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がけっぷち新人SE、資産形成を始めたら人生が変わり始めた件  作者: しばたろう


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07新たな門出と洗礼

 数日後。

 

 漣は、アマゾンで注文した企業型DCの入門書を手に取っていた。

 

 ページをめくる。

 制度の仕組み、運用の考え方、資産配分――。

 

 読み進めるうちに、自然と苦笑が漏れた。

 

 ――結局、山下さんの言ってた通りだ。

 

 あの場で聞いた内容と、ほとんど同じことが書かれている。

 断片的だった知識が、本の中で一本の線になっていく。独学の知識が、経験者の言葉によって裏付けされ、理解がじわりと深まっていく感覚があった。

 

 

 だが、それだけではなかった。

 読み進めるうちに、新しい言葉が目に入る。

 

 個人型確定拠出年金――iDeCoイデコ

 

 企業型DCと似た仕組みだが、こちらは個人で加入するものらしい。主に自営業者などが対象、と書かれている。

 

 ――イデコ。

 

 聞いたことはあった。だが、その意味までは知らなかった。こういうことだったのか、と小さくうなずく。

 

 

 さらにページをめくる。

 そこで、改めて強調されていた一文に、手が止まった。

 

 ――原則、六十歳まで引き出せない。

 

 頭では理解していたはずだった。だが、こうして文字として突きつけられると、重みが違う。

 

 長期運用。老後資産。

 言葉は簡単だが、その実態は「今のお金を未来に固定する」ということだ。

 

 漣は、しばらくそのページを見つめた。

 

 

 そして、もうひとつ。

 本の後半で、別の制度が紹介されていた。

 

 NISA。

 

 一定額までの投資利益が非課税になる制度――らしい。ここまでは分かる。だが。

 

 ――いまいち、ピンとこない。

 

 いつでも引き出せる。自由度が高い。そう書かれている。

 「老後まで絶対に守る金」と「いつでも使える自由な金」。自分は今、どちらを優先すべきなのか。それとも両方なのか

 

 世の中ではその比較がよく語られているようだが、今の漣にはまだ、その議論に乗れるほどの明確な判断基準はなかった

 

 

 ――知らなかった。

 社会人として働いていながら、こんな基本的なことすら。

 

 漣は、静かに本を閉じた。

 

 これまではキャリアのことばかり考えていた。

 だが、お金のことも、同じくらい重要だ。むしろ、逃げてはいけないテーマなのだ。

 

 

 ふと、山下の顔が浮かぶ。

 あの人は、すでに自分なりの答えを持っているのだろう。

 

 きっとまた、本質だけを教えてくれるはずだ。

 

 ――今度、聞いてみよう。

 

 

 退職までの日々は、驚くほどあっという間に過ぎ去っていった。

 

 残された時間は限られていたが、任された仕事だけはきっちりと仕上げたつもりだ。それが、お世話になった会社への最低限の義理だと思ったからだ。

 

 自己都合で会社を辞めていく自分に、チームの皆は温かい声をかけてくれた。

 

「寂しくなるけど、新しい場所でも頑張れよ」

「佐藤くんなら大丈夫だよ、期待してるからね」

 

 ありがたさと同時に、少しばかりの申し訳なさが胸を突く。

 だが、前に進もう。そう決めたのだ。

 

 深く一礼し、漣は顔を上げた。

 住み慣れたトライコードのオフィスを後にする足取りは、不思議と軽かった。

 

 

 十月。

 

 新しい季節の始まりとともに、漣はアークシステムインテグレーションズ株式会社へ入社した。

 

 最初は、基本業務や事務手続きの説明が続いた。そのなかで、企業型DCについての説明もあった。

 

「こちらに関しては、共有フォルダにあるWEB資料を各自で確認しておいてください」

 

 担当者の説明は、それだけだった。

 

 たしかにこれでは、めんどくさがりの人は放置して何もしないだろう。よく分からないまま、リスクのない元本確保型に設定されるのを待つだけになる。

 

(……でも、俺は違う)

 

