入園証
「ようこそ! 夢と笑顔の国――ドリームランドへ!」
その時、背後から、何かが軋むような音が聞こえた。
振り返る。
俺たちが通ってきた青紫色の裂け目が、ゆっくりと閉じ始めていた。
「まずい。閉じるぞ」
一ノ瀬と悠真先輩も、裂け目へ駆け寄る。
人が通れるほどあった亀裂は、すでに半分ほどの大きさになっていた。
今なら、まだ戻れるかもしれない。
「一ノ瀬。戻るなら今だ」
一ノ瀬は裂け目を見つめたあと、遠くにそびえる白い城へ目を向けた。
「でも、子どもたちはこの中にいる気がするんだ」
その表情に、迷いはなかった。
「だから、俺たちだけ帰るわけにはいかないよ」
予想はしていた。
こいつなら、そう言うと思っていた。
俺は園内を見回す。
飲食店らしき建物はいくつもある。
水や食べ物を手に入れられそうな場所もある。
「行方不明になった四人は、全員土曜日に消えてる」
俺は頭の中で、これまでに分かっていることを整理する。
「この裂け目が毎週同じ時間に開くなら、少なくとも次の土曜日には戻れる可能性が高い。最悪、何日かここに残ることになっても、食べ物や飲み物は手に入りそうだ」
「じゃあ……」
「でも」
俺は遠くの城を見た。
「それなら、どうして先に来た子どもたちは帰ってこないんだ」
裂け目が毎週開くなら、戻る機会はあったはずだ。
帰り道に気づかなかったのか。
それとも――帰りたくても、帰れなかったのか。
「ぼ、僕も残るよ」
悠真先輩が口を開いた。
声は震えていた。
それでも、大きな両手を握り締め、一歩前へ出る。
「怖いけど……子どもたちを放ってはおけない」
一ノ瀬が、悠真先輩へ頷いた。
二人の視線が俺へ向く。
「はぁ……」
思わず、ため息が漏れた。
最初から、俺だけ帰るなんて選択肢はない。
会長へは、ここへ入る前に連絡してある。
裂け目の場所も伝えた。
「不安要素しかないけど、やるしかないか」
その直後、裂け目が急速に細くなった。
青紫色の光が一本の線となり、最後には、空中へ刻まれた細い傷だけが残る。
一ノ瀬が、その前へ立った。
「完全には閉じてない」
「分かるのか?」
「うん。まだ向こうと繋がってる気がする」
一ノ瀬はしばらく裂け目を見つめていたが、やがて白い城へ向き直った。
「行こう。子どもたちを探さないと」
一ノ瀬の言葉に、悠真先輩が頷く。
俺も、空中に残った細い裂け目へ一度だけ目を向け、二人のあとに続こうとした。
「その前に!」
背後から、甲高い声が飛んできた。
振り返ると、先ほどのバクを模したマスコットが、両手を大きく広げていた。
「ドリームランドで遊ぶには、ドリームパスポートが必要です!」
マスコットが、少し離れた場所にある台を指し示す。
台の上には、大きな箱が置かれていた。
中には、首から下げるための紐がついたカードが、無造作に何十枚も入っている。
箱の手前には、子ども向けらしい丸い文字で案内が書かれていた。
『アトラクションであそぶには、パスポートがひつようです!』
『ひとりひとつ、くびからさげてね!』
マスコットは箱へ駆け寄ると、パスポートを三枚取り出した。
そして、俺たちのところへ戻ってくる。
「はい! どうぞ!」
一枚が、俺の胸元へ押しつけられた。
「近いって」
仕方なく受け取る。
カードには、笑顔を浮かべたバクのマスコットと、白い城が描かれていた。
裏面には園内の地図らしきものと、いくつかの空欄が並んでいる。
ただの入園証には見えた。
けれど、素直に首から下げる気にはなれない。
俺はパスポートをズボンのポケットへ入れた。
「ありがとうございます」
隣では、悠真先輩がマスコットからパスポートを受け取り、そのまま首へ下げている。
一ノ瀬は、受け取ったカードを裏表を眺めていた。
「これ、つけないと駄目なのかな」
「さあね。持ってれば十分だと思うけど」
俺が答えた直後、マスコットが動きを止めた。
満面の笑みを浮かべたまま、俺のポケットへ顔を向けている。
「パスポートは、首から下げてね!」
「なくさなきゃいいんだろ」
「首から下げてね!」
同じ言葉が、まったく同じ調子で返ってきた。
一ノ瀬の前にいたマスコットも、その手元を見つめる。
「パスポートは、首から下げてね!」
「いや、だから今――」
「首から下げてね!」
「首から下げてね!」
いつの間にか、近くにいた別のマスコットたちまで集まっていた。
一体。
二体。
三体。
同じ笑顔を浮かべたバクたちが、俺と一ノ瀬を取り囲んでいく。
「首から下げてね!」
「首から下げてね!」
「首から下げてね!」
表情は変わらない。
声にも怒りは感じられない。
それでも、俺たちが従うまで離れるつもりはないらしい。
「二人とも、つけたほうがいいんじゃないかな……」
すでにパスポートを首から下げた悠真先輩が、困ったように言う。
「……はぁ」
俺はポケットからパスポートを取り出した。
「分かった、分かったから。首から下げればいいんだろ」
紐を頭へ通し、カードを胸元へ下げる。
一ノ瀬も、まだ少し迷っているようだった。
けれど、周囲のマスコットを見回し、諦めたように息を吐く。
