06企業型確定拠出年金
これが、三社目の挑戦だった。
同じく一次受けの中堅SIer。
アークシステムインテグレーションズ株式会社
規模は大きくない。
だが、確実に上流を握っている会社だった。
今回は、違った。
自分の中で、軸ができている。
なぜ上流に行きたいのか。
なぜ今動くのか。
言葉が、自然に出てきた。
一次面接。
「なぜ転職を?」
「AIの普及で、開発の在り方が変わると感じています。だからこそ、上流で価値を出せる人間になりたいと考えています」
迷いはなかった。
二次面接。
「あなたは、何ができる人間ですか」
「まだできることは多くありません。ただ、仕様の意図を理解し、全体を見て動けるエンジニアになりたい。そのために、環境を変えたいと考えています」
言葉に、芯があった。迷いはなかった。
◇
数日後。
エージェントから連絡が入る。
「内定、出ました」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……本当ですか」
「はい。条件も悪くないです。年収も少し上がっています」
電話の向こうで、担当者が続ける。
だが、言葉はもう耳に入ってこなかった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
――届いた。
◇
大手には、届かなかった。
最終で、落ちもした。
だが。
それでも――
自分で選び、考え、動いた結果として、ここにたどり着いた。
納得のいく、決着だった。
◇
スマホの画面を見つめながら、ふと、あの夜のことを思い出す。
居酒屋での、山下との会話。
『なるべく早く、上流へ行くべきだね』
あの一言が、すべての始まりだった。
漣は、小さく息を吐く。
そして、静かに笑った。
――次だ。
◇
内定が出た翌日。
漣は、上司に転職の意思を伝えた。
予想していた通り、引き留められた。
評価はしてもらっていたし、期待もされていた。
それでも――決心は揺らがなかった。
話し合いの末、現在の案件に一区切りがつく九月末で退職。
十月から、新しい会社へ。
退職の時期は、思っていたよりもあっさりと決まった。
漣はスマホを取り出し、山下にLINEを送る。
――内定、決まりました。10月から新会社です。
送信してすぐに、返信が返ってきた。
「すごいじゃないか。よくやったね。お祝いをしないと」
短い文面だったが、どこか温かかった。
◇
翌日の夜。
いつもの店の暖簾をくぐると、山下はすでに席についていた。
いつもと違うのは、その服装だった。
スーツではなく、ラフな私服。
どこか、空気が軽い。
「お、来たね」
いつも通りの笑顔。
だが、その奥に、どこか余裕のようなものが見えた。
「山下さん……その格好」
「ああ、これ?」
肩をすくめる。
「この前、会社を退職してね。しばらくは、のんびりするつもりだよ」
さらりと言う。
「時間がたっぷりあるんだ」
「相手してね」
冗談めかした口調。
だが――
確かに、表情が違った。
どこか晴れやかで、余裕がある。
心なしか、顔色もいい。
◇
「まずは、おめでとう」
ジョッキが差し出される。
「ありがとうございます。山下さんのおかげです」
軽くぶつかる音。
冷えたビールが、喉を通っていく。
ようやく、実感が湧いてきた。
◇
「新しい会社に移るにあたって……」
漣は、少し身を乗り出す。
「大切なことって、ありますか?」
目は、まっすぐだった。
山下は、少しだけ考える素振りを見せる。
「そうだねえ……」
一口、ビールを飲む。
「仕事の進め方とか、業務の細かいところはさ」
「会社ごとに流儀があるから、入ってから覚えればいい」
そこで、一拍。
「俺から一つ言うなら――」
グラスを置く。
「あいさつ、かな」
◇
あまりにも基本的な言葉だった。
拍子抜けしたような感覚が、正直あった。
「あいさつ……ですか?」
「そう。あいさつ」
山下は、穏やかにうなずく。
「最近はさ、必要以上に人と関わらない若い子も多いだろ?」
「形式的なあいさつなんて意味がない、なんて考え方もあるみたいだけど」
グラスを指でなぞる。
「でもね。あれは――自分のためになるんだ」
◇
「俺が新入社員だった頃の話なんだけど」
少し遠くを見るような目になる。
「知り合いが一人もいない現場に、いきなり放り込まれてさ」
「それは……きついですね」
「きつかったよ」
苦笑する。
「だから、とにかく必死だった」
「毎朝、現場の人全員に、『おはようございます』って声をかけて回ったんだ」
◇
「そしたらね」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「すぐに変わった」
「みんな、声をかけてくれるようになったし、アドバイスもくれる」
「困ってたら、自然と助けてくれるようになった」
一度、軽く笑う。
「一度も話したことのない俺に、だよ?」
◇
「今なら分かる」
山下は、静かに言った。
「おじさんたちはね、若い子にあいさつされると嬉しいんだ」
