仮説と検証
遡ること、一日前。
放課後の文化研究部部室。
私は机に広げたノートを眺めながら、考えを巡らせていた。
異世界は存在する。
昨日までならただの仮説だった。
でも、あの裂け目の向こうを一ノ瀬くんが見たことで、その確度はかなり上がった。
では。
こちらの人間は、異世界へ行くことはできるのか。
一番単純なのは――
裂け目を利用すること。
異客は、裂け目を通ってこちら側へ来ている。
修二さんも、裂け目の向こうへ弾を撃ち込み、異世界側で爆発させていた。
なら。
通れない理由も、今のところはない。
問題は。
戻ってこられるかどうか。
私は、これまでの記録をめくった。
異客は、こちら側でも普通に動く。
だが。
倒されたあとは違う。
死亡した異客の身体は、およそ五分ほどで消えていく。
煙のように消えるわけじゃない。
輪郭が薄れ、少しずつこの世界から抜け落ちていくように消滅する。
その反応は――
召喚術を解除したときによく似ている。
違うのは、速さ。
召喚術の解除を、ゆっくり引き延ばしたような消え方だ。
「……」
別の次元にいても、存在し続けようとする力があるのかもしれない。
少なくとも。
生きている人間なら、向こう側へ行った瞬間に消えてしまう――ということはなさそうだ。
行き来できる可能性はある。
当然、リスクはある。
こちら側の人間が異世界に行った場合、異客にはどう認識されるだろうか。
異客が普通の人間には見えないのは、なぜか。
私はペンを走らせる。
非能力者でも、召喚術を知覚することはできる。
召喚術は、「現実世界」の人間が持つ心象風景を、その人が「現実世界」に顕現させている。
だから最初から、こちら側との“ピント”が合いやすいのかもしれない。
ただ。
異客は違う。
非能力者には知覚できない。
少なくとも、私がこれまで見てきた異客はそうだった。
異客は、別の世界の存在として成立している。
そして現実世界にとっては、本来ここに存在しないものだ。
しかも裂け目を通って、混じってくる。
言ってしまえば――異物。
自らの中の別世界ともいえる心象風景を捉えられる力のある能力者と違い、普通の人間には認識できない。
……と仮定する。
「なら――」
私はノートに、新しく線を引いた。
逆ならどうなる?
現実世界の人間が、異世界へ行った場合。
今度はこちらが、向こうの世界にとっての異物になる。
能力者の場合は――少し危ない。
そもそも能力者は、現実世界でも異客から襲われやすい。
能力者にあって、私たち普通の人間にはないもの。
一番分かりやすいのは、召力だ。
異客が人間そのものではなく、召力を感知しているとしたら。
能力者は異世界へ行っても、知覚される可能性が高い。
では。
私のような非能力者なら?
召力はない。
異客から見れば――
私を認識できない可能性がある。
「……私が試せば、リスクは抑えられるかも」
もちろん、まだ仮説だ。
試したことなんてない。
試せる場所もなかった。
だからこそ――
検証が必要だ。
◇
――そして、現在。
「……いける」
目の前には、大きく開いた次元の裂け目がある。
そして、みんなの話を総合すると――
その向こうへ伸びた巨大な骨が、裂け目を塞ぐように引っかかっている。
本体は向こう側。
骨が裂け目を固定している。
ほかの異客も、今のところはこちら側にはいない。
こんな条件、そう揃うものでも無いだろう。
「こんな機会――」
思わず、口元が緩む。
「もう無いかもしれない」
「――橙子!」
修二さんの声が聞こえた。
私は裂け目へ向かって走る。
「橙子! 待て!」
「みんな、近寄らないで!」
私は裂け目の少し手前で止まり、振り返った。
「みんなの召力に反応して、向こうから例の白骨が出てくるかもしれない!」
「は?」
尊流さんが怪訝そうな顔をする。
「橙子! いったい何する気だ?」
「仮説の検証」
「検証?」
私は裂け目へ向き直った。
胸が高鳴る。
怖くないわけじゃない。
でも――
それ以上に。
知りたい。
私は、ゆっくりと左手を伸ばした。
裂け目の向こうへ。
まずは――
指先。
「……」
何も起きない。
痛みもない。
指先が消えることもない。
感覚もある。
そのとき。
ひやりとした空気が、指先を撫でた。
少し湿っている。
こちら側とは違う空気。
「……風もある」
思わず、小さく呟く。
私は左手を戻し、指先を観察した。
いつもの指だ。
じゃあ、次は。
手。
手首。
肘。
少しずつ、向こう側へ入れていく。
湿った風が、今度は腕を撫でた。
冷たい。
でも、ちゃんと感覚がある。
「橙子」
後ろから、修二さんの低い声。
「無茶するなよ」
「分かってる」
たぶん。
私はさらに身体を近づける。
次は――
顔。
一度、大きく息を吸う。
そして。
裂け目の向こうへ、頭を入れた。
暗い空。
崩れた家。
倒れた木々。
地面を這う、無数の骨。
湿った風が頬を撫でる。
現実世界より少し冷たい。
苔と土と、古い木が混じったような匂いがした。
「……」
見える。
見えている。
現実世界では、私には見えなかったものが。
今は――
はっきりと。
「……見える」
思わず、声が漏れた。
私は意を決して、身体を裂け目に押し込んだ。
そのまま、向こう側へ身体を滑り込ませる。
足元が崩れ、私は地面に手をついた。
手のひらに、冷たい感触。
「……土」
湿っている。
異世界の――土だ。
胸の奥が、一気に熱くなる。
私は今――
異世界にいる。
そのとき。
少し離れた場所を、白骨が歩いてきた。
「……!」
私は動かない。
白骨は、こちらの方へ歩いてくる。
大丈夫。
きっと――大丈夫。
白骨は、私のすぐそばを通り過ぎた。
……やっぱり。
私を認識していない。
あとは――
戻れるかどうか。
私は裂け目へ振り返る。
そしてもう一度、身体を裂け目へ滑り込ませた。
――すたっ。
足の裏に、先ほどの空き地の地面の感触。
戻ってきた。
私は自分の手を見る。
腕。
顔。
身体。
……なんともない。
戻れた。
行ける。
見える。
認識されない。
そして――戻ってこられる。
私はみんなを見た。
「仮説の検証、完了」
そして。
満面の笑みを浮かべる。
「いけるよ!」
一瞬の静寂のあと。
尊流さんが、白骨を蹴散らしながら声を上げる。
「おおーーー! すげぇじゃねぇーか!」
修二さんは小さく息を吐いた。
「まったく……」
それでも、その目はすぐに裂け目へ向いた。
「ただ、これで取れる手が増えたな」
そして、一ノ瀬くんへ視線を移す。
「円!」
「はい!」
「まず俺が行く。向こうで道案内を頼めるか?」
「はい!」
今度は、尊流さんを見る。
尊流さんは槍を肩に担ぎ、にやりと笑っていた。
……ああ。
あの顔。
絶対来る気だ。
「尊流」
修二さんが少し呆れたように言う。
「……聞くまでもないな」
「当たり前だろ」
そして。
「灯莉!」
「はい!」
「お前はこっちに残れ。白と一緒に、白骨の相手をしてくれ」
――バキッ!
灯莉ちゃんの蹴りが、白骨の頭蓋を砕く。
「少し数が多いが――やれるか?」
灯莉ちゃんは振り返った。
「全然、問題ないです!」
「よし」
かくして。
文化研究部初の異世界フィールドワークが始まった。




