10システムテストと株価暴騰
「人間が生きていく上で得る資本、つまり『富の源泉』は、大きく分けて三つあるんだ。社会資本、労働資本、そして金融資本だ」
「……社会資本、労働、金融」
漣は頭の中でその言葉をなぞる。
「まず社会資本。これは家族や友人、コミュニティとの繋がりだね。子供が親に養ってもらうのは、この社会資本の恩恵だ。だから子供のうちは、こればかりはどうしようもない。環境に左右される部分が大きいからね」
「最近よく聞く『親ガチャ』って言葉は、まさにそれですね」
「そうだね。そして次に、自分の時間と能力を使って働き、対価を得る。これが労働資本。一般的なビジネスパーソンの主戦場だ」
「はい。今の僕のメインですね」
「そして最後が、株や不動産などの運用益で得るお金。これが金融資本だ。佐藤くんが最近始めたのがこれだね」
山下はグラスの縁をなぞりながら続けた。
「大切なのは、この三つの資本をバランスよく獲得することなんだ。そしてその比重は、ライフステージごとに戦略的に変えていく必要がある」
「比重を、変える……?」
「そう。子供の頃は社会資本だけ。社会人になったら、特に若いうちは『労働資本』を徹底的に強化することに努めなければならない。自分の市場価値を上げ、稼ぐ力を鍛えるんだ。そして年齢を重ねるに従って、そこで得た余剰資金を投じて『金融資本』の比重を大きくしていく」
◇
「日本人は、一生を『労働資本』だけで戦おうとする人が多い。これでは、いつまでも体力が尽きるまで働き続けなければならない。だが一方で、若いうちから無理をして『金融資本』の強化に走りすぎるのも良くないんだ」
山下は少しだけ困ったように笑った。
「最近は『NISA貧乏』なんて言葉があるくらいだからね。投資額を増やすために、今の生活や人間関係、自己研鑽の費用を削ってしまう。これでは本末転倒だよ」
「NISA貧乏……なんだか、身につまされる言葉ですね」
「何事も極端に偏るのは危険だ。じゃあ、今の佐藤くんがやるべきことは何か?」
山下は真っ直ぐに漣の目を見た。
「佐藤くんの場合、二十代のうちは、目の前の仕事を全力で頑張り、評価をもらって、給料を上げてもらうこと。つまり『労働資本』を最大化することだ。それが、将来さらに大きな『金融資本』を積み上げるための、最強のブースターになるんだよ」
労働資本を高める。
それは、今向き合っている詳細設計のレビューや、ニアショアとの品質管理のひとつひとつに、本当の意味で繋がっているのだ。
「……わかりました。まずは自分のエンジニアとしての価値を上げる。それが一番の投資になる、ということですね」
「その通り」
山下は嬉しそうに笑い、二人は新年に向けた最後の一杯を酌み交わした。
◇
年が明け、正月休みが明けてしばらくすると、プログラム製造工程はなんとか無事、完了させることができた。
そして、プロジェクトはいよいよ山場であるシステムテストへと突入した。
システムテストの期間中、メンバーは全員、客先のオフィスに常駐してテストを行った。独特の緊張感が漂う中、遠藤たちが心血を注いで準備したテストシナリオに従い、一つひとつ機能を検証していく。
幸い、テストは比較的安定して進んだ。漣がニアショアのソースコードを一行ずつ泥臭くチェックし、事前に不具合を潰し込んできた成果だった。
システムテストで予期せぬバグが噴出し、プロジェクトが炎上していくというのは業界ではよくある光景だ。だが今回は、最悪の事態を回避できそうだった。
もちろん、すべてが完璧というわけではない。仕様の細かな不備からくる不具合はいくつか発見された。そのたび、エンドユーザーと対応策を検討し、設計書を修正しては沖縄のサウスブリッジへプログラムの修正指示を出す。
遠藤の鋭い指示のもと、漣は右へ左へと走り回った。必死だった。
目まぐるしく過ぎていく日々の中、システムテストはなんとか完了。無事にリリースを迎えたころには、長く厳しい冬もようやく終わろうとしていた。
◇
プロジェクトの完遂を祝い、打ち上げが行われた。
