07新たな門出と洗礼
数日後。
漣は、アマゾンで注文した企業型DCの入門書を手に取っていた。
ページをめくる。
制度の仕組み、運用の考え方、資産配分――。
読み進めるうちに、自然と苦笑が漏れた。
――結局、山下さんの言ってた通りだ。
あの場で聞いた内容と、ほとんど同じことが書かれている。
断片的だった知識が、本の中で一本の線になっていく。独学の知識が、経験者の言葉によって裏付けされ、理解がじわりと深まっていく感覚があった。
◇
だが、それだけではなかった。
読み進めるうちに、新しい言葉が目に入る。
個人型確定拠出年金――iDeCo。
企業型DCと似た仕組みだが、こちらは個人で加入するものらしい。主に自営業者などが対象、と書かれている。
――イデコ。
聞いたことはあった。だが、その意味までは知らなかった。こういうことだったのか、と小さくうなずく。
◇
さらにページをめくる。
そこで、改めて強調されていた一文に、手が止まった。
――原則、六十歳まで引き出せない。
頭では理解していたはずだった。だが、こうして文字として突きつけられると、重みが違う。
長期運用。老後資産。
言葉は簡単だが、その実態は「今のお金を未来に固定する」ということだ。
漣は、しばらくそのページを見つめた。
◇
そして、もうひとつ。
本の後半で、別の制度が紹介されていた。
NISA。
一定額までの投資利益が非課税になる制度――らしい。ここまでは分かる。だが。
――いまいち、ピンとこない。
いつでも引き出せる。自由度が高い。そう書かれている。
「老後まで絶対に守る金」と「いつでも使える自由な金」。自分は今、どちらを優先すべきなのか。それとも両方なのか
世の中ではその比較がよく語られているようだが、今の漣にはまだ、その議論に乗れるほどの明確な判断基準はなかった
◇
――知らなかった。
社会人として働いていながら、こんな基本的なことすら。
漣は、静かに本を閉じた。
これまではキャリアのことばかり考えていた。
だが、お金のことも、同じくらい重要だ。むしろ、逃げてはいけないテーマなのだ。
◇
ふと、山下の顔が浮かぶ。
あの人は、すでに自分なりの答えを持っているのだろう。
きっとまた、本質だけを教えてくれるはずだ。
――今度、聞いてみよう。
◇
退職までの日々は、驚くほどあっという間に過ぎ去っていった。
残された時間は限られていたが、任された仕事だけはきっちりと仕上げたつもりだ。それが、お世話になった会社への最低限の義理だと思ったからだ。
自己都合で会社を辞めていく自分に、チームの皆は温かい声をかけてくれた。
「寂しくなるけど、新しい場所でも頑張れよ」
「佐藤くんなら大丈夫だよ、期待してるからね」
ありがたさと同時に、少しばかりの申し訳なさが胸を突く。
だが、前に進もう。そう決めたのだ。
深く一礼し、漣は顔を上げた。
住み慣れたトライコードのオフィスを後にする足取りは、不思議と軽かった。
◇
十月。
新しい季節の始まりとともに、漣はアークシステムインテグレーションズ株式会社へ入社した。
最初は、基本業務や事務手続きの説明が続いた。そのなかで、企業型DCについての説明もあった。
「こちらに関しては、共有フォルダにあるWEB資料を各自で確認しておいてください」
担当者の説明は、それだけだった。
たしかにこれでは、めんどくさがりの人は放置して何もしないだろう。よく分からないまま、リスクのない元本確保型に設定されるのを待つだけになる。
(……でも、俺は違う)
漣は、山下のアドバイスを思い出していた。
デスクのパソコンで専用サイトにログインすると、迷わず配分を「外国株式インデックスファンド」に全振りした。さらに、マッチング拠出として月五千円を追加した。
手取りが減るのは痛いが、将来への投資だ。
まずは無理のない範囲で。
設定完了のボタンを押すと、画面に「登録を受け付けました」という無機質な文字が表示された。
たったこれだけの操作で、自分の未来が少しずつ変わり始める。
漣は深く息を吐き、真新しいデスクに視線を戻した。
◇
しかし、新しい環境は甘くはなかった。
最初に漣に任された業務は、詳細設計だった。
今までコーディングばかりを積み重ねてきた漣にとって、設計書をゼロから書くのは、これが初めての経験だった。
チームのリーダーは、遠藤という漣より四つ上の男性社員だ。
「……よろしく」
遠藤は言葉少なにあいさつを交わすと、すぐに基本設計書と詳細設計書のサンプルを漣のデスクに置いた。
「じゃあ、これを見て進めておいて。できたら呼んで」
それだけ言うと、彼は自分のモニターに向き直った。
歓迎されている、という空気は微塵も感じられない。中途採用への即戦力期待か、あるいは単に多忙ゆえの余裕のなさか。漣は試されているようなプレッシャーを感じながら、見よう見まねで詳細設計書を埋めていった。
◇
数日後。書き上げた資料を手に、漣は遠藤のレビューを受けた。
「……この箇所、記載がロジカルじゃない。これじゃ、プログラマーへの指示があいまいになるよね」
遠藤の指先が資料を叩く。
「この処理、具体的にどうやって実装するつもりなんだ?」
「いきなり、こんな細かいことを書いてどうするの。初めて見た人がこれだけで理解できるとでも?」
矢継ぎ早に、容赦のない指摘が飛んでくる。
漣はぐうの音も出なかった。
惨敗だ。
自分が「書いた」と思っていたものは、ただ文字を並べただけの、中身のない箱だった。
「……この程度か」
最後にそう吐き捨てるように言われ、レビューは終わった。
悔しかった。
「コードが書けることと、システムを設計できることは別物だ」という現実を突きつけられたような、情けない感覚が込み上げる。
だが、指摘の内容を頭の中で反芻すると、いくつもの「気づき」があった。
詳細設計は、単に基本設計を細かく書けばいいわけではない。
上流工程の「意図」と、下流工程の「実装」をつなぐ橋なのだ。
漣は席に戻り、一から資料をやり直した。
「トライコード時代、自分がこの設計書を渡されたら、迷わずに組めるだろうか?」
その問いを自分に突きつけながら、構成を練り直す。
複雑なロジックになるところは、実装レベルの処理を記した別紙を作成した。
◇
翌日。再度、遠藤の席へ向かった。
心臓が嫌な音を立てている。
漣は緊張を押し殺し、修正した内容を説明した。
説明し終えた後、遠藤はしばらく黙って資料を見つめていた。
「ふむ」
やがて、短く一言つぶやいた。
「このデータ取得処理。SQLには、この条件も含めてしまってもいいかもな」
「この処理は、このままでは性能問題が出るかもしれない。こうしたほうがいいだろう」
相変わらず指摘は多い。
だが、その内容は昨日とは明らかに違っていた。
単なるダメ出しではない。ともに設計を精査している、そんな「技術者同士」の対話に近い感じだ。
「じゃあ、今の指摘事項を反映して、また見せて」
遠藤の声は、昨日よりもどこか柔らかかった。
漣は少しだけ、心の底からホッとした。
と同時に、設計というものの奥深さを、その片鱗を教えてもらった気がした。
「ありがとうございました!」
そう言って席に戻る漣の足取りは、昨日よりもずっと軽かった。




