3-3. 仮面の向こう
――これ、返しますね。
彼女が一枚のカードを私に差し出した。「六根 小夜」という私の名前と、十年以上昔の、髪型が古臭いとかいう以前に、そんな頃のものだというだけでかなり恥ずかしい私の写真が載った学生証。私が前に見た時に貼り付けられていた、今見えているのよりずっと今風な美少女の写真と、偽名のテプラは剥がされている。その偽名は彼女と私が一緒に考えたのだけれど、忘れてしまった。本当の名前の「広米良 燕」には絶対にたどり着かないような、でも忘れた時に備えて思い出す手がかりにするために、こっそり関連付けたものにしようと話し合ったことは覚えている。確かこのカラオケで。部屋はたぶん違っていただろうけれど。それはもう一年近く前のことのはずだった。つまり私たちの関係が始まったのが、そのくらいの時期というわけ。
彼女の安全のための保険として渡した学生証。ある意味では、私たちの関係の担保にもなっていたもの。そこにある彼女と同じ年頃の自分の写真を見ながら、私は言った。
――役に立った?
――助けてくれましたよ、一番危ないところで。ああ、それからこれも。切り札って感じでした。
束になった名刺(印刷所からの納品の時にくすねたりして私が集めたもの)を、彼女は手品に使うトランプのように、手で綺麗に広げて見せた。わざとらしく、滑稽なほど誇らしく。さっき最後の別れをしてきた、私の職場の上役の顔写真が、円形にずらずら並んで私を見ている。私はただ苦笑で答えた。そして彼女は、今度はこれまたわざとらしく険しい表情を作りながら、続ける。
――でも、結構怖かったんです。あの人、あの写真使って脅迫してきたんですよ? 私が向こうに行ってからも続けろって。あり得なくないですか?
――あらら、ショックだなあ。職場だと、穏やかで、いい人ってみんな思ってるけど。
――小夜さんは知ってたでしょ、最初から。私の方がショックですよ。ウザくてスケベなド変態のおっさんだけど、強引なことはして来ないと思ってましたから。
――でも、乱暴はできないっていうタイプだよ。なんでも直接話せばどうにでもできる力があるって思い込んでて。だから、こんなのでもお守りになると思ってた。
――全部、計算通りってことですか。いやあ、かなわねーっすわ、小夜さんには。
確かに私が計算していた通りだった。しかし実のところ、可能性を考え抜いたというほどでもない。でも、あるいはだから、私は彼女のためにできる限りのことをした。学生証や名刺を渡すこともそうだし、「諜報活動」と私たちが言ったこともそうだったし、どんな情報をどこまで明かすか、どんな隙を見せておけばいいかといったことを教えるというのもそうだった。問題なのは、それが全部私の頭で計算したことでしかなく、経験とか、確かな根拠は何もなかったということだ。もちろん、私は彼女が会う相手を知っていて、職場でのやりとりとか、別なところでの不健全で個人的な場面とかで観察していて、私はそれに基づいて計算していた。しかしそれは、彼女の現実において、何も確実ではない。だから、今日まで、つまり最後までうまく行ったというのも、結局のところたまたまそうなっただけなのかもしれない、冗談めかしてしゃべりながら私を見る彼女の笑顔、皮肉げな様子と無邪気さの区別がつかない表情とキラキラした目も、偶然の結果に向けられているということになる。きっと彼女自身も気づかないまま。
それは儚い花だ。種の落ちた土地や気候が良かったからその花は咲いた。何かが少しでも違えば、咲く前に枯れたり、踏みにじられていたかもしれない(例えば彼女の言った「危ないところ」がもう少し違っていただけで)。その花のために、私は何をしたんだろう?
手を差し伸べて豪雨や踏みつける足から守ったとは言えない。実を結ばせるために受粉を助けたり(不適切な連想を誘ってしまう比喩に思える)、日向に植え替えたりした程度のことだった。あるいは、雨乞いをしただけかもしれない。彼女に私の存在は必要だったのだろうか? あるいは、必要や意味があったとしても、不十分であったかもしれないし、もっとうまくやらなければいけなかったのでは?
ずっと密かに、というか見ないようにしながら抱いてきた罪悪感が、全部終わったというのに、忘れるどころか、かえって明瞭になっていた。もう、それを埋め合わせる機会が無くなるからなのかもしれない。今日彼女が渡してくれたお金の分についても。
私たちは対等な協力関係ということにして、互いに同じ相手から得た利益を、均等に折半すると約束した。だから、時々それを渡す機会を作って、同時に情報交換をしたり、私が相談を受けたりしていた。ついでに、他愛ない、しかし個人的な生活には決して踏み込まない雑談や、もっと真剣な進路相談も。
そうやって会うたびに、彼女は、私に多めにお金を渡していたらしかった。最初の時の遠慮がちな様子で私はそれを察し、そのお金の出所の記録を盗み見た時に確かめた。付け加えると、私が彼女と同じ相手からもらった金額も、そうやって記録から推定した数値にぴったり合っていた。だから私は、彼女が過剰に配分してくれた以上のお金を、私から彼女に送金する時に上乗せするようにしていた。彼女がそれに気づいていたのかどうかは分からない。はっきり指摘されたことはない。しかし、これほど気遣いができる、めざとい彼女が気づかないということの方が、不自然だと思う。いずれにしても、こんなことも、結局は私の罪悪感を繕う欺瞞でしかないのかもしれないし、もっと単純で浅ましい、大人として振る舞いたいという意識の表れだったのかもしれない。会った時の店での支払いを、いつも私が持っていたように。




