表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
がけっぷち新人SE、資産形成を始めたら人生が変わり始めた件  作者: しばたろう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/17

06企業型確定拠出年金

 これが、三社目の挑戦だった。


 同じく一次受けの中堅SIer。

 アークシステムインテグレーションズ株式会社

 

 規模は大きくない。

 だが、確実に上流を握っている会社だった。


 今回は、違った。


 自分の中で、軸ができている。


 なぜ上流に行きたいのか。

 なぜ今動くのか。


 言葉が、自然に出てきた。


 一次面接。


「なぜ転職を?」


「AIの普及で、開発の在り方が変わると感じています。だからこそ、上流で価値を出せる人間になりたいと考えています」


 迷いはなかった。


 二次面接。


「あなたは、何ができる人間ですか」


「まだできることは多くありません。ただ、仕様の意図を理解し、全体を見て動けるエンジニアになりたい。そのために、環境を変えたいと考えています」


 言葉に、芯があった。迷いはなかった。



 数日後。


 エージェントから連絡が入る。


「内定、出ました」


 一瞬、意味が理解できなかった。


「……本当ですか」


「はい。条件も悪くないです。年収も少し上がっています」


 電話の向こうで、担当者が続ける。


 だが、言葉はもう耳に入ってこなかった。


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。


 ――届いた。



 大手には、届かなかった。


 最終で、落ちもした。


 だが。


 それでも――


 自分で選び、考え、動いた結果として、ここにたどり着いた。


 納得のいく、決着だった。



 スマホの画面を見つめながら、ふと、あの夜のことを思い出す。


 居酒屋での、山下との会話。


『なるべく早く、上流へ行くべきだね』


 あの一言が、すべての始まりだった。


 漣は、小さく息を吐く。


 そして、静かに笑った。


 ――次だ。

 


