04上流へ
居酒屋に入ると、山下は席についていた。
「ひさしぶりだね」
軽く手を上げる。
漣は一礼し、向かいに腰を下ろした。
「ご無沙汰しています」
ジョッキが運ばれ、二人は軽く掲げた。
「お疲れさまです」
ガチン、と小さな音が鳴る。
一口、喉を潤す。
冷えたビールが、身体にすっと染み込んだ。
◇
「ふるさと納税のお米、今日届きました」
漣は、少しだけ照れくさそうに言った。
「なんか……はじめて、手ごたえを感じました。大げさですけど」
山下は、ふっと口元を緩める。
「うん。最初の小さな一歩だね」
その言葉は、静かだったが、どこか力があった。
漣は、ゆっくりとうなずく。
やがて、話題は自然と仕事のことへ移る。
「そういえば、三上さん、会社辞めたそうだね」
山下が、何気ない調子で言った。
「仕事のできる人だったから、会社にしたら痛手だろうね」
グラスを傾けながらの一言。
だが、その名前を聞いた瞬間――
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
昨日、去り際に見せた、あの微笑み。
ほんの一瞬だったのに、妙に焼きついている。
「……じつは」
気づけば、口を開いていた。
漣は、ぽつりぽつりと話し始める。
三上に告白したこと。
そして、振られたこと。
転職して、さらに上を目指していると知ったこと。
尊敬できる人だと思ったこと。
言葉にするたびに、胸の奥に溜まっていたものが、少しずつほどけていく。
誰かに聞いてほしかった。
ただ、それだけだった。
◇
「そうなのか」
話を聞き終えた山下は、にかっと笑った。
「それにしても、大したものだよ。佐藤くん。よくがんばったね」
思いもよらない言葉だった。
慰めでも、同情でもない。
まっすぐな“評価”だった。
漣は、少しだけ目を見開く。
そして、どこか救われたような気持ちになる。
山下は、ふっと視線を遠くにやる。
「そうか……あの三上さんが、そんなこと考えてたんだねえ」
しみじみと、つぶやく。
しばらくの沈黙。
氷がグラスの中で、小さく音を立てた。
◇
やがて、山下はグラスを置き、こちらを見る。
「でもさ」
少しだけ、声のトーンが変わる。
「三上さん、転職するのは大正解だと思うよ。君の会社には悪いけどね」
「……大正解、なんですね?」
思わず、聞き返す。
自分の中でも、どこか引っかかっていた問いだった。
「うん。間違いない」
即答だった。
迷いは一切ない。
その断言に、漣は息をのむ。
そして――
「……僕も、転職とか、考えたほうがいいんですかね」
自然と、言葉がこぼれていた。
少し前の自分なら、こんなことは聞かなかったはずだ。
だが今は――
知りたかった。
自分の進むべき方向を。
◇
「もちろんだよ」
山下は、間髪入れずに答えた。
「ちょうどいい」
口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「今日は、転職の話をしようか」
その一言に、空気が少し変わった。
次の扉が、開こうとしている。
漣は、背筋を伸ばす。
胸の奥に、わずかな高揚が灯る。
――次だ。
そう、思った。
◇
「もうすぐ、君の今の仕事は、AIに奪われるよ」
山下が、ぽつりとつぶやいた。
軽い口調だった。
だが――その一言は、妙に重く、胸に突き刺さった。
「いまや、コードはAIが書く時代だからね」
続けて、グラスを傾けながら言う。
漣は、思わず言葉を失った。
◇
「うちもね、トップダウンでAI活用が進み始めてるよ」
山下は淡々と続ける。
「若手なんて、当たり前のようにAIにソースを書かせてるし、俺もExcelマクロなんかはもう自分で書かない。AIに作ってもらってる」
さらりと言う。
だが、その内容は――衝撃だった。
「……そんなに、進んでるんですか」
思わず漏れる。
「うん。想像以上に早いよ」
即答だった。
迷いはない。
◇
「おそらくね、IT業界の今の多重構造は崩壊する」
山下は、少しだけ真剣な目になる。
「トライコードさんは……正直、もろにその影響を受けると思う」
胸の奥が、ざわついた。
自分のいる場所が、揺らいでいる。
そんな感覚。
「もし、今後もSEを続けるつもりなら」
一拍置いて、言葉を区切る。
「なるべく早く、上流へ行くべきだね。AIに淘汰される前に」
静かだが、断定だった。
◇
AIがコードを書く。
