最終話 株主優待と二度目の告白
新しいプロジェクトが本格始動し、漣は任された「外部連携」部分の設計に心血を注いでいた。
異なるベンダーのシステム同士を繋ぐという難題に頭を抱えることも多かったが、三上咲との打ち合わせの機会が増えることが、彼にとって最大の劇薬となった。
(いいところを見せたい……!)
そんな青い情熱に突き動かされ、漣は連日くたくたになるまで働き通した。
そんなある日の夕方、山下からメッセージが入る。
『どうだい、そろそろ』
そろそろ、あの止まり木のような時間が恋しくなる頃だった。
『了解です』
漣は即答したが、スマホを握る指を少し止めて考えた。……一瞬の躊躇の後、文字を打ち込む。
『今回も、三上さんを誘ってもよいですか?』
『もちろんだとも』
すぐに返信が来た。しかし、その後に続いた一文に、漣は目を見開いた。
『なんなら、当日、急な用事で来られない、って言おうか?』
漣は慌てて画面を叩く。
『お願いですから、余計な気は回さないでください!』
◇
いつもの居酒屋。
そこには、いつもの漣と山下、そして三上咲がいた。
「すみません、またお邪魔しちゃいました」
少し申し訳なさそうに微笑む三上に、山下は満足げに目を細めた。
「いやあ、大歓迎だよ。佐藤くんと二人で静かに飲む酒もうまいが、こうして三人で飲むのも活気があって、僕は嬉しいよ」
三上は自分のジョッキを両手で包み、少し声を弾ませた。
「私もです。この前の資産形成の話って、普段は誰ともすることがなくて……。あの日、お二人とそんな話ができて本当に楽しかったんです」
その言葉に、漣は「なるほど」と心の中で膝を打った。
確かに、職場でも友人関係でも、資産形成や投資の話が話題に上ることはまずない。下手に話せば「意識が高い」と敬遠されるか、「怪しい勧誘」と疑われるのが関の山だ。
そう考えると、利害関係抜きで本音を話せるこの集まりは、自分たちにとって驚くほど貴重な場なのかもしれない。
山下も深く頷き、感慨深そうに口を開いた。
「そうだね。日本は、投資に対してすこぶる関心が低い国だからね。最近になって、ようやく学校の授業で取り上げられるようになったらしいけれど、まだまだ『投資後進国』と言わざるを得ないね」
山下の視線は、冷えたビール越しに、日本の閉塞的な空気のその先を見つめているようだった。
◇
山下は手元のジョッキを置き、俺たち二人を見比べた。
「最近、忙しそうだね。どうだい? 仕事の方は?」
ふわりと水を向けられ、隣の三上が俺の方をちらっと見て微笑んだ。
「佐藤くん、すごくがんばってますよ。現場でも本当に頼もしくて、感心しています」
憧れの三上さんからの、思わぬ真っ直ぐな賞賛。
漣は一気に顔が崩れ、締まりのない笑みがこぼれた。
「いやぁ……それほどでも、あはは……」
しかし、山下は真顔で釘を刺す。
「三上さんに、良いところを見せたいんだろうね」
あまりに図星な指摘に、漣は激しく狼狽した。
「そんなこと、な、なくはないですけどね! 本人の前ではっきり言わないでください!」
恥ずかしさのあまり三上の顔が見れず、手元の枝豆に視線を落とす。
「ふふふっ」
三上はおかしそうに声を立てて笑った。その屈託のない反応に、漣はさらに縮こまる。
「……そ、そんなことよりですね」
漣は強引に話題を変えた。
「この前の話。山下さん、個別株にも詳しそうでしたが、ご自身でも持っているんですか?」
「そうだねぇ。いくつか持っているよ。僕も三上さんと同じで、日本の高配当株が中心かな。この歳になると、毎年定期的に入ってくる配当金は、とても安心感があるんだ」
「その安心感、わかります」
三上が深く頷いて乗っかった。
漣は目を輝かせ、身を乗り出した。
「そうなんですね。僕も高配当株、買ってみようかな。何か、初心者におすすめはありますか?」
三上が即答した。
「最初は、株価が手頃なものからが良いかも。ソフトバンクとか、いいんじゃないかしら」
「ソフトバンクは良いね」
山下も同意する。
「今なら二万円くらいから買えるし、高配当なうえに、条件を満たせば毎年千円分のPayPayがもらえるんだ」
「それはいいですね! PayPayは嬉しいです。……でも、なぜ、もらえるんですか?」
「『株主優待』という制度だよ」
「株主優待……?」
どこかで聞いたことがあるワードに、漣は首を傾げた。
山下が、ビールの泡を見つめながら静かに説明を始める。
「株主優待は、日本株独自の制度だね。株を保有してくれているお礼として、企業がさまざまな品物やサービスをくれるんだ。お歳暮やお中元といった、日本の『贈答文化』が産んだ独特のシステムだろうね」
三上が楽しそうに補足した。
「たとえば、すかいらーくはお食事券。ビッグカメラは買い物券。他にもQUOカードとか、豪華なカタログギフトを贈ってくれる会社もあるわよ」
「なんだか、プレゼントみたいで楽しそうですね」
弾む漣の言葉に、山下は少しだけ表情を引き締めた。