 内定が出た翌日。

 漣は、上司に転職の意思を伝えた。


 予想していた通り、引き留められた。

 評価はしてもらっていたし、期待もされていた。


 それでも――決心は揺らがなかった。


 話し合いの末、現在の案件に一区切りがつく九月末で退職。

 十月から、新しい会社へ。


 退職の時期は、思っていたよりもあっさりと決まった。


 漣はスマホを取り出し、山下にLINEを送る。


 ――内定、決まりました。10月から新会社です。


 送信してすぐに、返信が返ってきた。


「すごいじゃないか。よくやったね。お祝いをしないと」


 短い文面だったが、どこか温かかった。



 翌日の夜。


 いつもの店の暖簾をくぐると、山下はすでに席についていた。


 いつもと違うのは、その服装だった。

 スーツではなく、ラフな私服。


 どこか、空気が軽い。


「お、来たね」


 いつも通りの笑顔。

 だが、その奥に、どこか余裕のようなものが見えた。


「山下さん……その格好」


「ああ、これ?」


 肩をすくめる。


「この前、会社を退職してね。しばらくは、のんびりするつもりだよ」


 さらりと言う。


「時間がたっぷりあるんだ」

「相手してね」


 冗談めかした口調。


 だが――


 確かに、表情が違った。

 どこか晴れやかで、余裕がある。


 心なしか、顔色もいい。



「まずは、おめでとう」


 ジョッキが差し出される。


「ありがとうございます。山下さんのおかげです」


 軽くぶつかる音。


 冷えたビールが、喉を通っていく。


 ようやく、実感が湧いてきた。



「新しい会社に移るにあたって……」


 漣は、少し身を乗り出す。


「大切なことって、ありますか?」


 目は、まっすぐだった。


 山下は、少しだけ考える素振りを見せる。


「そうだねえ……」


 一口、ビールを飲む。


「仕事の進め方とか、業務の細かいところはさ」


「会社ごとに流儀があるから、入ってから覚えればいい」


 そこで、一拍。


「俺から一つ言うなら――」


 グラスを置く。


「あいさつ、かな」



 あまりにも基本的な言葉だった。


 拍子抜けしたような感覚が、正直あった。


「あいさつ……ですか?」


「そう。あいさつ」


 山下は、穏やかにうなずく。


「最近はさ、必要以上に人と関わらない若い子も多いだろ?」


「形式的なあいさつなんて意味がない、なんて考え方もあるみたいだけど」


 グラスを指でなぞる。


「でもね。あれは――自分のためになるんだ」



「俺が新入社員だった頃の話なんだけど」


 少し遠くを見るような目になる。


「知り合いが一人もいない現場に、いきなり放り込まれてさ」


「それは……きついですね」


「きつかったよ」


 苦笑する。


「だから、とにかく必死だった」


「毎朝、現場の人全員に、『おはようございます』って声をかけて回ったんだ」



「そしたらね」


 少しだけ、声が柔らかくなる。


「すぐに変わった」


「みんな、声をかけてくれるようになったし、アドバイスもくれる」


「困ってたら、自然と助けてくれるようになった」


 一度、軽く笑う。


「一度も話したことのない俺に、だよ?」



「今なら分かる」


 山下は、静かに言った。


「おじさんたちはね、若い子にあいさつされると嬉しいんだ」


「それだけで、“面倒見てやろう”って気になる」



 漣は、ゆっくりとうなずく。


 シンプルな話だった。


 だが――


 妙に、腑に落ちた。



「……なるほど」


 グラスを持ち直す。


「まずは、あいさつ、ですね」


「うん。それで十分」


 山下は、満足そうにうなずいた。



「あとさ――企業型DCかな」


「DC?」


「そう。企業型確定拠出年金のこと」


「……聞いたことは?」


「ありません」


 山下は、ふっと笑った。


「たぶん、トライコードさんでは導入してないんだろうね」


「えっと……佐藤くんの転職先の会社は――?」


「アークシステムインテグレーションズ株式会社です」


「ああ、そこか」


 山下はスマホを取り出し、慣れた手つきで検索を始めた。


「……あった。やっぱり。企業型DC、導入してるね」


「山下さん、DCって、どういうものなんですか?」


「会社が、社員のために年金を積み立ててくれる制度だよ。昔から企業年金って形で似たものはあったんだけどね」


 グラスを傾けながら、山下は続ける。


「違いは、その積み立てたお金の運用を、自分で選ぶってところだ」


「運用……?」


「そう。日本株、外国株、国債、保険、定期預金――いろいろある。その中から、自分で配分を決める」


「へえ……」


「つまり、運用の結果は自己責任。うまくやれば増えるし、失敗すれば減る」


「完全に自己責任なんですね」


「そういうこと。で、入社したら、たぶんすぐに設定することになると思うよ」


「設定……」


「ちなみにね」


 山下は少しだけ身を乗り出した。


「これ、めんどくさがって放置する人が、かなり多い」


「放置したら、どうなるんですか?」


「デフォルトのままになる。だいたいは、リスクの低いミックス型とか、定期預金だね」


「それって、安全でいいんじゃないですか?」


「――いや、逆だ」


 山下は、はっきりと言い切った。


「DCの掛け金は、アークだとおそらく月額2万7千5百円。そこまで大きな金額じゃない」


 グラスを置き、指でテーブルを軽く叩く。


「だからこそ、ここは全部、外国株に振るべきなんだ」


「えっ……全部ですか?」


「例えば、定期預金なら利率は0.5%から1%くらい」


「はい」


「年間の積立額は33万円。利率が1%なら、1年で増えるのは3300円程度だ」


「……少ないですね」


「一方で、外国株なら、年利5%から10%くらいは期待できる」


「10%だと――」


「同じ計算で、年間3万3千円。ざっくり10倍だ」


「そんなに違うんですか……」


「もちろん、リスクはある。でもね」


 山下は軽く笑った。


「外国株って言っても、インデックス型っていう、比較的リスクの低い商品が提供されているんだ」


「インデックス……」


「まあ、そのへんはまた今度ゆっくり説明するよ」


 そう言って、軽く手を振る。


「大事なのは、資産分散。自分の資産の一部を、海外にも持つってことだ」


「資産分散……」


 聞き慣れない言葉を、頭の中で反芻する。


 ついさっきまで、あいさつの話をしていたはずなのに。


 気づけば、年金や資産運用の話になっている。


 ――なんだ、このギャップは。


 社会人としての振る舞いから、将来の資産設計まで。


 山下の言葉は、どれも現実的で、そして容赦がない。


 漣は、グラスを持つ手を少しだけ強く握った。


「あとね――」


「まだ、あるんですか?」


 漣は思わず苦笑した。


 山下は気にした様子もなく、続ける。


「DCはね、社員が掛け金を追加できるんだ。マッチング拠出っていう制度でね」


「マッチング拠出……」


「そう。その分は給与から差し引かれる。たぶん上限は、月2万7千5百円だね」


「ええ……これ以上、差し引かれるんですか。それは、ちょっと厳しそうです」


 正直な感想だった。


 転職で多少給料は上がるとはいえ、それでもまだ心もとない。


 そんな中で、さらに手取りが減るのは、心理的なハードルが高い。


 だが――


「うん。でもね、マッチング拠出はメリットが大きい」


 山下は、はっきりと言い切った。


「ひとつは、その分が非課税になること。つまり、給料から引かれる税金が安くなる」


「非課税……」


「ふたつ目は、運用に回せる元本が増えるってことだ。さっき話した通り、リターンの高い資産に回せば、その分、将来の差も大きくなる」


「なるほど……」


「だから、無理のない範囲でいい。できるだけ、マッチング拠出はやった方がいいね」


 山下の言葉は、どこまでも現実的だった。


 夢や理想ではなく、数字と制度に基づいた話。


 だが、それが妙に説得力を持っていた。


「いきなり言われても、混乱するよね」


 山下は、ふっと表情を緩める。


「まあ、詳しくはネットとか本で調べてみるといい。すぐ理解できるよ」


「そうします」


 そう答えながらも、頭の中ではまだ整理しきれていなかった。


 あいさつ。

 

 キャリア。


 そして、資産運用。


 社会人として必要なものが、次々と目の前に並べられていく。


 ――全部、やらないといけないのか。


 グラスの中の氷が、かすかに音を立てた。


 帰ったら。


 とりあえず、アマゾンで入門書でも探してみるか。


 そんなことを、ぼんやりと考えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