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園外へ

「ドリームランドが、私たちのおうちです」


その声には、もう迷いも、悲しみも残っていなかった。


「……行こう」


一ノ瀬が、部屋の奥へ顔を向ける。


声は、さらに奥から聞こえていた。


壁際には、小さな扉がある。


その向こうから、同じ言葉が何度も繰り返されていた。


『泣きません』


『騒ぎません』


『命令に逆らいません』


俺たちは扉へ向かった。


悠真先輩は、執事服を着た二人を両腕に抱えたまま、そのあとに続く。


二人は抵抗しなくなっていた。


ただ、バクと同じ笑顔を浮かべ、奥から聞こえる声に合わせて口を動かしている。


「私たちは、良い子です」


「ドリームランドが、私たちのおうちです」


何度聞いても、気分のいい言葉じゃない。


一ノ瀬が、扉の取っ手へ手をかけた。


ゆっくりと開く。


その先には、もう一つの部屋があった。


正面の壁には、色鮮やかな虹が描かれている。


天井から吊るされた星。


床に並べられた、小さな椅子。


そのうち二つに、子どもが座っていた。


どちらも小学生くらいだ。


女の子と、それより少し幼い男の子。


二人は膝の上に手を置き、正面を向いている。


目元は赤く腫れ、頬には涙の跡が残っていた。


その前には、一体のバクが立っていた。


丸い眼鏡。


胸元まである灰色のベスト。


片手には、細長い指示棒を持っている。


壁へ貼られた紙を、棒の先で叩く。


二人の首には、あのパスポートが下がっていた。


バクの視線は、子どもたちの顔を見ていない。


その少し下。


首から下がったパスポートへ、正確に向けられていた。


指示棒の先には『泣きません』と書かれた紙がある。


「はい。もう一度です」


「な、泣きません……」


女の子の震えた声に、バクは何の反応も示さない。


聞こえていないんだ。


バクに分かるのは、そこにパスポートがあることだけ。


その持ち主が泣いていることも、怯えていることも、きっと何一つ見えていない。


二人の声は震えていた。


『騒ぎません』


「騒ぎません……」


まだ、さっきの二人とは違う。


怖がっている。


泣いている。


俺たちに気づいた女の子が、顔を上げた。


「……誰?」


俺たちを見る。


その目が、大きく見開かれた。


「助けて……」


消え入りそうな声だった。


「お願い……おうちに帰りたい……!」


隣の男の子も、堪えていたものが溢れたように泣き出した。


「お母さんに会いたい……!」


「大丈夫」


悠真先輩が、二人を安心させるように微笑んだ。


「君たちを迎えに来たんだ」


眼鏡をかけたバクが、ゆっくりとこちらを振り返る。


その顔には、ほかのバクと同じ笑顔が浮かんでいた。


「教育中です」


指示棒を下ろし、俺たちへ向き直る。


「良い子になるまで、ここから出ることはできません」


「もう十分だろ」


一ノ瀬が前へ出る。


「その子たちを連れて帰る」


「いけません」


眼鏡の奥で、赤い瞳がすっと細められた。


「教育を妨害してはいけません」


その身体が床を蹴る。


細長い指示棒を振り上げ、一ノ瀬へ襲いかかった。


「一ノ瀬!」


「大丈夫!」


一ノ瀬の足元へ、薄い青色の召喚陣が広がる。


現れた刀を掴み、指示棒を受け流した。


バクの身体が前へ流れる。


一ノ瀬は刀身を返し、その首筋へ峰を叩き込んだ。


鈍い音が響く。


バクの赤い瞳から光が消えた。


眼鏡がずれ、その身体が床へ倒れる。


「死んでないよね?」


女の子が、怯えた顔で尋ねる。


「大丈夫。気を失ってるだけだよ」


一ノ瀬が刀を消し、二人へ手を差し出した。


「立てる?」


女の子が、その手を握る。


「……うん」


男の子も椅子から降りた。


足元がふらついている。


俺は男の子の前でしゃがんだ。


「歩ける?」


「たぶん……」


「途中で動けなくなったら言って。背負うから」