漣にとっては、転職してから何もかもが初めて尽くしのプロジェクトだった。正直に言えば、心身ともに疲れ果てていた。だが、グラスを傾けながら振り返ると、「少しは上流SEとして成長できたかもしれない」という確かな手応えがあった。
ふいに、隣に座っていた遠藤が瓶を手に取った。
「佐藤、注いでやる」
「あ、ありがとうございます!」
慌ててグラスを差し出す漣に、遠藤は淡々と、しかしはっきりと言葉を添えた。
「今回、お前はなかなか良かったぞ。助かった」
いつも手厳しい遠藤からの、思いもよらぬ言葉。
漣は胸が熱くなるのを感じた。完璧主義で妥協を許さないあの人に、少しは認めてもらえたのだろうか。
喉を通るビールの苦味さえ、今は心地よかった。
「やっていけるかもしれない」
小さな、けれど揺るぎない自信が、漣の中に静かに根を下ろした瞬間だった。
◇
リリース後の目まぐるしい日々からようやく解放され、一息ついたときのことだった。漣はふと、設定したきりになっていたNISA口座のことを思い出した。
積み立てを始めて、数か月。
仕事の忙しさにかまけて放置していたが、一体いま、いくらになっているのだろう。
漣はスマホを取り出し、楽天証券のアプリを開いた。
「……すごく増えてる」
思わず声が漏れた。
これまでの合計積立額は四万円。それに対して、画面に表示された評価額は43,660円になっていた。
プラス3,660円。率にして約九%の増加だ。
以前、山下さんが言っていた「米国株の成長は年利5~10%程度」という言葉が脳裏をよぎる。たった四ヶ月の運用で、その一年分に相当するパフォーマンスを叩き出しているではないか。
気になってオルカンのチャートをチェックしてみると、去年の夏の大暴落が嘘のように、そこからは綺麗な右肩上がりの曲線を描いていた。
ニュースのヘッドラインには、二〇二五年の幕開けとともに発足した第二次トランプ政権の文字が躍っている。就任直後から連発される規制緩和と減税への期待感が、市場を強烈に押し上げているらしい。
そのままYouTubeを開けば、さらに過激な言葉が溢れていた。
『減税と規制緩和で米国株は向こう四年安泰』
『今買わない奴は一生貧乏』
レバレッジをかけて一攫千金を狙う手法が「正解」として語られ、米国一強の勢いを見た配信者たちは、口々にこう煽っていた。
『オルカンなんて効率が悪い。今すぐS&P500一本か、ハイテク特化に乗り換えるべきだ』
画面の中の熱狂が、漣の焦りをかき立てる。
このまま堅実に月一万円ずつオルカンを買っているだけでいいのだろうか。もっと効率の良いやり方があるのに、自分はチャンスを逃しているのではないか。
こうしちゃいられない。
漣は逸る気持ちを抑えきれず、山下へLINEを入れた。
◇
いつもの居酒屋。赤提灯の明かりが、冷えた身体に暖かく馴染む。
「佐藤君、久しぶりだね。仕事は落ち着いたかい?」
山下は、いつもと変わらぬ穏やかな声で迎えてくれた。
「はい、おかげさまで。無事、リリースを迎えることができました」
挨拶もそこそこに、漣は身を乗り出して切り出した。
「……山下さん。今、株価の調子がすごく良いじゃないですか! 僕のオルカンも利益が出ています。ネットでも『今を逃すな』『一括投資のチャンスだ』みたいな情報に溢れてて。正直、こんなことなら、もっと積立金額を増やしておくんだったなーって後悔してるくらいなんです」
漣は、興奮冷めやらぬ様子で一気にまくしたてた。
「今からでも追加投資したいんですけど……山下さん、何かおすすめの銘柄やタイミングはありますか? やっぱりハイテク株がいいですか?」
前のめりになる漣に対し、山下は杯を置くと、驚くほど冷静な顔をしていた。
はしゃぐ漣をそっと手で制し、重みのある声で言った。
「……今、追加投資してはいけないと、俺は思っている。淡々と、今の積立だけを続けておくべきだと思うよ」
予想だにしない山下の返しに、漣の動きが止まった。
「へ……?」
思わず間の抜けた声が出る。
「それ……いったい、どういうことですか? 今、こんなに上がっているのに」
山下は静かに頷き、空いたグラスをじっと見つめた。
「これは、とても大切なことなんだ。いいかい、佐藤くん」
山下は静かに語り始めた。




