2-7. 愉悦と慰め
ぞくぞくした。愉悦というか優越感というか、そんなものをこれほどはっきりと感じたのは初めてだった。内心密かに抱くようなものでもなく、テストの点数のような誰かが作った基準による比較を前提するものでもない。私が手で扇の形に広げている、こんな紙切れがそうさせたんだと思うと、ますますその感覚は高まった。
名刺だ。写真まで入っている。名刺なんて他にほとんど見たことがないから、そういうのが普通なのかどうかは知らない。で、その写真は私の場合と違って全然加工されていないから、その柔和な、ただし私には嫌らしくしか見えない笑顔のおっさんが誰なのか、名前とか(「照巣 戴勝」。読めないし、苗字は私と同じくらい変)、役職とか(次長。それがどういうポジションなのかはよく分からないけど、結構偉いらしい)、勤務先の名前とか(駅前の信用組合。よく通るし、口座を作るために親と行ったこともある)、連絡先(ファックスとかいう、使い方も分からない番号もある)とかで丁寧に示されている。一枚はその人に破られ、三枚は見せつけるために私が投げつけ、十枚ぐらいは今私の手の中にあり、鞄の中にもまだある。
私はこの人を追いつめている。私を思い通りになると考えて、餌や力を誇示してきた人を。この町で最後に残った、そして一番鬱陶しかった私の枷が、今外れようとしている。しかしそれだけでこんなに楽しい気分になったわけでもないのだろう。そうやって枷を外すこと自体を、楽しんでいなければ。
――照巣って、変わった苗字ですね。読めなかったっすよ、下の名前も。鳥の名前なんですよね、知らなかったです。でも、偉い人って感じがしますよねえ。
言いながら、自分の言葉が、不必要で過剰なほど、挑発的になっていることは分かっていた。それでも、抑えきれなかった。
こんな機会は、たぶん初めてだった。内心はいつも不愉快なことばかりでも、相手に合わせるようにしていた。今日の二人の友達もそうだったし、この人とのこれまでの関係もそうだった。というか、この町にいる間はいつもだ。そんな面従腹背の態度しかできない自分のその卑屈さは、自分の軽蔑している対象と同レベルに思えた。いくら友人関係や学校生活をうまくこなすためだったり、お金(地元で使うためではない。もっと先の、別の場所での生活のために貯めている。ここには落としてやんない)のためでしかないのだとしても。そうやって割り切るのが、利口で合理的な態度ってものなんだろう。しかしそういう態度をこそ、私は軽蔑していた。
私は今ここで、その軽蔑の対象の一つを捨てる。足蹴にして、ぶっ壊して、捨て去っていく。そこで蹴り飛ばす足に、多少力が入ってしまっているというわけ。ただそれだけ。だから?
とはいえ、その人(照巣氏)が何か言おうと口を動かしたときには、笑顔を意識して作りながら、ビビッて身構えてしまった。頭には鞄の中の最後の秘密兵器のことがよぎって、こいつがこっちに迫ってくるようなことがあったら、あれを取り出してこう振りかざすんだ、と、一瞬の間に動作が全部頭の中で映像になって再生された。幸いにも、向こうにはそんな度胸も狂気も無かったらしい。いや全く、本当に。
――ああ、分かった。馬鹿な真似をしたことは謝るから、ただお願いするよ。なあ、いいじゃないか、このままの関係を続けさせてくれないか。君がこっちに来てくれるんならもちろん交通費は出すし、お小遣いだって、これまでよりももっと払う。いや、僕が行ってもいいんだ。君にとっては得するだけの話じゃないか。もうあんな脅すようなことはしないし、いや、できないのは君だって分かってるだろう。なあ……もう一年にもなるんだよ。お金以上のものだって、僕たちにはあったんじゃないか。
私はその話を、その言葉の一つ一つを、自分でも不思議なほど穏やかな気持ちで聞いた。聞き入った、という方が正しいかもしれない。もうここには何の心配もなく、私はやりおおせた。私の目の前にいるのは、力なく、見込みのかけらもない馬鹿なことを言うしかなくなった、そんな人だった。そう思い、じっくりとその様子、あまりにも情けない様子を観察してみると、その人は、まるで、私とは何の関係もない、ただ哀れな境遇にいるだけの存在に見えてきた。いやまったく、ひどい話ですね。誰がこんなことを?
――大変ですよ、通うなんて。余計な出費もかかりますし。まあ、せっかくこんなきっかけがあるんですから、ここですっきりお別れして終わるのが、いいんじゃないですか? ね?
私は、ずっと前からこの日、あるいはこの瞬間のために用意していた台詞を発した。ただし、考えていたようなとげとげしい調子ではなく、もっと穏やかに、かといって媚びるような感じでもなく、子供にでも話しているように。しかも、ビビったり哀れんだりしたような意識は全く無くて、とても自然にそうなっていた。




