【第一章 - 15】記憶封印術式
ーーその時だった。
「おや、僕の可愛い娘ちゃん。その論文が気になるの?」
耳元で、声がした。
「ぎゃっ!お、おばけ!」
驚きのあまり、れいりは床に転び、集中が途切れる。同時に魔法も解除ーされた、はずだった。
…なのに。
論文は、空中に浮いたまま…。
「久しぶり!れいり、元気にしてた?」
続いて聞こえた、聞き覚えのある声。
「今日は長い出張だったからね。お詫びに、れいりの大好きな死灯蜜、たくさん買ってきたよ」
「…!」
れいりは、はっとして顔を上げる。
そこにいたのはーーやはり、お父さんだった。
「お久しぶり、元気そうで何より」
しかし、れいりの視線はお父さんではなく、いつのまにか論文のほうへ戻っている。
「それより…この論文、分かるの?」
れいりにとって今一番大事なのは、再会の挨拶ではなかった。目の前の論文が、気になって仕方がないのだ。
「そこは先に、お父さんの帰りを祝うべきじゃないかい?1週間ぶりなんだから…」
そんな言葉もどこか上の空で、れいりは論文を見つめたまま言う。
「…これ、お父さんが書いた論文だよね?」
一瞬、お父さんが目を輝かせる。
「さすがだね。そうだよ、僕が書いたんだ」
驚きはあったが、同時に納得もしていた。執筆や思考の癖が、そこか似ている気がしたからだ。
「でも…なんで?」
れいりは首を傾げる。
「なんで、お父さんの論文がお母さんの部屋にあるの?」
「うーん…」
お父さんは少し考え込む。
「家を出る前、自分の部屋に置いていったはずなんだけどな…」
「まぁ、一旦その件は後にして…論文に何が書いてあるのか知りたいんだろう?」
その言葉にれいりは頷いた。
記憶封印術式ーー
それは、帝国において一般使用が禁止されている五大術式の一つだ。
精神療養魔法の系統に属し、強いトラウマ体験による精神的ショック症状を抑えることが出来る。
しかし、この術式には致命的な問題があった。
それは再発を防ぐため、トラウマの記憶そのものを消去すること。しかし、治療を成立させるその過程でトラウマ以外の記憶まで巻き添えにしてしまう可能性があるのだ。
この治療法による後遺症が残る例も少なくない。
中には、ほぼすべての記憶を失ってしまうケースすらある。
例えば、ルミナのように…。
記憶封印術式と魔力中毒症状は、構造的に似通った部分がある。今回のルミナは、回復魔法を継続的に浴びせられたことで魔力中毒を引き起こした例だが…意図的に他者へ魔力を供給し続け、魔力中毒状態を作り出す手口は暗殺にも使われてきた。
記憶封印術式は、精神の「記憶領域」の一部にだけ作用させ、脳のある部分だけを壊死させることで成立する。
要するに、扱いを誤れば記憶すべてを失うーーいや、最悪の場合、死亡する危険すらある術式なのだ。
「そこで、僕は考えたんだ」
お父さんは少し得意げに言った。
「記憶を消すんじゃなくて、抑える術式を作れないかってね」
確かに、記憶封印術式が五代術式になった時、そういった術式を使う提案もされていた。
しかし、提案された当時の技術ではどうにもならなかったのだ。
その時考案された術式は、従来の壊死とは違う。消すのではなく、記憶に鍵をかける。
必要な時まで封じ、無理に触れさせないーーそんなイメージ。ただし欠点もあった。
術式の効果はおよそ一年。
維持するには、定期的に再施術が必要だった。
この時考案された術式を、お父さんは実際に構築したのだ。でも、これは誰にでも出来るような技ではない。魔法への理解が人一倍深いお父さんだからできたものだ。
「まぁ、こんなところだよ」
説明を終え、れいりはもう一度論文に目を通す。これは、記憶封印以外にも、何かに応用出来そうだ…。
思考を巡らせかけた、その時ーー
「ご飯、できたわよ」
リビングのほうから、お母さんの声が響いた。れいりは論文を閉じ、扉に手をかける。
ーーが、そこで思い出す。
「…鍵、開かないんだった!」
膝から床に崩れ落ちるれいりを見て、お父さんが呆れたように言った。
「れいり…一体何やってるんだ?」
指を一振りすると、扉から「カチャ」という音がする。
「お母さんの部屋は、オートロックだろ…」
お父さんはため息を吐き、扉を開けた。
そういえば、鍵を開けるための暗号魔法を教えて貰っていた。きっと、入るときはお母さんが遠隔で鍵を開けておいてくれていたのだろう。
れいりはランプを拾い上げ、お父さんの背中を追いかける。廊下を歩きながら、れいりはふと思いついた。
「明日お父さん書斎、入ってもいい?」
「…ねぇ、僕の話、聞いてた?」
れいりは元気よく首を横に振った。
そもそも、何かを話していたことに気が付かなかった。文句を言いかけたお父さんだったが、ちょうどそのとき、リビングに着く。