男の子が、少し驚いたように俺を見る。


それから、小さく頷いた。


「早く、ここを出よう」


一ノ瀬の言葉に、全員が頷いた。


俺たちは来た道を引き返し、地下室を出た。


暗い階段を駆け上がっていく。


上へ近づくにつれ、激しい音が聞こえてきた。


何かが床へ叩きつけられる音。


バクたちの声。


そして、大聖(ダーシェン)の咆哮。


階段を上り切った。


「大聖!」


大広間には、何十体ものバクが集まっていた。


大聖の両腕。


肩。


脚。


至るところへ群がり、巨体を床へ押さえ込もうとしている。


それでも、大聖は倒れていなかった。


両足を大きく開き、地下への入口を守り続けている。


一体を腕で払い除ける。


別の一体が大聖へ飛びつく。


その身体を大きく揺らし、まとめて何体ものバクを振り落とした。


思っていたより、余裕がありそうだ。


けれど、数が多すぎる。


大聖が一体を退ける間にも、左右から新たなバクが押し寄せてくる。


「楓君、どうする?」


悠真先輩が、心配そうに大聖を見る。


「任せてください」


俺は大聖の横へ駆け寄った。


その大きな背中へ、片手をつく。


「大聖。もう少しだけ頑張れ」


大聖が、こちらを振り返り、低く喉を鳴らした。


俺は大聖の腹部に、白い召喚陣を展開した。


「まとめて、どいてもらいます」


召喚陣が強い光を放つ。


次の瞬間。


爆風が噴き出した。


大聖へ群がっていたバクたちが、一斉に吹き飛ばされる。


「ぎぎっ――!」


何体もの身体が宙を舞った。


柱へぶつかり、床へ転がっていく。


「今のうちです!」


大聖が先頭に立って走り出した。


俺と一ノ瀬が、そのあとに続く。


悠真先輩は執事服を着た二人を抱え、残る二人の子どもを囲うように走った。


「住人を、連れていってはいけません」


倒れたバクたちが、次々と起き上がる。


「ドリームランドの住人を、園外へ連れ出してはいけません」


「良い子は、ドリームランドで暮らします」


背後から、何十もの足音が迫ってきた。


大聖が城の巨大な扉へ両手をかける。


低い咆哮を上げ、左右へ押し開いた。


扉の向こうにも、バクたちが集まっていた。


城の前を埋め尽くし、俺たちが出てくるのを待ち構えている。


その目が、一斉に赤く光った。


「お客様」


「住人を、元の場所へお戻しください」


「これ、きりがないな……!」


また白い召喚陣を開く。


さっきより、光が弱い。


身体の奥から、力が抜けていくのを感じる。


短時間に、何度も大きな風を起こしすぎた。


それでも、ここで止まるわけにはいかない。


「一ノ瀬、伏せろ!」


「分かった!」


全員が身体を低くする。


俺は両手を前へ突き出した。


「吹き飛べ!」


召喚陣から、再び爆風が噴き出す。


城の前にいたバクたちが、左右へ吹き飛んだ。


開いた道へ、大聖が飛び出す。


俺も走り出そうとして、足元がわずかに揺れた。


「楓君!」


悠真先輩の声が聞こえる。


「大丈夫です。まだ走れます」


そう答えたけれど、余裕はほとんどない。


もう一度、今と同じ規模の風を起こせるかは分からなかった。


城から出る。


空には、真紅の月が浮かんでいる。


昼間まで楽しそうに輝いていた園内の照明も、今は赤い光を放っていた。


無人の観覧車が回り続けている。


誰も乗っていないジェットコースターが、録音された歓声を響かせながら暗闇を駆け抜けていった。


その中を、大聖がバクたちを払い除けながら進んでいく。


「とはいえ……」


俺は園内を見回した。


「どこに行けばいいんだ」


裂け目は、もう人が通れる大きさじゃない。


仮にたどり着いても、ここから出られるとは限らない。


「一つ、考えがある!」


隣を走っていた一ノ瀬が言った。


「俺たちが来た場所へ戻ろう!」


「戻って、どうする?」


「あそこには、まだ裂け目が残ってる」


「細い傷みたいになってたやつ?」


「ああ」


一ノ瀬が頷く。