「もちろん、銘柄の厳選は必要だよ。優待は企業の好意だから、経営が悪化すれば突然廃止されることもよくある。その制度を長く続けているか、企業が無理をしていないか……。自分で調べる必要があるんだ。投資に『確実』はないから、そこが難しいところなんだけどね」
山下の少し厳しい、けれど愛のある忠告に、漣は改めて背筋を正した。
ただ積み立てるだけではない、新しい投資の扉が、また一つ目の前で開こうとしていた。
漣は、三上に素朴な疑問を投げかけてみた。
「三上さんは、実際にどんな高配当株を持っているんですか?」
「そうねぇ。ソフトバンクはもちろん持っているわ。あとはビックカメラも。あそこはお買い物券が頂けるのだけれど、凄いのは長期保有でその金額が増額されるところなの」
「なるほど。そうやって株主に長く持ってもらう工夫をしているんですね」
感心する漣に、山下が楽しそうに続けた。
「うちは、妻と子供二人の家族全員分、ビックカメラの株を百株ずつ保有しているよ。四人分合わせると、もらえる優待の額もかなりのものになるからね」
「それ、いいですね! 私も結婚したら、そうしようかな」
三上の口から何気なく飛び出した「結婚」という言葉。
漣はその響きに、思わず心臓が跳ね上がるのを感じた。一年前、彼女に想いを伝えて砕け散った記憶が、甘酸っぱい痛みと共に蘇る。
そんな漣の動揺に気づいてか知らずか、山下は真剣な表情で言葉を重ねた。
「そうだね。そうそう、結婚と言えば大切なことが一つ。結婚したら、パートナーとは資産運用のことをしっかり話し合う必要があるよ。パートナーの理解なしに資産形成を成し遂げることは、極めて難しいからね」
「本当、そうですよね。先ほどの話ではないですけれど、資産形成に理解がある人かどうかって、パートナー選びでも重要ですよね。中には『投資はギャンブルだから絶対ダメ』って人もいますから」
三上の言葉に、漣の胸に熱い思いが込み上げた。
(僕は、投資ダメなんて絶対に言いません! むしろ一緒に考えたいです!)
その言葉を喉元まで出かかったところで、漣はすんでのところで飲み込んだ。今ここでそれを言うのは、あまりにも必死すぎる。
漣は火照る顔を隠すように冷えたビールを煽り、投資と、そして自分の未来について、深く、深く考え込んでいた。
◇
居酒屋からの帰り道。駅へと続く夜道、漣は三上と二人で歩いていた。
山下は「ちょっと寄るところがあるから」と、わざとらしく別方向へ去って行った。
きっと、彼なりの気遣いなのだろう。
漣は、隣を歩く三上咲の横顔をちらりと盗み見た。
お酒のせいで少し赤く火照った彼女の肌が、街灯に照らされてどこか色っぽく映る。
漣は、先ほどから胸の中で何度も反芻していた言葉を、ようやく口にした。
「僕も……ビックカメラ、買おうと思います」
三上は漣を振り向き、ふふっと微笑んだ。
「あら、そう。いいじゃない。優待、楽しみね」
「そうすれば、いつか……家族であわせて、お買い物券をもらえますものね」
三上は「うん?」と、いまいちピンとこない顔をして小首を傾げた。
漣は意を決して、足を止めた。彼女の目を見据え、一年前にはなかった力強い声で言葉を紡ぐ。
「一年前、三上さんが自分の未来を真剣に考えている姿勢に、僕はすごく感銘を受けました。あの時は断られたけれど、その後も、三上さんは僕にとってますます魅力的な人であり続けました」
三上が足を止め、驚いたように漣を見つめる。
「僕も、この一年でようやく自分の未来を真剣に考えられるようになったと思っています。まだまだ頼りないところはあるかもしれない。けれど――」
漣は一歩、踏み出した。
「もう一度、言わせてください。今でも、三上さんのことが好きです。三上さんの未来に、僕を加えてもらえませんか」
静寂が二人の間を流れる。三上は少し驚いた顔をした後、その瞳に柔らかな光を宿した。
「佐藤くん。この前再会したとき、以前とはまるで別人のように大きく見えた。ああ、この一年、本当にがんばってきたんだな、ってすぐにわかったわ」
三上は一歩、漣に歩み寄る。
「真っ直ぐに、仕事を、自分を磨いてきた佐藤くん。今のあなたは、とてもかっこいいよ」
そう言って、三上はそっと漣の手を握った。
「……よろしくお願いします」
漣は、一瞬、時が止まったかのような錯覚に陥った。
次の瞬間、言葉にできない喜びと安堵、そして熱い思いが爆発するように心を満たしていく。視界が、じわりと熱いものでかすんだ。
「……ありがとうございます」
その温かな手を、強く握り返した。
ふと、以前山下が語ってくれた言葉が脳裏をよぎる。
『人間が生きていく上で得る資本、つまり富の源泉は大きく分けて三つある。社会資本、労働資本、そして金融資本だ』
佐藤漣は、今、確信していた。
自分は人生で一番大切な資本――愛する人と共に歩むという「社会資本」の、最高に輝く宝物を手に入れたのだと。
夜の風に、かすかな夏の匂いが混じり始めている。
二人の若者は、固く手を繋いだまま、新しい未来へと力強く歩み出した。




