第35話 ノルトヴァルトの兄弟たち
その夜――
最前線基地の一室。
リョージは寝台に腰を下ろしていた。
窓の外は暗く。
遠くで焚火の明かりが揺れている。
深夜なのに、かがり火の前をひっきりなしに人影が横ぎる。
何事か分からぬ小さな話し声が、絶えず聞こえてくる。
リリアは部屋の隅で膝を抱えていた。
濃い色の長髪が肩にかかり、儚げな横顔が薄明かりに浮かぶ。
部屋の中は沈黙が続いていた。
リリアがゆっくりと立ち上がった。
「少し、夜風に当たってきます」
「こんな時間に?」
リリアは答えず、扉へ向かう。
「リリア」
呼び止めると、リリアが振り返った。
人間の世界で知り合いはリョージしかいないはずだ。
いくら魔族であっても、リョージの庇護なしで出歩くのは危険だろう。
でも、リョージを見つめる濃い緑色の瞳は、静かに心の奥を見透かしているかのようだった。
「私も女なのです」
僅かな微笑みを残して、扉が静かに閉まった。
廊下に消えていく足音。
部屋に静寂が戻る。
何の話だ?
明日のために少し寝ておかなければと思う。
しかし、エレナの事ばかり考えてしまってなかなか寝付けない。
どれくらい時間が経ったのか。
コン、コン。
扉を叩く音。
「——リョージ」
トクリ。
心臓が高鳴る。
エレナの声だ。
扉の向こうに立つエレナは、普段の騎士装束ではなかった。
簡素な白い寝衣。
金髪が肩に流れる。
闇の中、遠い炎の薄明かりに照らされ、揺らめいている。
「入っても、いいですか?」
声が震えている。
リョージは少し迷った。
このままエレナを連れて逃げだすべきなのか。
扉が静かに閉まった。
二人きり。
エレナがリョージの前に立つ。
その瞳に、決意の色が浮かんでいる。
「明日、私は……魔族の元へ行きます」
「……ああ」
「もう、戻れないかもしれません」
その危険性は――高い。
エレナの手が、胸元のノクス・コルに触れる。
星々の煌めきが、淡く明滅している。
「だから……今夜だけは」
エレナが一歩、近づく。
その瞳が、真っ直ぐにリョージを見つめている。
「……エレナ」
エレナはふわりと飛び込んできた。
リョージの腕の中に広がる甘い香り。
ほのかな重み。
二人はもつれ合いながらベッドへと倒れ込んだ。
細い腕がリョージの背中をかき抱く。
胸に顔を埋め、肩が小刻みに震えている。
リョージは少し戸惑いながらも、エレナの背に手を回した。
トクトクと速なる心音と、暖かさが手の平にじんわりと伝わってくる。
「必ず、助ける」
エレナは胸の中で頷いた。
焚火の火が、大きく揺らめいた。
唇に柔らかく濡れた感触が重ねられた。
炎は静かに揺らめく―――。
翌朝。
目を覚ますと、エレナはリョージの隣ですでに身を起こしていた。
窓から差し込む朝日が、金色の髪を照らしている。
エレナはリョージの顔を、静かに見つめた。
「おはよう」
なんとなく初めて会った時を思い出してしまったよ。
気恥ずかしい。
エレナが微笑む。
何か吹っ切れたのだろう、晴れやかな笑顔だ。
「エレナ」
「はい」
エレナの手を握る。
その瞳に、迷いはなかった。
――神チート。
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【スキル発動】
神チート〈ver.2.0.0〉:追跡機能起動
マーキング対象:エレナ・ノルトヴァルト
遺伝子追跡:可能
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——よし。
《エクスターナル・デバイス》
荷物から取り出した紙が淡く光り、子機ヒトガタが生成される。
「エレナ、これを俺だと思って持っていてくれ」
人の形をした紙片をエレナに手渡した。
「これは?」
「お守りだ」
エレナは紙片を胸元に押し付けるように抱きしめた。
「ありがとうございます」
そのまま、エレナは一度も振り返らず、部屋を出ていった。
◇
人質交換の刻が、近づいていた。
草原に、二つの陣営が向き合っている。
ノルトヴァルト側は、ルートヴィヒを中心に、リョージと騎士たちが並ぶ。
魔王軍側はアシュレイとグラドの後ろに、騎士と同数の魔族が立ち、その背後に縛られたカイルが立たされていた。
エレナは一歩前へ出た。
騎士装束に身を包み、胸元にノクス・コルを下げている。
金髪が朝の陽ざしに輝いている。
「エレナ・ノルトヴァルト、参りました」
アシュレイが頷いた。
「カイルを解放しろ」
グラドがカイルに結ばれた腰縄を手放した。
猿轡は外されたが、両手は縛られたままだ。
カイルが魔族兵に促されよろめきながら、こちらへ歩いてくる。
エレナが、魔王軍側へ向かって歩き出した。
陣営同士の真ん中で二人がすれ違う。
「カイル、大丈夫? 無事ね?」
憔悴しきった顔のカイルが掠れた声で呟いた。
「あっ……あぁ……」
言葉がかすれる。
「な……ぜ……」
ようやくそれだけ絞り出したカイルを、エレナは見つめ、やさしく微笑んだ。
「私、あなたのお姉ちゃんなんだからね」
カイルの目が見開かれた。
ぶわりとあふれ出た涙が、頬を伝い流れ落ちる。
エレナは、その涙を見ないように前を向き。
魔王軍の陣営へと向かう。
「待って!」
カイルが叫ぶ。
もうその手は届かない。
「待って、エレナ! おねぇ——ちゃん!」
カイルはふらふらとした足取りで、エレナの背へ追いすがろうとした。
駆け付けた二人の騎士がカイルの両腕を掴み、引き戻す。
「離せ! 離してくれ! おねぇちゃん! 行っちゃだめだ! 奴らが約束を守るはずがない! 僕が、僕が行けばよかったんだ!」
拘束を振りほどこうと藻掻くが。
カイルの悲鳴は届かない。
エレナは振り返らなかった。
目前に立ったエレナを、アシュレイは迎え入れるように両手を広げた。
「ノクス・コルを確認させていただく」
エレナはノクス・コルをもち、アシュレイの眼前にかざした。
淡く夜色の光を放つ、ノクス・コル。
「確かに、本物だ」
満足げに頷くと、アシュレイは仰々しく紳士の礼を披露した。
「エレナ・ノルトヴァルト殿、ようこそ我が陣営へ」
魔王軍はエレナを囲むようにして陣を後にした。
この後遺跡まで後退。
そこから三日をかけて、段階的に全軍を魔族領へと撤収させる。
全軍が無事魔族領に帰還すれば、エレナとノクス・コルを開放する。
これが昨日結んだ協定の内容だ。
カイルは地面にひざまずき、嗚咽を繰り返している。
「ひっ。ぐっ、おねぇちゃん」
ルートヴィヒがカイルの前に膝をつき、肩を掴んだ。
「ルート、ヴィヒ、兄上」
ルートヴィヒは思いきりカイルを抱きしめた。
「馬鹿野郎——」
声が震えている。
肩も小刻みに揺れていた。
カイルの目から、とめどなく涙が溢れる。
いつも冷徹に任務をこなす兄が、自分のために泣いている。
カイルは兄の胸の中で、声を上げて泣いた。
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