22 過去形にすること 現在形にできること
この世界では一年の最初の冬はたった一ヶ月で過ぎていく。ほんの十日前には冬の植物観察に出掛けたはずが、今日の陽射しはあたたかく春の気配だ。
仲の良かった友達には花粉症の子も多くて、陽射しよりも気温よりも早く、その子たちのマスク姿で春が近づいていることを感じていた頃が懐かしい。
こんな風に思い出すのは、昨夜彼女たちが教師になって、その授業を受けている夢を見たからかもしれない。
給食の空き容器の回収のために、クロカゲを連れて学び舎まで来ると、荷車には既に容器が積まれていた。
いつもならクロカゲを触りたがる子や、人懐こい子が寄ってきて話しかけてくれたりするのだけれど、今日はいつもよりも遅くなってしまったせいか子どもたちの姿はなかった。
クロカゲを荷車に繋いでいると「ミアさーん」と声が掛かった。
顔をあげると一階の窓を開けて、リリカさんがぶんぶんと手を振っている。
「あ、こんにちは!」
「風邪はもう大丈夫?」
「はい、もうすっかり」
口の中にあの苦い薬湯の味が蘇る。
「よかった! 引率で無理させちゃったかもって心配してたの。でもすごく助かったよ。ありがとう」
「こちらこそ、先生の気分を味わえて楽しかったです」
「ヒューヴたちのこともありがとね。泉には行っちゃダメって言ってあったのに」
泉の近くでのあの一件についてリリカさんには、泉にヌシのような大きな魚が棲み着いて、子どもたちを襲いかけたのだと伝えられた。
子どもたちは「くろいムシのたいぐんみたいだった」とか「あおくひかった」とか言っていたけれど、リリカさんはよほど怖くて混乱していると判断したようだった。
安全が確認されるまで当分の間は野外学習が中止になってしまったそうで、あんな風に先生気分を味わう機会はこの先しばらく訪れることはなさそうなのが、少し残念だったりする。
「よかったら、お茶していかない? 私しか残ってないし、差し入れで貰ったケーキがあるんだ」
荷車に繋がれたクロカゲは、のんびりと周囲の草を食んでいる。
賢い子だから、勝手にどこかに行ってしまうこともない。
「じゃあ、ちょっとだけ」
「やった! あっちの昇降口が開いてるから。お茶入れておくね」
「はい!」
少し前まで、リリカさんと話す時にはなんとなく気後れがあった。それは彼女が"教師"をしているとか、リゼさんやノクスと長く重ねてきた時間を感じたせいだと思う。
でも今は、"聖女の力"があるというそれだけで、何もできない、何も持っていないという私の劣等感が、少しだけ和らいでいる気がした。
「座って座って。あ、そこ片付けるね。もう研修課題が終わらなくて泣きそうなの」
数冊のテキストやプリントが広げられている。ぱっと見で読めない表紙のものも多いけれど、図形問題のようだ。
『懐かしい……』
「え?」
「あ、懐かしいなって」
「懐かしい? ミアさん……高等算術知ってるの?」
リリカさんが目を丸くする。それはそうだろう。一年生の文字の読み書きすら覚束ない私が、こういう数学がわかるだなんて意外に違いない。
そう思われているであろうことがちょっとだけ悔しくて「このくらいなら解けますよ」と微笑んだ。
「え、じゃあ……この問題とか、どう?」
半信半疑といった表情で差し出されたプリントに視線を落とす。いくつか読めなかった単語をリリカさんに教えて貰うと、思った通り面積を求める問題だった。
ややこしく見える形だから、素直に計算することはできない問題だ。既に試行錯誤したらしく、計算や、それを消した跡がたくさんあった。
「これは、こことここに補助線をひくんです。そうすると……ほら」
「ああっ、なるほど! すごいね、ミアさん」
中学レベルの数学でここまで誉められるのは、なんとなく居心地が悪い。それでも、こんな風に手放しで誉めて貰えるのは悪い気もしなかった。
「これ高等教育院でないと習わない内容だよ?」
言われて、そうか、と思う。この国では基本的に子どもたちは学び舎に通うけれど、生活に直結する最低限のことしか学ばない。こういう図形問題やその公式は、高等教育院に進むか、それを必要とする職業にでも就かない限り、覚える必要がないのだろう。
そう考えると、高等教育院で教わる内容は大学のようなものではなくて、中学や高校くらいのイメージなんだろうなと思う。
「……じゃあこの問題とか、どう?」
またわからない単語があるのが少し悔しい。でも読み上げて貰えば、問題はけして難しくはない。
「これは、こことここが相似なので、この辺を求めれば比率から解けます」
「……」
黙り込んでしまったリリカさんに、わかりにくかっただろうか、と再び問題に視線を落とすと「なんで?」と呟く。
「なんで文字も読めないミアさんが、こんなにどれもすらすら解いちゃうの?」
「それ、は……」
リリカさんにしてみれば、そう思うのはもっともだ。だから、言葉を選びながら話した。
「私の生まれた国では、義務教育というのがあって七才から十五才までの子は必ず"学校"……学び舎みたいなところに通うんです。ほとんどの子が、そこを卒業しても更にもう三年間学び舎に行くので」
「狡いな……」
「え……?」