 漣は、山下のアドバイスを思い出していた。

 デスクのパソコンで専用サイトにログインすると、迷わず配分を「外国株式インデックスファンド」に全振りした。さらに、マッチング拠出として月五千円を追加した。

 

 手取りが減るのは痛いが、将来への投資だ。

 まずは無理のない範囲で。

 

 設定完了のボタンを押すと、画面に「登録を受け付けました」という無機質な文字が表示された。

 

 たったこれだけの操作で、自分の未来が少しずつ変わり始める。

 漣は深く息を吐き、真新しいデスクに視線を戻した。

 

 

 しかし、新しい環境は甘くはなかった。

 

 最初に漣に任された業務は、詳細設計だった。

 今までコーディングばかりを積み重ねてきた漣にとって、設計書をゼロから書くのは、これが初めての経験だった。

 

 チームのリーダーは、遠藤という漣より四つ上の男性社員だ。

 

「……よろしく」

 

 遠藤は言葉少なにあいさつを交わすと、すぐに基本設計書と詳細設計書のサンプルを漣のデスクに置いた。

 

「じゃあ、これを見て進めておいて。できたら呼んで」

 

 それだけ言うと、彼は自分のモニターに向き直った。

 歓迎されている、という空気は微塵も感じられない。中途採用への即戦力期待か、あるいは単に多忙ゆえの余裕のなさか。漣は試されているようなプレッシャーを感じながら、見よう見まねで詳細設計書を埋めていった。

 

 

 数日後。書き上げた資料を手に、漣は遠藤のレビューを受けた。

 

「……この箇所、記載がロジカルじゃない。これじゃ、プログラマーへの指示があいまいになるよね」

 

 遠藤の指先が資料を叩く。

 

「この処理、具体的にどうやって実装するつもりなんだ?」

「いきなり、こんな細かいことを書いてどうするの。初めて見た人がこれだけで理解できるとでも?」

 

 矢継ぎ早に、容赦のない指摘が飛んでくる。

 漣はぐうの音も出なかった。

 

 惨敗だ。

 自分が「書いた」と思っていたものは、ただ文字を並べただけの、中身のない箱だった。

 

「……この程度か」

 

 最後にそう吐き捨てるように言われ、レビューは終わった。

 

 悔しかった。

 「コードが書けることと、システムを設計できることは別物だ」という現実を突きつけられたような、情けない感覚が込み上げる。

 

 だが、指摘の内容を頭の中で反芻すると、いくつもの「気づき」があった。

 

 詳細設計は、単に基本設計を細かく書けばいいわけではない。

 上流工程の「意図」と、下流工程の「実装」をつなぐ橋なのだ。

 

 漣は席に戻り、一から資料をやり直した。

 

 「トライコード時代、自分がこの設計書を渡されたら、迷わずに組めるだろうか?」

 

 その問いを自分に突きつけながら、構成を練り直す。

 複雑なロジックになるところは、実装レベルの処理を記した別紙を作成した。

 

 

 翌日。再度、遠藤の席へ向かった。

 

 心臓が嫌な音を立てている。

 漣は緊張を押し殺し、修正した内容を説明した。

 

 説明し終えた後、遠藤はしばらく黙って資料を見つめていた。

 

「ふむ」

 

 やがて、短く一言つぶやいた。

 

「このデータ取得処理。SQLには、この条件も含めてしまってもいいかもな」

「この処理は、このままでは性能問題が出るかもしれない。こうしたほうがいいだろう」

 

 相変わらず指摘は多い。

 だが、その内容は昨日とは明らかに違っていた。

 

 単なるダメ出しではない。ともに設計を精査している、そんな「技術者同士」の対話に近い感じだ。

 

「じゃあ、今の指摘事項を反映して、また見せて」

 

 遠藤の声は、昨日よりもどこか柔らかかった。

 

 漣は少しだけ、心の底からホッとした。

 と同時に、設計というものの奥深さを、その片鱗を教えてもらった気がした。

 

「ありがとうございました!」

 

 そう言って席に戻る漣の足取りは、昨日よりもずっと軽かった。

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