12投資の基礎
四月の終わり。夜風はすっかり春の柔らかさを帯び、街には安堵したような平穏が戻っていた。いつもの居酒屋、いつものカウンター席。
「山下さん。本当に、ありがとうございました。山下さんのおかげで、なんとか生き延びることができました」
漣はジョッキを置くと、隣に座る山下に向かって深々と頭を下げた。
「ははは、大げさだなあ」
山下は照れくさそうに笑ったが、その表情はどこか嬉しそうだ。
「まあ、世界経済の回復に、乾杯しようじゃないか」
二人のジョッキがカチンと音を立てて重なった。
実際、オルカンのチャートはあのブラックマンデーを底にして、力強いV字回復を見せていた。一時は三万円を割り込むかと思われた評価額も、どん底で仕込んだ五十万円がブースターとなり、今や過去最高の含み益を更新しようとしている。
漣は心底、山下に感謝していた。
暴落の最中での的確なアドバイスはもちろん、それ以上に、二月の「絶好調」だった時期に買い控えを促してくれたことに。
「あの……株価が絶好調だった頃に、もし調子に乗って買い増しをしていたら、俺、あの暴落には耐えられなかったと思います。たぶん、パニックになって全部売って、投資、やめてました」
山下は大きく頷き、感慨深そうにビールを飲み干した。
「実際、あの大暴落で市場から退場した人は、星の数ほどいただろうね。……しかし、佐藤くんは運がいい」
「運、ですか?」
「投資を始めてすぐに、天国と地獄、両方の精神状態を味わうことができた。これは何物にも代えがたい貴重な経験だよ」
「……そうですね。調子が良い時は、このままずっと上がり続けるんじゃないかって気が大きくなりましたし、逆の時は、このまま一生下がり続けるんじゃないかって絶望しました」
「うん。これからもそんな局面は何度だってやってくる。そのたびに、今回の震えるような気持ちを思い出してほしいんだ」
漣は居住まいを正し、真剣な眼差しで尋ねた。
「ところで……山下さん。嵐が過ぎ去った今、僕はこれから何をすればいいでしょうか?」
「そうだね。株価はどん底から回復していく兆しを見せている。まずは、NISAやiDeCoの積立金額を、生活を壊さない範囲で少し増やしてみるのもいいかもしれない。けれど、やるべきことはそれくらいかな」
山下は枝豆を一つ口に運び、続けた。
「精神が安定している今のうちに、資産形成の『土台』を固める勉強を始めるといい。定番の書籍を読んだり、信頼できる動画を見たりね。……よし、今日のところは、これから投資の世界で生き残るために、最も大切で基礎となる考え方を少し話しておこうか」
「ぜひ、お願いします!」
漣は、手元のメモ帳を開いた。
先月までの焦燥感は消え、そこには一人の「投資家」としての静かな知的好奇心が宿っていた。
◇
「生き残るための鉄則、まず一つ目。投資を始めるうえで大切なのは、『期待リターン』、つまり適正な利率を知ることなんだ」
山下は人差し指を立てて、漣を真っ直ぐに見据えた。
「利率……。前に山下さんが言ってた、外国株の年利が5%とか10%とかっていう話ですか?」
「そう。世界経済の成長に乗る株式投資で、真っ当に得られる利益はせいぜい年平均5%。絶好調な時期を含めても、ようやく10%に届くかどうかだ」
「……意外と地味なんですね。一気に二倍三倍になるのかと思っていました」
「その通り。でも、その『地味さ』を知ることが最大の防御になるんだ。世の中には魅力的な儲け話が溢れているけど、この5~10%という相場から大きく外れる話には、絶対に近寄っちゃいけない。年利20%とか、月利10%なんていうのは……」
「そういうのって、やっぱり……」
「ああ、そんな美味い話はこの世に存在しない。騙されているか、あるいは破滅的なハイリスクを背負わされているかのどちらかだ。あと、『元本保証で高利回り』なんていうのも、投資の世界ではあり得ない。それは投資ではなく、ただの詐欺だと思っていい」
