために。