その話自体は、何度も見聞きしてきた。
ニュースでも、ネットでも、嫌というほど。
だが――
どこか他人事だった。
まだ先の話だと、勝手に思い込んでいた。
急には変わらない。
そう、自分に言い聞かせていた。
だから、無意識に目を逸らしていた。
考えないようにしていた。
だが――
こうして、目の前で、はっきりと言葉にされると。
現実が、形を持って襲いかかってくる。
ざあっ、と。
危機感が、現実の形を持って押し寄せた。
『今、スキルを伸ばさなきゃいけないって思ってる』
ふと、三上の言葉がよみがえる。
あのときは、すごいな、と思っただけだった。
だが今は――
その言葉の重みが、はっきりと分かる。
◇
「……僕も、すぐに動くべきでしょうか」
気づけば、そう口にしていた。
自分でも、少し驚くほど、素直な問いだった。
「そうだね」
山下は、即答する。
「幸い、今は若手は売り手市場。この状況は、使わないともったいない」
一口ビールを飲み、続ける。
「転職活動も、今はネットでかなり効率化されてる。動くなら、早いほうがいい」
その言葉は、背中を押すようだった。
◇
だが――
次に何をすべきかまでは、まだ見えていない。
漣は、一歩踏み込む。
「転職先は、どんなところがいいでしょうか」
山下は、少し考え、うなずいた。
「そうだね。佐藤くんなら、1年ちょっとの実務経験がある」
「まずは、二次受けの開発ベンダーは十分狙える」
「で、せっかくなら、もう少し上も見ていい」
指を軽く立てる。
「一次受けの国内SIer。ここを狙うのはアリだと思うよ」
◇
「一次受けなら、上流工程に関われるし、待遇も上がる」
その言葉に、未来の輪郭が、少しだけ見えた気がした。
「ITコンサルとかは……どうでしょう」
ふと、思いついて口にする。
山下は苦笑した。
「ITコンサルはね、確かに給料はいい」
「ただ、競争が激しいし、激務だよ。特に外資は」
一拍置く。
「バリバリ稼ぎたいならいいけど、ワークライフバランスを重視するなら、あまりおすすめはしないかな」
現実的な答えだった。
◇
「あと、楽天とかメルカリみたいな国内IT企業もあるけど……」
少し肩をすくめる。
「正直、あそこは超優秀層しか取らない。かなりの狭き門だね」
漣は、内心で苦笑する。
――そこに挑める自信は、今はない。
仕事は頑張りたい。
だが、いきなりトップ層と勝負する覚悟までは、まだ持てていない。
◇
「……まずは、上流に近い会社を狙います」
ゆっくりと言葉にする。
「二次受け、できれば一次受けのSIerを」
山下は、満足そうにうなずいた。
「うん。それがいいと思う」
◇
「佐藤くんの新しい門出に」
山下が、グラスを差し出す。
漣も、それに応えるように持ち上げた。
ガチン、と音が鳴る。
さっきよりも、少しだけ強く。
その音は――
これから始まる何かを、確かに告げていた。
◇
家に帰ると、さっそくパソコンを開いた。
迷いは、もうなかった。
転職エージェントのサイトにアクセスし、会員登録を進める。
名前、経歴、スキル――淡々と入力していく。
キーボードを叩く音が、やけに大きく聞こえた。
プロフィールの「希望条件」にカーソルが止まる。
――一次受けSIer。
その一行を、はっきりと入力した。
今の会社が嫌いなわけじゃない。
むしろ、恵まれていると思う。
上司は面倒見がいいし、先輩も丁寧に教えてくれる。
現場も、理不尽ばかりというわけではない。
だからこそ――
このままでいいのか、と。
頭のどこかで、ずっと引っかかっていた。
下請けとして、指示を待つ仕事。
仕様の背景も知らないまま、コードを書く日々。
それで、本当に技術は伸びるのか。
この先、AIが当たり前になったとき、
自分の価値は、どこに残るのか。
山下の言葉が、ふと蘇る。
『そのうち、コードはAIが書く時代になる』
――だったら。
自分は、何をする人間になる?
画面を見つめながら、小さく息を吐いた。
今いる場所は、居心地がいい。
だからこそ、動くのが怖い。
だが――
それに甘んじていたら、きっと後悔する。
会社の人たちの顔が浮かぶ。
世話になった人たち。
少しだけ、胸が痛んだ。
それでも。
「……先に進もう」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
登録ボタンをクリックする。
その瞬間、
何かが、確かに動き出した。