「俺の刀で、次元の裂け目を広げる」


「次元の裂け目を?」


「ああ。橙子さんが言ってたんだ」


一ノ瀬は走りながら、自分の右手へ目を向けた。


「俺の刀には、次元と次元の境界へ干渉する力があるって。だから、まだ二つの世界が繋がってるなら――」


前方から、三体のバクが飛びかかってきた。


一ノ瀬が刀を召喚する。


一体目の拳をかわし、その背中へ峰を叩き込む。


俺も残る一体へ向かって風を放ち、道の脇へ転がした。


三体目は、大聖が太い腕で持ち上げる。


そのまま傷つけないよう、近くの植え込みへ投げ込んだ。


「裂け目を、もう一度開けるかもしれない」


一ノ瀬が話を続ける。


確証はないらしい。


けれど、ほかに方法はなかった。


「分かった。それに賭けよう」


俺たちは、最初に降り立った場所へ向かった。


後ろからは、城を出たバクたちが追ってくる。


アトラクションの陰からも、新たなバクが現れた。


「住人を、連れていってはいけません」


「良い子を、園外へ連れ出してはいけません」


「お客様だけ、速やかにお帰りください」


「帰れるなら、最初から苦労してないって!」


前方へ、何体ものバクが回り込む。


大聖が両腕を大きく広げ、そのまま集団へ突っ込んだ。


バクたちがまとめて左右へ押し退けられる。


一ノ瀬は大聖の脇を抜けようとするバクを、刀の峰で次々と打ち倒していった。


俺も小さな風で動きを鈍らせ、抜けてきたバクには、風で加速した蹴りを叩き込む。


できるだけ召力を温存する。


けれど、いくら倒しても数が減らない。


背後から迫るバクの一体が、子どもへ手を伸ばした。


悠真先輩が、その間へ身体を入れる。


「この子たちは、渡さない!」


肩でバクの身体を受け止め、そのまま足で押し返した。


抱えられていた少女と少年が、同時に口を開く。


「住人は、園外へ出てはいけません」


「私たちを、元の場所へ戻してください」


悠真先輩の表情が苦しそうに歪む。


それでも、その腕は緩まなかった。


「ごめんね」


二人を抱き締め直す。


「今は分からなくても、絶対に連れて帰るから」


やがて、見覚えのある広場が見えてきた。


白い台。


その上には、首掛け式のパスポートが大量に積まれている。


俺たちが最初にバクからパスポートを渡された場所だ。


「あった!」


一ノ瀬が、広場の一角を指差す。


何もない空中に、青紫色の細い光が浮かんでいた。


俺たちが通ってきた次元の裂け目。


今は、糸のように細い傷が残っているだけだ。


一ノ瀬が、その前へ駆け寄る。


「みんな、少しだけ時間を稼いで!」


大聖が裂け目を守るように立つ。


俺も振り返り、白い召喚陣を展開した。


悠真先輩は、四人の子どもを裂け目の近くへ集める。


赤い目をした二人は、また同じ言葉を繰り返していた。


「園外へ出てはいけません」


「私たちは、ドリームランドの住人です」


「違うよ」


悠真先輩が、二人へ静かに語りかける。


「君たちには、帰る場所があるんだ」


一ノ瀬が、右手へ刀を召喚した。


両手で柄を握り、空中に残された細い裂け目を見据える。


一度、大きく息を吸う。


それから、ゆっくりと吐き出した。


何かを強く思い描くように、一ノ瀬の目が細められる。


周囲の声も、背後から迫るバクたちの足音も、聞こえていないようだった。


次の瞬間。


――バチッ。


刀身から、青紫色の細い光が弾けた。


続けて、何本もの光が小さな稲妻となって、刃の周囲を走り始める。


「それ……」


俺は思わず、一ノ瀬の刀を見つめた。


一ノ瀬は答えない。


裂け目だけを見つめたまま、切っ先をゆっくりと近づけていく。


刀は何の抵抗もなく、空中に残された細い傷の中へ入っていった。


一ノ瀬の眉間に、深い皺が寄る。


額から、一筋の汗が流れた。


一ノ瀬が、刀の柄を強く握る。


青紫色の光が、さらに激しく刀身を駆け巡った。


「――開け!」


裂け目へ差し込んだ刀を、そのまま振り下ろす。


――ズバッ!