「ううん。ありがと! 助かったよ。あ、お茶冷めちゃう」
勧められて木の丸椅子に腰をおろすと、香草茶とパウンドケーキを出してくれた。
花のような香りのお茶に口をつけると、ホッとする。今日は食堂のお昼時が忙しくて、ここにきてようやく人心地つけた感じだ。
「ね、ミアさん。ノクのこと……好き?」
トクンと胸が跳ねた。リリカさんはノクスのことを好きだろうとは薄々感じていたけれど、まさか真っ向からそんな話題をふられるとは思いもしなかったからだ。
「私とノクは同じ年だったから、一緒に学び舎に通ってたの。卒業して、ノクがトレジャーハンターになってからは顔を合わせることも減っていたけど……高等教育院の研修が終わって帰ってきたら、告白、しようと思ってたの」
「……」
「ノクのこと、どう思ってる?」
「どうって……なんていうか……お母さんみたい?」
「ぷっ」
よほど予想外の回答だったのか、リリカさんは吹き出して笑い出した。
「あのノクが? "お母さん"みたいなの?」
改めて訊かれると、なんだかひどく見当違いの答えを返したように感じて恥ずかしくなり「見守ってくれているというか……優しくしてくれるし、落ち込んだら励ましてくれるし、おいしいご飯を作ってくれて、おやつも作ってくれて、具合が悪くなればすぐに気付いて薬湯を作ってくれたり」と思いつくまま、急いでいくつもあげていく。
ノクスはひとたび剣を持てばとても強い。そうでなくても、とても格好いいと思う。でも、こんな風に訊かれて思いつく彼の姿は、少し心配性で時々過保護気味にも感じられる優しさだ。
「じゃあ……"お母さん"なら恋愛対象ではないってことでしょ? ちょうだいよ、ノクのこと」
「それはダメっ……あ……」
考えるよりも先に思わず口をつく。自分でも驚いて固まっていると、「なんで?」とリリカさんが首を傾げた。
「リゼママだってミアさんに優しいし、ご飯だってなんだって作ってくれるよ。ガルさんだって親切だし、ミアさんが言ったような人、きっといくらでもいるもの。ノクじゃなくてもいいじゃない」
「それは……。よく……わからないんです。私は急に自分の国から連れてこられて、もう……帰ることも、できなくなってしまって。先生になりたかったのに、そのためにずっと勉強していたのに駄目になっちゃったし、好きだった人は別の人と婚約しちゃうし、この国の言葉も文字もわからなくて本当に途方にくれてて……」
あの時の戸惑いや悲しさが蘇って少しだけ声が震えてしまう。カップを傾けて喉までせり上がったものを飲み込んでから息を吐く。
「でもノクスは、そんな私を助けてくれたんです。最初なんて本当になんの言葉もわからなくて、手振り身振りで……面倒くさいって思われそうなのに、根気よく付き合ってくれて、気遣ってくれて……」
誰より傍に居てくれた。心に、寄り添ってくれた。
これまで恋なら幾度もしたけれど、そういう気持ちとは違う。ドキドキするというよりも、安心する。
泉の傍でもうダメだと思った時、思わず呼んだのはノクスだった。そして本当に来てくれた時、もうそれだけで全部大丈夫な気がした。
「ノクスは……お母さんだけど時々お父さんみたいで、お兄ちゃんみたいなこともあるし、友達な時もあるし……」
「全部、なんだね」
「え?」
「あーあ、わかってたけどさ、両想いじゃん」
言われていることがうまく飲み込めず、ぱちりと瞬く。
「私はノクと子どもの時から一緒にいるのに、ミアさんと居る時のノクは見たことない顔ばっかりするんだもん。悔しくて、割り込んでやろうと思っても全然ダメだった」
「リリカさん……」
あーあ、とぼやくように言ったリリカさんはひとつグンと伸びをすると、どこか晴れやかに笑った。
「ねえ、ミアさん」
「うん……あ、はい」
「私たち、結構いい友達になれると思わない?」
「それは、はい、あ、うん……」
リリカさんはたった今なにかを切り替えた。それはノクスへの想いかもしれないし、私へのスタンスかもしれない。ただ、咄嗟にそれについていけなくて、私はどぎまぎしてしまう。
「先生に、なりたかったの?」
「……うん」
「なれるよ。ミアさんならたぶん、学び舎じゃなくて高等教育院の先生にもなれると思う」
「え?」
「他の国から来たって言ったよね? フェルディリアで教師になるには、この国に三年以上住んで、それから研修と試験を受けるの」
「私が……なれる?」
「なれるなれる! さっきみたいな問題をすらすら解ける人がなれないなら、私なんて絶対無理じゃない」
そう言ってリリカさんがからからと笑う。
この国で先生になれる。そんなことは絵空事のように考えていた。
自分に出来ないことや知らないことばかり数えていたけれど、私がこれまで頑張ってきたことは無駄じゃない。ちゃんと今の私を助けてくれる。
ノクスに、話したいと思った。私も先生になれるかもしれないよって、それがどれほど嬉しいことか、彼に話して、一緒に喜んでほしいと思った。
恋では、ないかもしれない。でも、ノクスは特別なんだ。それに気付いたら、少しだけ胸が苦しくなった。
帰ったら、真っ先に伝えよう。そう思ったのに、私は食堂に、ノクスの元に帰ることはできなかった。




