09プログラム製造工程
山下さんとの飲み会の翌日、漣はさっそく行動に移した。
楽天証券のサイトを開き、画面の指示に従ってNISA口座の開設を申し込む。マイナンバーカードの読み取りや本人確認書類のアップロードなど、初めての操作に戸惑いながらも、ネットで手順を調べ、なんとか設定を完遂させた。
選んだ銘柄は「楽天・プラス・オールカントリー株式インデックス・ファンド」。
毎月の積立額は一万円。楽天ポイントが貯まってお得だという「楽天カードクレジット決済」を選択した。すでに企業型DCで月五千円が給与から引かれているが、転職して年収が上がったこともあり、この金額なら無理なく続けられるはずだ。
すべての設定を終え、確認ボタンを押したとき、漣は椅子にもたれかかって大きく息を吐いた。
「……どっと疲れたな」
これ、何の知識もないところから一人で始めるのは相当にきつい。山下さんのアドバイスと、自分で買った入門書がなければ、途中で投げ出していただろう。
だが、これで「仕組み」は整った。あとは毎月、自動的に未来への投資が積み上がっていく。
◇
季節は巡り、冬が訪れた。
アークシステムインテグレーションズでの業務は、大きな節目を迎えていた。
漣が苦労して書き上げた詳細設計がようやく完了し、いよいよプログラム製造工程へと進むことになったのだ。
実際のコーディングは、二次受けの協力会社に委託する。
発注先は、沖縄に拠点を置く「株式会社サウスブリッジ」という会社だ。いわゆるニアショア開発である。
ニアショアとは、地方の企業に開発を委託する手法だ。最大の目的は人件費や賃料を抑えることによるコスト削減だが、海外へのオフショア委託と違い、言語や文化の壁がなく、時差も存在しない。国内という安心感がありながら、高いコミュニケーション品質を維持できるのが強みだった。
ある日の午後、漣はリーダーの遠藤に呼び出された。
「佐藤、お前にニアショアの対応を任せる」
遠藤をはじめとする他のメンバーは、すでに次工程であるシステムテストの準備に追われ、手一杯の状態だった。
漣に与えられた任務は、サウスブリッジのメンバーに詳細仕様を正確に説明し、プログラミングと単体テストを完遂させること。そして、それらが指示通りに正しく作られているか、品質を確認することだ。
「……承知しました。やらせてください」
初めて責任あるポジションを任され、漣の胸に心地よい緊張感とやる気が宿る。
リモート会議システムを通じ、沖縄のメンバーに仕様を伝達する。画面の向こうに映るサウスブリッジのエンジニアたちは、真剣な表情で漣の説明に耳を傾けていた。
開発がスタートした。
プログラムの不具合は、見つかる時期が遅くなるほど修正のコストが膨れ上がる。早い段階で品質を高めておくことが、プロジェクト全体の成否を分ける。
(ここで手を抜くわけにはいかない)
漣は、サウスブリッジから上がってくるプログラムの一行一行に、すべて目を通した。
システムの構成は、言語がJava、データベースがOracleというオーソドックスなWebシステムだ。前職のトライコードで嫌というほど泥臭くコードを書いてきた漣にとって、それは慣れ親しんだ構成だった。
ソースコードを読めば、その意図が手に取るようにわかる。
自分が設計した「理想」が、沖縄のメンバーの手によって「現実」へと形を変えていく。そのプロセスをチェックする作業は、想像以上に充実していた。
かつて自分が「下流」で苦労していた頃の経験が、今、「上流」としての品質管理の視点に変わって活きている。
漣はモニターに向き合い、確かな手応えを感じながら、静かにキーボードを叩き続けた。
だが、順調に見えた開発工程にも、影が差し始める。
サウスブリッジから上がってくるソースコードを数本読み終えたところで、漣はわずかな違和感を覚えた。
(……これ、意図がズレてないか?)
さらに読み進めていくうちに、確信に変わる。メンバーによって、コードの品質に明らかなバラつきがあるのだ。
あるメンバーは完璧に仕様を網羅しているが、別のメンバーのコードは、詳細設計の行間に込めた意図を正しく読み取れていない。
「すみません、この部分のロジックについて、少しお時間いいですか」
漣はリモート会議の画面越しにメンバーを捕まえ、丁寧に説明を始めた。
「ここをこう書くと、データの整合性が崩れる可能性があります。設計書のこの図の意図はですね……」
言葉を選び、相手の理解度を確認しながら一歩ずつ歩み寄る。かつて自分が「下流」で苦しんだからこそ、どこで躓きやすいかが手に取るようにわかるのだ。
そうやって一人ひとりと向き合い、泥臭く不具合を事前に潰していく。漣の目から見ても問題のない、納得のいくソースコードが少しずつ出来上がっていった。
◇
気づけば、窓の外は真っ暗だった。
自分の設計を説明し、上がってきたコードをレビューし、修正を依頼する。その繰り返しの中で、漣の残業時間は日に日に膨れ上がり、身体にはずっしりとした疲労がたまっていた。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
深夜のオフィス。モニターの明かりに照らされながら、漣はふっと口元を緩める。
(……大変だけど、面白いな)
かつて言われた通りにコードを書いていた時とは違う。自分の設計が血肉となり、他人の手を通じてシステムという形になっていく。その中心に自分がいる。
溜まった疲れを上回るほどの、確かな充実感がそこにはあった。
◇
年末。街が慌ただしい活気に包まれる中、漣と山下はいつもの居酒屋で、ささやかな忘年会を開いていた。
忘年会といっても、いつものように暖簾をくぐり、いつもの席でジョッキを傾けるだけだ。それでも、この場所が漣にとって最も落ち着ける場所になりつつあった。
「……それで、今は沖縄のニアショアとやり取りしながら、実装工程を回しているんです」
漣は、この数ヶ月の奮闘を報告した。詳細設計の意図を伝える難しさ、上がってきたコードの品質管理、そして膨らんだ残業時間。
「大変ですが、自分の設計が形になっていくのは、これまでにない手応えがあります」
山下は「そうか」と短く応じ、目を細めて頷いた。
「着実に実力をつけているね。佐藤くん、その調子だよ」
その一言が、溜まっていた疲れを溶かしていくようだった。
◇
「仕事の方は順調そうだが、プライベートの備えも進んでいるようだね。つみたてNISAも始めたんだろう?」
山下さんの言葉に、漣はスマホの画面を開いて見せた。
「はい。楽天証券で口座を作って、オルカンを買い始めました。今のところ基準価額も順調に上がっていて、含み益が出ているのを見ると……なんだか、いい感じです」
「うん。最近は市場の地合いがいいからね。良い時期に資産運用を開始できたと思うよ。これで『ふるさと納税』『企業型DC』『NISA』。基本的な資産運用の三本柱は、すべてスタートラインに立てたわけだ」
「ありがとうございます。山下さんのおかげです」
漣はジョッキを置き、ふとした疑問を口にした。
「……ところで。俺、次は何をすればいいんでしょうか?」
山下は「そうだね」と呟き、少しだけ姿勢を正した。
「資産運用の最初のステップがひと段落したところで、ここいらで『資産形成』の根本的な話を整理しておこうか」
「基本の話、ですか。ぜひお願いします」
漣はジョッキを置き、山下の言葉を逃さないよう居住まいを正した。




