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転身物語(ある田舎における)  作者: 入江晶
1. 信用組合駅前支店
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1-3. 背中を見送って

 ――ありがとうございます。そんなふうに甘えることにならないように、頑張ります。


 彼女の自然な笑顔と声からは、私が言外に示そうとした意味を理解しているのかどうか、分からなかった。もし伝わっていなかったのだとすれば残念でもあり、同時に、彼女の純朴さの表れとして好ましくも見えた。伝わっていたのだとすれば、彼女はきっと心底の残念な気持ちを、こんな言葉や態度によって、こらえているのだろうと思え、その姿に、新たな魅力が浮かんでいるように思えた。

 いずれにしても彼女の言葉は、表面的には、裏表のない、気遣いの含まれた冗談だと感じられ、それと彼女の笑顔に応えるように、私は笑った。胸の奥では、分かっていたとはいえ、用意した言葉、誘う言葉が、効果を見せなかったことに、落胆していたのだが。

 惜しむような様子を見せて、彼女はそれから席に向かい、椅子にかけていたコートを羽織って、荷物を抱えてまた戻ってきた。そして通用口への通り道に当たることもあって、私の机の前まで来ると、深々と頭を下げた。座ったまま、私は彼女のそんな様子や言葉に応える。その間ずっと、まだ何か手はあるのではないかと可能性を探ろうとする考えが、働き続けていた。


 ――それじゃあ、失礼します。

 ――ああ、お疲れ様。気をつけて。荷物は大丈夫? 駅まででも、持ってあげようか?

 ――いえ、ありがとうございます。寄るところもありますから。

 ――そうか……いや、これで本当にお別れと思うと、本当に残念だよ。

 ――そんなふうに言わないでくださいよ、私も行きづらくなるじゃないですか。笑顔でお別れにしましょう。


 言葉通りに彼女は笑った。あの微笑だった。純朴で、何か曖昧だが強い魅力を帯びていて、決して何かをほしがっているような様子ではなく、むしろ、うっすらとした、謙虚な拒否を帯びているのに、いやだからこそ、どんなことも捧げてしまいたくなるような、そして実際にそうやって何度も贈り物や約束をすることにさせた笑顔。その笑顔が、通り一遍の、持って回った、決まり文句のような挨拶に、希有な色合いを帯びさせている。しかし今ではもう、そこで与えるべきものを私は何も持もっていないのだった。


 ――そうだね、じゃあ……さよなら。

 ――本当に、お世話になりました。


 彼女がもう一度お辞儀をしたので、私は慌てて立ち上がり、同じように、しかしもっと深く、頭を下げた。仕事として繰り返してきた動作はもはや私にとって機械的なものでしかなかったが、このときには、私にとって全く違う意味を持っていて、やり方を知らないものだった。そして頭を下げ続けながら、未だに私は、今ここにある最後の瞬間を、遠ざけることができるのではないかと思っている自分に気づいていた。それは我ながら滑稽だったが、同時に、久しぶりに抱く、真摯で強烈な感情だったはずだ。それは精神だけでなく体の奥底まで、疼きを起こさせるほどのものだった。

 顔を上げると、予想あるいは狙い通りに、私よりも先に体を起こしていた彼女の笑顔がまた目に入った。彼女はそんな私の様子を認めると、周囲をぐるりと見回してから、一つ息をついて、私に向かってもう一度笑った。屈託も寂寥感も無い、どこにも引っ張られていない、何も引きずることのない微笑。彼女はきちんと吹っ切っているというわけだ、私とは異なり。

 ほんの少し首を傾けただけの彼女の礼に、私がずいぶん大げさな動作で答えると、彼女は歩き出し、事務室から去っていった。その後ろ姿を立ったまま見送り、姿が見えなくなっても、足音やドアの開け閉めの音を追い続けた。その間ずっと、目や耳がいくつもの過去の記憶を呼び起こした。例えば、彼女がまさにそのコートから順番に手をかけ、ゆっくりと、その下の肌に近づいていく瞬間を。

 彼女が建物の外に出たことを感じると、事務室の中は、急に、ひどく静かになったように思えた。ほとんど何も変わっていないはずなのに。この部屋、机の島が四つ並び、それを見渡せる私の席と、隣の支店長席の配置された空間。正面の側には彼女の席があり、そのさらに向こうには格子状のシャッターの降りた窓口。明るいのはそこまでだ。シャッターの先には待合室。自分の席からそんな空間を、そこにいる人たちを見通せるというだけで、優越感があった。小さな空間とはいえ、この場所を支配しているのだという気分になれるほどに。しかしそこに彼女はおらず、すでに去ってしまったということを意識させられると、そんな感覚も、ひどく空しい後味を残すだけになっていた。

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