エピローグ 二人の航海図
初夏の風が心地よく吹き抜ける夕暮れ時。
いつもの居酒屋の暖簾を、山下は一足先にくぐっていた。
しばらくして、足音が近づいてきた。山下が顔を上げると、そこには照れくさそうに、けれどもしっかりと手を繋いだ漣と咲の姿があった。
「お待たせしました、山下さん」
「あいかわらず、仲が良さそうだね」
山下の冷やかしに、漣は少し耳を赤くしながらも、誇らしげに答えた。
「おかげさまで」
山下の向かいに、漣と咲が並んで座る。今や3人の定位置となっていた。
「この度は、婚約、本当におめでとう」
山下が、黄金色の泡が躍るジョッキを高く掲げた。
「ありがとうございます!」
漣と咲は、弾けるような笑顔でそれにジョッキを重ねた。カチリ、と硬質な音が響き、幸せな夜の幕が開く。
「二人が付き合いだして、もう一年くらいになるのかな。早いものだね」
山下がしみじみと独り言のように言った。
漣は不意に居住まいを正し、隣の咲と視線を交わしてから山下に向き直った。
「山下さん。折り入ってお願いがあるのですが……今度の結婚式、山下さんにスピーチをお願いできないでしょうか?」
横で咲も、深く、丁寧にお辞儀をして言葉を添える。
「ぜひ、山下さんにお願いしたいんです」
山下は一瞬、驚いたように目を丸くし、それから少し照れたように視線を泳がせた。
「それは光栄な話だが……僕なんかでいいのかな?」
「はい。山下さんは、僕たちの『キューピット』ですから」
漣がすかさず、迷いのない口調で言った。
山下は堪えきれないといった様子で、豪快な笑い声を上げた。
「はははっ、キューピットか! 参ったな。そう言われたら、断るわけにはいかないじゃないか。喜んで引き受けさせてもらうよ」
「ありがとうございます!」
二人の顔が、パッと明るく輝いた。
◇
「ところで」
山下は少し真面目な顔になり、話題を切り出した。
「二人、結婚したら――咲さんは、仕事はどうするつもりだい?」
咲は迷うことなく即答した。
「仕事は続けるつもりです。今のプロジェクトもやり甲斐を感じていますし、自分のキャリアを止めたくないんです」
漣も力強く補足する。
「二人のキャリアは、どちらも同じように大事にしたいと思っています。これからは家事も分担しながら、支え合ってやっていけたらなって」
山下は満足げに深く頷いた。
「それはいい考えだ。結婚するとなると、これからは個人の戦略だけじゃなく、夫婦で『二人の航海図』を合わせることが何より重要だからね」
漣は、手元のジョッキの結露を指でなぞりながら、しみじみと答えた。
「そうなんですよ。いざ結婚となると、価値観のすり合わせって思ったよりやることが多いなって痛感しました。仕事の継続はもちろんですが、家計や資産形成の方針、どこに住むか……少し早いかもしれませんが、子供の教育方針についても話し合っているんです」
山下は、若き二人の真摯な姿勢を眩しそうに見つめながら尋ねる。
「新居はもう決めたのかい?」
咲が、少し控えめながらも明るい声で答えた。
「はい、賃貸マンションに決めました。私と漣くんのそれぞれの職場に無理なく通える場所を選んだんです。1LDKで決して広くはないですけど、家賃は十二万。今の二人の家賃を合計した額より少し安くなるんですよ」
漣がそこに、苦笑い混じりの補足を加える。
「正直、思い切ってマンションの購入も考えたんですけど……びっくりするほど高くて諦めました。築古の中古マンションなら、ペアローンを組めば払えなくもないんでしょうけど、今の僕たちにはリスクが高すぎるかなって」
山下は深く頷き、自分の経験を重ねるように言った。
「そうだね。資産形成という意味では、若いうちに不動産を手に入れるのは決して間違いじゃない。だが、それにしても今の東京は高すぎるよね。君たちが慎重になるのは正しい判断だよ」
「それで、山下さん」漣が身を乗り出した。「家計の管理について、何か具体的なアドバイスはありますか?」
山下はジョッキを置き、穏やかに語り始めた。
「そうだね。まず、お互いの収入や貯蓄を隠し事なくオープンにすることが何より重要だ。どちらかが抱え込むのではなく、共通の家計簿アプリや共有口座を使って、二人の資産が今どうなっているのかをいつでも見られる状態にするんだ」
山下の視線が、二人の繋がれた手に落ちる。
「透明性は、信頼の基礎だよ。どちらかが浪費しているのではないかと疑うコストは、実のところ金銭的な損失よりも高くつくからね」
山下は一度言葉を切り、少し茶目っ気のある表情を見せた。
「あとは、これこそが夫婦円満の秘訣かもしれないが、家計を一つにするからといって、個人の自由をすべて奪ってはいけないよ。共通の貯蓄や生活費を確保した後は、お互いに『口出ししない自由なお金――すなわち、お小遣い』を持ちなさい。咲さんが好きな本を買ったり、佐藤くんが僕と飲むための資金にしたりね。相手の支出を監視し合う関係は長続きしない。『二人のための資産』と『自分のための自由』。この両立が、航海を楽しく続けるコツなんだよ」
そして、山下は最後にもう一度、二人の目を真っ直ぐに見据えた。
「佐藤くん。資産形成はね、『二人が幸せになるための手段』であることを忘れてはいけないよ。どちらかが無理をして、ギスギスした雰囲気で貯めた一千万円よりも、二人で笑いながら、時には少し贅沢もしながら貯めた五百万円の方が、人生における価値ははるかに高いんだ」
山下の声が、優しく店内に響く。
「数字を追うことも大切だが、咲さんの笑顔を一番の成果指標にしなさい。それが、僕が考える最高の家計管理だよ」
漣は、その言葉を胸に刻み込むように姿勢を正した。
「わかりました。……咲さんの笑顔を、第一にします」
真剣すぎるほどの顔で宣言する漣。その横で、咲がたまらずといった風に吹き出した。
「ふふ。漣くんたら、真面目すぎ」
咲が笑うと、漣の顔にも自然と柔らかな笑みが広がる。
それを見た山下は、自分のアドバイスが早くも「一番の成果」を上げていることを確認し、満足げに新しいビールを注文した。