「それだけで、“面倒見てやろう”って気になる」
◇
漣は、ゆっくりとうなずく。
シンプルな話だった。
だが――
妙に、腑に落ちた。
◇
「……なるほど」
グラスを持ち直す。
「まずは、あいさつ、ですね」
「うん。それで十分」
山下は、満足そうにうなずいた。
◇
「あとさ――企業型DCかな」
「DC?」
「そう。企業型確定拠出年金のこと」
「……聞いたことは?」
「ありません」
山下は、ふっと笑った。
「たぶん、トライコードさんでは導入してないんだろうね」
「えっと……佐藤くんの転職先の会社は――?」
「アークシステムインテグレーションズ株式会社です」
「ああ、そこか」
山下はスマホを取り出し、慣れた手つきで検索を始めた。
「……あった。やっぱり。企業型DC、導入してるね」
「山下さん、DCって、どういうものなんですか?」
「会社が、社員のために年金を積み立ててくれる制度だよ。昔から企業年金って形で似たものはあったんだけどね」
グラスを傾けながら、山下は続ける。
「違いは、その積み立てたお金の運用を、自分で選ぶってところだ」
「運用……?」
「そう。日本株、外国株、国債、保険、定期預金――いろいろある。その中から、自分で配分を決める」
「へえ……」
「つまり、運用の結果は自己責任。うまくやれば増えるし、失敗すれば減る」
「完全に自己責任なんですね」
「そういうこと。で、入社したら、たぶんすぐに設定することになると思うよ」
「設定……」
「ちなみにね」
山下は少しだけ身を乗り出した。
「これ、めんどくさがって放置する人が、かなり多い」
「放置したら、どうなるんですか?」
「デフォルトのままになる。だいたいは、リスクの低いミックス型とか、定期預金だね」
「それって、安全でいいんじゃないですか?」
「――いや、逆だ」
山下は、はっきりと言い切った。
「DCの掛け金は、アークだとおそらく月額2万7千5百円。そこまで大きな金額じゃない」
グラスを置き、指でテーブルを軽く叩く。
「だからこそ、ここは全部、外国株に振るべきなんだ」
「えっ……全部ですか?」
「例えば、定期預金なら利率は0.5%から1%くらい」
「はい」
「年間の積立額は33万円。利率が1%なら、1年で増えるのは3300円程度だ」
「……少ないですね」
「一方で、外国株なら、年利5%から10%くらいは期待できる」
「10%だと――」
「同じ計算で、年間3万3千円。ざっくり10倍だ」
「そんなに違うんですか……」
「もちろん、リスクはある。でもね」
山下は軽く笑った。
「外国株って言っても、インデックス型っていう、比較的リスクの低い商品が提供されているんだ」
「インデックス……」
「まあ、そのへんはまた今度ゆっくり説明するよ」
そう言って、軽く手を振る。
「大事なのは、資産分散。自分の資産の一部を、海外にも持つってことだ」
「資産分散……」
聞き慣れない言葉を、頭の中で反芻する。
ついさっきまで、あいさつの話をしていたはずなのに。
気づけば、年金や資産運用の話になっている。
――なんだ、このギャップは。
社会人としての振る舞いから、将来の資産設計まで。
山下の言葉は、どれも現実的で、そして容赦がない。
漣は、グラスを持つ手を少しだけ強く握った。
「あとね――」
「まだ、あるんですか?」
漣は思わず苦笑した。
山下は気にした様子もなく、続ける。
「DCはね、社員が掛け金を追加できるんだ。マッチング拠出っていう制度でね」
「マッチング拠出……」
「そう。その分は給与から差し引かれる。たぶん上限は、月2万7千5百円だね」
「ええ……これ以上、差し引かれるんですか。それは、ちょっと厳しそうです」
正直な感想だった。
転職で多少給料は上がるとはいえ、それでもまだ心もとない。
そんな中で、さらに手取りが減るのは、心理的なハードルが高い。
だが――
「うん。でもね、マッチング拠出はメリットが大きい」
山下は、はっきりと言い切った。
「ひとつは、その分が非課税になること。つまり、給料から引かれる税金が安くなる」
「非課税……」
「ふたつ目は、運用に回せる元本が増えるってことだ。さっき話した通り、リターンの高い資産に回せば、その分、将来の差も大きくなる」
「なるほど……」
「だから、無理のない範囲でいい。できるだけ、マッチング拠出はやった方がいいね」
山下の言葉は、どこまでも現実的だった。
夢や理想ではなく、数字と制度に基づいた話。
だが、それが妙に説得力を持っていた。
「いきなり言われても、混乱するよね」
山下は、ふっと表情を緩める。
「まあ、詳しくはネットとか本で調べてみるといい。すぐ理解できるよ」
「そうします」
そう答えながらも、頭の中ではまだ整理しきれていなかった。
あいさつ。
キャリア。
そして、資産運用。
社会人として必要なものが、次々と目の前に並べられていく。
――全部、やらないといけないのか。
グラスの中の氷が、かすかに音を立てた。
帰ったら。
とりあえず、アマゾンで入門書でも探してみるか。
そんなことを、ぼんやりと考えていた。




