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転身物語(ある田舎における)  作者: 入江晶
2. あるホテルの一室
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2-6. 正しい言葉

 私が思わず笑ってしまいながら見つめていると、ようやくその人はベッドにどっかりと座り直し、喘ぐように、長いけど浅い呼吸を何回かしてから、言った。


 ――いや、してやられたよ、完全に。感心するくらい、見事なやり口じゃないか。これで僕には君を脅すネタがなくなったってことになるな。しかし、少し考えてみてほしいんだよ。今まで君にいくら渡した? 頭のいい君のことだから、だいたいの数字は分かるだろう? それは君にとっての大金だと思うけど、僕にとってもはした金だというわけじゃないんだぞ。いや、それどころか、苦労して稼いだんだ。なあ、君にはその金を作るのにどれくらいの苦労が要るか、分かるか?


 最初はまあまあ落ち着いていた顔が、言葉が進むごとに、だんだんと引きつっていき、いくつもの皺がはっきりと浮かんで、それがどんどん増え、深くなっていって、表情と声音は、泣き出してしまうんじゃないかというようなものになっていった。

 その言葉は、私の耳というか頭というか胸というかを完全に素通りしていった。おかしなことを言われているからでもあったかもしれないけど、私には、小さな子供が泣きながらまくし立てる言い訳を聞いたらこんな感じなんだろうな、と思えた。当人がいくら真剣で必死でも、言っていることが正しいとか間違っているとか以前に(いや、間違っているのだけど)、無駄なのだった。


 ――そっちがどんな苦労をしたかは知りませんけど、私がもらった分のことは、してあげたと思いますよ。料金表、見せた方がいいですか? もう覚えちゃってますよね、ずっと同じままでやってきたんだし。だからまあ、別に、盗んだり変なことして作ったお金ってわけじゃないと思うんですけど。


 笑って答えながら、手や胸や鼻や舌や足の間がぞわぞわとするのを感じた。料金表を作って以来、数字が感覚にはっきりと結びついてしまっている。そして向こうはどう見ても、まだ納得していないというか、引き下がらない気でいるらしい。

 思い出してしまった感覚(特に舌の)を拭い去るために、そして、この場でケリを入れる、じゃなくて、この場にケリをつけるために、私はもう一つの手を使うことにした。向こうだって、あの写真を切り札にしようしたんだろうから、だいたい同じでお互い様ということになる。それはそれで嫌だけど。

 鞄から探り出したもの、手の中に収まった時の感覚としてはさっきの学生証と似ているところもあるそれを、私はその人の間近に差し出した。まずはいったん、その人へまっすぐに視線を向けてから。ついでに、こみ上げる笑いを抑えられないまま。かなりキモかっただろうなと、自分でも思う。


 ――ねえ、次長の照巣てるすさん。


 私の言葉を聞くと、その人は青ざめ、とびかかるようにして、伸ばしていた私の手からそれをぶんどった。結構怖い思いをしたけど、その瞬間だけだ。すぐにその怖さも冷め、鼻に届いた、刺すようでありながら粘っこいひどい臭い(今日はまだシャワーを浴びてなかったみたいだから、いつも以上に最悪だった)に対するむかつきに、上書きされてしまう。

 さてその人の方は、うつむいて私から奪い取ったものをまじまじと観察した末に、ビリビリに破き、床にばらまいてしまった。予想通りの反応、予想以上の効果。ハアハアいう音がはっきり聞こえるほど、呼吸を荒くしている。別の場面で何度も聞いた。腹上死ってこういう時に起きるんじゃないかと思ったこともある。必死すぎるという意味では、そのときも今も同じかもしれない。「必死」、なるほど。


 ――あーあ。もったいないし、散らかりますよ。めっちゃ持ってるから私は別にいいんですけど。


 私はそれを束にして鞄から取り出し、三枚ほどを、うつむいたその人の視線が向いているベッドに放り出した。それを目にして、鬱陶しいぐらいゆっくりと顔を上げて、その人が私を見た。これ以上ないほど情けない表情で。眉を漫画並みにはっきりとハの字にして、口は半開きという。

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