刃の軌跡に沿って、空間が切り開かれた。


糸ほどの細さしかなかった傷が、一気に左右へ広がっていく。


裂け目の内側から青紫色の光が溢れ出し、人が通れるほどの大きな亀裂が空中へ現れた。


裂け目の向こうに見えたのは、薄暗い筒の内側だった。


俺たちが入ってきた、ショッピングモールの滑り台。


「できた……!」


一ノ瀬が、信じられないような顔で裂け目を見る。


「やるじゃん、一ノ瀬!」


思わず声が出た。


「急ごう!」


悠真先輩が、まだ洗脳されていない二人の子どもへ向き直る。


「二人とも、先に入って!」


女の子が、男の子の手を握る。


二人は一度だけ俺たちを振り返り、次元の裂け目へ飛び込んだ。


光が揺らぐ。


その姿が、向こう側へ消えた。


次は、執事服を着た二人。


けれど、二人は裂け目を前にして足を止めた。


「園外へ出てはいけません」


「良い子は、ドリームランドで暮らします」


「大丈夫」


悠真先輩が、二人を抱き上げる。


「怖くても、一緒に帰ろう」


「住人を、連れていってはいけません!」


背後から、大量のバクが押し寄せる。


大聖が両腕を広げ、そのすべてを受け止めた。


何十体ものバクが、大聖の巨体へ群がる。


「悠真先輩、先に!」


一ノ瀬が叫ぶ。


悠真先輩は大聖を振り返った。


一瞬だけ、迷うように足を止める。


「行ってください!」


悠真先輩が二人を抱えたまま裂け目へ飛び込んだ。


大聖の巨体が、赤褐色の光の粒子へ変わり始めた。


支えを失ったバクたちが、一斉にこちらへなだれ込んでくる。


俺は残った召力を振り絞り、突風を叩きつけた。


バクたちの先頭が、後続を巻き込んで倒れる。


「次、鳴箕(なるみき)君が入って! 裂け目が閉じ始めたら、俺にしか開けられない!」


「分かってる!」


俺も裂け目へ向かう。


「一ノ瀬、早く来いよ!」


裂け目へ身体を投げ込む。


青紫色の光が視界を覆った。


◇


一瞬、上下の感覚が消える。


次に視界が戻ったとき、目の前には悠真先輩の大きな背中があった。


「うわっ――!」


避ける間もなく、その背中へぶつかる。


「楓君!?」


「なんで止まってるんですか!」


「ま、また引っかかった……!」


予想しておくべきだった。


悠真先輩の肩が、筒の曲がり角へ完全に挟まっている。


悠真先輩が抱えていた二人は、その腕を離れ、少し先の筒の中に横たわっていた


けれど、このままでは一ノ瀬が通れない。


「悠真先輩、前へ進んで!」


「進みたいんだけど、動けなくて……!」


後ろを振り返る。


青紫色の裂け目が激しく揺れている。


一ノ瀬の姿が、その向こうに見えた。


周囲から、亀裂が少しずつ閉じ始めている。


「一ノ瀬、早く!」


一ノ瀬が刀の峰でバクの腕を弾く。


そのまま後ろ向きに裂け目へ飛び込んだ。


追ってきたバクたちの手が、一ノ瀬へ伸びる。


けれど、その足は裂け目の直前で一斉に止まった。


「園外へ出てはいけません」


「私たちは、ドリームランドの住人です」


バクたちは境界を越えない。


全員が同じ笑顔を浮かべたまま、裂け目の向こうから俺たちを見つめていた。


青紫色の光から飛び出した一ノ瀬の身体が、俺へぶつかる。


「うわっ!」


「ちょ、一ノ瀬、押すな!」


「止まれないって!」


俺の身体が悠真先輩の背中へ押しつけられる。


前には悠真先輩。


後ろには一ノ瀬。


完全に挟まれた。


裂け目が急速に閉じていく。


赤い月。


笑顔で立ち尽くすバクたち。


その光景が細くなり、最後には一本の青紫色の線へ変わった。


――パチン。


小さな音とともに、裂け目が閉じる。


暗い筒の中に、静寂が訪れた。


「……間に合った」


一ノ瀬が、息を吐く。


「本当に……よかった」


悠真先輩の声が震えていた。


滑り台の先では、助け出した女の子の泣き声が聞こえる。


「帰ってこられた……」


「おうちに帰れる……!」


まだ洗脳されていなかった二人が、声を上げて泣いている。


執事服を着た二人は、何も言わなかった。


ただ、赤く染まっていた瞳は、少しずつ元の色へ戻っていた。


貼りついていた笑顔が消える。


そのまま、眠りに落ちるように倒れ込んだ。


「大丈夫!?」


悠真先輩が、横たわる二人へ手を伸ばす。


「……よかった。息はしてる。ただ眠ってるみたい」


「悠真先輩」


「な、何?」


「子どもが心配なのもわかるんですけど、俺、二人に挟まれてて、めちゃ苦しいです」


「……あ」


一ノ瀬が吹き出した。


俺も堪え切れずに笑う。


悠真先輩は少し困ったように眉を下げた。


それから、安心したように笑った。


俺たち三人の笑い声が、薄暗い滑り台の中へ響く。


その向こうからは、助け出した子どもたちの泣き声が聞こえていた。


今度は、悲しいからじゃない。


帰る場所へ、ようやく帰ってこられたからだった。

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