山下は二本目の指を立てた。
「二つ目。投資とギャンブルを明確に使い分けること。今、佐藤くんがやっているオルカンの積み立ては『投資』だ。逆に、初心者が手を出してはいけない『ギャンブル』の代表格がいくつかある」
「ギャンブル、ですか」
「まずはFX、為替取引だね。為替の短期的な変動なんて、プロでもまず読めない。しかもレバレッジをかけて身の丈以上の勝負ができるから、負けるときは一瞬だ。それから株でも、自分の持っている金以上の取引ができる『信用取引』や、株価が下がる方に賭ける『空売り』。これも初心者がやるべきじゃない」
山下の口調に熱がこもる。
「あと、多くの人が投資だと勘違いしているデイトレード。数分、数時間単位の上げ下げを当てようとするのは、まさに丁半博打だ。ちなみに、不動産投資もギャンブルではないが、素人が安易に始めていいものじゃない。あそこは百戦錬磨のプロが跋扈する『玄人の世界』だからね。僕たちがやるべきなのは、あくまで長期・分散・積み立て。これだけだ」
「長期、分散、積み立て……」
漣はその言葉を、心に刻むように繰り返した。
「三つ目。投資は必ず自分自身で判断し、ネット証券で売買すること。人にお金を預けて運用してもらうなんてのは、もってのほかだ。そして――これが一番の落とし穴だが、銀行や証券会社の窓口に行って、店員のおすすめ通りに金融商品を買うのも、絶対にダメだ」
「えっ、銀行の窓口もダメなんですか? プロなのに」
「彼らも商売だからね。銀行員にはノルマがある。結果として、客の利益より『銀行の儲け(手数料)』が優先される。信じられないほど高い手数料を抜かれる投資信託を、笑顔で勧められる危険があるんだよ」
「なるほど……。銀行員さんも、サラリーマンですもんね」
漣は、自分が自分の意思で楽天証券の口座を開いたことが、いかに正解だったかを改めて実感した。
「以上、生き残るための三ヶ条だ。退職金とか、宝くじとか、突然大金を手に入れた人がこういう罠にハマって、一瞬で資産を溶かすケースは本当に多い。だからこそ、若いうちから正しい投資の知識をつけておくことが、人生においてどれだけ重要かってことなんだよね」
山下の話を聞き終えた漣は、大きく息を吐いた。
四月の暴落という「嵐」を乗り越え、さらにその裏側にある「罠」の存在を知ったことで、彼の視界はこれまでになくクリアになっていた。
「……山下さん。俺、もっと勉強します。ただ積み立てるだけじゃなくて、ちゃんと自分の資産を守れるようになりたいです」
「その意気だよ、佐藤くん。さあ、冷めないうちに焼き鳥、食べようか」
居酒屋の喧騒の中、二人は再び笑い合いながら、夜更けまで語り合った。
◇
ゴールデンウィークの喧騒が去り、新緑が目に眩しい季節となった。
休暇を終えた漣を待っていたのは、新たなプロジェクトへの参画だった。
すでに遠藤たちが先に合流しているその現場は、現行の基幹システムを刷新する大規模なリプレース案件。ユーザーである企業のシステム部門が全体を統括し、複数のIT企業が協力して開発を進める「マルチベンダー」形式のプロジェクトだ。
参画するSIerは三社。漣たちの所属するアークも、その重要な一角を担うことになった。
「佐藤、今回は、上流からだ。」
遠藤に声をかけられ、漣は身の引き締まる思いだった。今回担当するのは「基本設計フェーズ」。前回経験した詳細設計よりもさらに一段階上の、システムの骨組みを決定する工程だ。
ここでは、ユーザーが何を求め、どんな課題を抱えているのかを直接ヒアリングし、それを具体的なシステムの仕様へと落とし込んでいく。プログラムの書き方を知るのとはまた違う、ビジネスの意図を汲み取る力が試される未知の世界だった。
未知のフェーズ、未知の人間関係。
不安を飲み込むほどのやる気を胸に、漣のエンジニアとしての新たな挑戦が、今ここから始まろうとしていた。




