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転身物語(ある田舎における)  作者: 入江晶
3. あるカラオケボックスの一室
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3-9. 失われない足跡

 別に彼女を追う必要もなく、私には彼女の辿る道が分かる。住所を知っているからだ。初めて会ったときに出された書類にそういう情報は記入されていたし、学生証にも書かれていたはずだ(裏面に、手書きで)。たとえ携帯電話を使わなくても、そういう物理的な形で、私は彼女に結びつくことができた。彼女が去った今も(引っ越す先は知らないけれど)。

 むしろ、それを捨てられないと言うべきか。職業柄、そういう情報を覚えるのが得意になってしまっていて、もう頭の中に、記憶としてしっかり刻まれている。紙やら携帯電話やらにメモしたものだったら、簡単に捨てることはできた。しかし頭の中の記憶ではそうもいかない。つまり私は、彼女との縁、その存在を、これからも意識し続けて、あえて忘れていなければならないらしい。私について、今の住所も、次の職場の場所どころか名前も知らない彼女とは違って。

 彼女はそういうことを、あえて知ろうとはしなかった。私もできるだけそうしてきた。それが彼女との、対等な関係というものだった。しかし結局、私たちは非対称でしかいられなかった。当たり前ではある。それはいいとしても、私はそういう形でも、彼女に対して正しく振る舞えていたのだろうかと思う。幸い、彼女は私の授けた悪知恵を使って悪役を無事に演じ切り、恩恵を受け、私もそのお相伴にあずかった。彼女から直接渡される分だけではなく、例えば彼女の「お付き合いの相手」から、彼女に贈られるのが明らかなプレゼントについて、娘(実在する)のためというへたくそな嘘の名目で私に相談された時には、上司兼恋人(愛人というべきか)を愛する(笑)都合のいい女を、存分に演じさせてもらったものだった。そして彼女には受け取った時の喜び方のポイント(どこを具体的に褒めるとか)をあらかじめアドバイスしておき、演出家として余裕ぶった大人になりきることもできた。

 しかし結局のところ、根本的な問題として、彼女に対して私はこれで良かったのかと思う。常識的な話として良いわけがないというのは分かっているけれど、そういうことではなくて。

 確かに私は彼女に、今、利益をもたらすことができた。しかし、彼女が言ったようにその悪辣なやり方が、あるいはそういうものが幅を利かせる状況に身を置いたという経験が、その残響が、この先の彼女の人生にどう影響していくのだろうかと、考えてしまう。

 同時に、そんな心配――これまでの私の態度からして無責任極まりない心配――は、杞憂に過ぎないとも思える。彼女が私を振り切ろうとしていたからだし、彼女が「子供らしく」怒ったり、感じたりしていたのを、今日、目にしたからだ。地元を嫌って都会へ行くのは同じであっても、私のように諦念に染まりきってはいない。うらやましいほどに。

 ああ、彼女の言った通りだと思った。今日という金の切れ目に(私とは別の人とのことという意味で、かもしれないけれど)きっぱりとお別れするのが、私たちの関係の望ましい形に違いない。

 一人で歩く暗い帰り道は、ひどく心細く思えた。幹線道路から離れて川の方に向かうと、明かりも音も無くなる。

 彼女は大丈夫だろうかとばかり考えた。この夜、あるいはこの先に。それも結局は、彼女のことを考えるための理屈づけのようなものだ。未練ばかりが残っている。しかし、別の街で、都会で、彼女無しに一人で生きていくのだから、振り払わなければいけなかった。ついさっきの別れが、まるで、もう何年も前の、懐かしくて、時間の経過によって純化された、遠い、尊い思い出のように思えた。

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