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転身物語(ある田舎における)  作者: 入江晶
3. あるカラオケボックスの一室
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3-6. 歌が結ぶ記憶

 ――変なことになる前に離れられて、良かったかもしれないかな。

 ――お祭りが、ですか?

 ――うん。まあぶっちゃけ、職場とか、地元とかも含めて、だけどね。


 彼女は何も言わずに、相変わらず、ただきょとんとしていた。ほとんど、あるいはまったく見たことのなかった反応だった。そして私をじっくりと見つめている。私の顔か、その裏側を覗き込むように。彼女のそんな目が、もしかしたら共感の色を帯びているのかもしれないと思った。いや、そうであればいいのにと思った。それはつまり、私の言葉が彼女に届いていてほしいと思っていたというわけだ。要するに、私は彼女に甘えようとしていた。彼女がそんな私の気持ちに気づいていたのかどうかは分からない。気づいていてくれればいいのにとも思ったし、そう思うことが恥ずかしくもあった。そしてもしこんな私の葛藤に彼女が思い至れば――きりがないのでこの辺で。

 結局、会話はここで途切れてしまった。この気まずさをどう処理しようかと悩んでいたところで、彼女の方から言ってくれる。


 ――何か歌いません? せっかくだから。


 押しつけられたデンモクをあしらって押し問答をした末に、彼女はいたずらっぽく、わざとらしい非難の目を私に向けてから、自分で曲を入れた。

 以前、同じような目的で一緒にカラオケに入った時は、洋楽をいろいろと歌っていた。友達と行くと歌えないからと言って。ある曲について、歌詞の意味は全然分からないけど、「十代(ティーン)(スピリット)みたいな匂い」なんてタイトルだから自分におあつらえ向き、とかも言っていたっけ。いつも彼女は、そういうふうに、まっすぐな気持ちを、回り道をして表現して見せていたような気がする。そして今日は同じバンドの「W()a()i()f() m()e()」(彼女ならこう呼ぶだろう)を歌った――わけがない。彼女には分別があるから。私がいる場で、そこまで露骨に心境をぶちまけたりはしない。

 彼女が歌ったのは、少し前、いや、(驚くことに!)もう九年近く前の映画の主題歌だった。何か不思議なほど大ヒットしたアニメで、私も二回は観に行ったと思う。確か友達と。三回目以降のあった友達よりも早く、私の方の熱は冷めてしまっていたけれど。その頃に私は大学生で、ささやかな都会での生活や講義のペースにもすっかり慣れて要領をつかみ、テストも無事にこなし、あの長い長い夏休み(二ヶ月も続く休みなんて、今ではもう夢のようだ)を、存分に満喫していた時期だった。

 過ぎ去りし時はいつも良かりき、とは言うけれど、その頃の方が実際に私にとって良い時代だったというのは、客観的で明白な事実だと思う。私が都会にいたとか社会の状況がどうだったかというのは実は問題ではなく、私にはその瞬間に時間があり、その先にも時間があった。同じ年代や立場の人たち、つまり友達という遊び相手にも恵まれ、お金は有り余るほどではなくても、生活や慎ましい遊びに困るほどではなかったし、むしろ、制約が使い道を計画することに楽しさを付け加えていた。そして何より、先のことを知らないまま、無責任な子供でいられた。つまり、地元に戻ることだけを優先させられ、さんざん就職のために妥協して正職員との給料の差(特に将来性という意味で)に愕然とするという後の状態なんて想像もできなかっただろうし、する必要もなかった。同じ時に初めて抱くことになった、親類への嫌悪感の味とかにも、まだ無縁でいられた。

 未来を知らないことこそが希望、というのは持って回った陳腐な表現だけれど、理屈としては納得できるものだと思う。その「希望」とかいうのが入っていたのは、本来は「箱」ではなくて「甕」だったと知ったのは、西洋古典文学の講義だった。冗談が面白くて、講義は分かりやすくて奥深い、レポートを張り切って書きたくなる、素晴らしい先生。それもまた楽しい思い出。そこで学んだことに比べると、今私が実際に恩恵を受けている知識というのは、汚れているように思える。泥とか、血とか、他にもいろんな、主に生臭いもので。

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