「……分かったよ」
一ノ瀬がパスポートを首へ下げた。
その瞬間。
俺たちを取り囲んでいたマスコットたちが、一斉に一歩下がった。
「これで、みんなドリームランドのお客様です!」
先ほどまでと何一つ変わらない、明るい声だった。
マスコットたちが、揃って両手を上げる。
「それでは、夢と笑顔の国をお楽しみください!」
明るい音楽が流れる。
遠くでは、観覧車がゆっくりと回っている。
歓迎されているはずなのに、妙に居心地が悪かった。
マスコットたちは、それぞれ別の方向へ散っていった。
さっきまで俺たちを取り囲んでいたのが嘘のように、もうこちらを気にしている様子はない。
「はぁ……なんだったんだ、今の」
胸元に下がったパスポートを指で持ち上げる。
見たところ、何の変哲もないカードだ。
「うーん……」
一ノ瀬も、自分のパスポートを眺めていた。
何か考え込んでいる。
「そういえば、橙子さんが……」
「誰?」
「あ、この前、部室にいた白衣の人。覚えてる?」
少し考える。
橘さんたちが調査結果を説明していた間、部室の隅でパソコンを操作していた人がいた。
「ああ。いたな」
「橙子さんが発見したんだけど、非能力者が異世界へ行くと、その世界の住人からは見えないみたいなんだ」
「えっ、そうなの?」
悠真先輩が、驚いたように声を上げる。
「僕、知らなかったよ」
俺も初耳だった。
「ていうか、どうやったらそんなこと分かるんだよ」
異世界へ行くこと自体、普通はできないはずだ。
ましてや、自分の姿が向こうの住人から見えているかなんて、どうやって確かめたのか。
一ノ瀬は、少し遠い目をした。
「えっとね……橙子さん、自分で異世界へ行って確かめたんだ」
「自分で?」
「うん。非能力者の自分が、異客から本当に見えないのか実験したんだよね」
「とんでもないやつだな」
「だよね……」
一ノ瀬も、同じことを思っているらしい。
俺は、先ほどパスポートが入っていた箱へ目を向けた。
マスコットたちは俺たちのことを見ていた。
俺たちが能力者だからだ。
けれど、これまでにここへ迷い込んだ子どもたちが非能力者なら、マスコットからは姿が見えないことになる。
「だから、あんなところに大量のパスポートが置いてあったのか」
「たぶんね」
一ノ瀬が頷く。
「姿が見えない人でも、自分で取れるようにしてあったんだと思う」
「これを首から下げれば、見えるようになるのかな」
悠真先輩が、自分のパスポートを持ち上げる。
「分かりません。でも、少なくともパスポートがどこにあるかは分かるのかもしれません」
俺も胸元のカードへ目を落とした。
つまり、こいつは入園証であると同時に、姿の見えない来園者を見つけるための目印ということか。
「だったら、余計に外したくなってきたんだけど」
そう言った瞬間。
少し離れた場所を歩いていたバクのマスコットが、足を止めた。
笑顔を浮かべた顔だけが、ゆっくりとこちらへ向く。
「……冗談だよ」
マスコットはしばらく俺を見つめていた。
やがて、何事もなかったように歩き始める。
俺はため息をついた。
「それで、これからどうする?」
一ノ瀬が、遠くにそびえる白い城へ目を向けた。
俺も同じ方向を見る。
この世界について何も分からない以上、どこから調べても大差はない。
ただ、遊園地の中心に建つあの城が、一番怪しいのは間違いなかった。
「まずは、あの城へ行ってみようよ」
悠真先輩の言葉に、俺たちは頷いた。
白い城へ向かって歩き始める。
園内には、色鮮やかな建物が並んでいた。
菓子のような装飾が施された店。
動物を模した乗り物。
音楽に合わせて踊るマスコットたち。
どれも明るく、楽しそうなものばかりだ。
その間を進み続ける。
けれど――。
「おかしいな」
一ノ瀬が足を止めた。
歩き始めてから、もう十分近く経っている。
それなのに、遠くに見える城の大きさは少しも変わっていなかった。
「全然、近づいてないね……」
悠真先輩が呟く。
振り返る。
先ほど通り過ぎたはずの噴水が、俺たちのすぐ後ろにあった。
その隣には、星型の看板を掲げた菓子店。
どちらも、少し前に見たものとまったく同じだ。
「道を間違えた?」
「いや。ずっと城へ向かって、まっすぐ進んできた」
少なくとも、同じ場所を一周した覚えはない。
俺は城を見上げた。
地上を進めないなら、上から向かえばいい。
「二人とも、少し離れてて」
一ノ瀬と悠真先輩が、後ろへ下がる。
俺の足元へ、白い召喚陣が広がった。
噴き上がった風が、身体を一気に上空へ押し上げる。
建物の屋根を越えたところで、もう一つ召喚陣を展開した。
背後から吹きつける風を受け、そのまま城へ向かって空中を進む。
屋根を一つ越える。
二つ。
三つ。
それでも、城との距離は縮まらない。
眼下に、先ほど見た噴水が流れていく。
その先にも、まったく同じ噴水があった。
さらにその向こうにも。
同じ店。
同じ街路樹。
同じ風船を持ったマスコット。
同じ景色が、何度も繰り返されている。
「なんだよ、これ」
これ以上進んでも意味はない。
風の向きを変え、地面へ降りる。
着地した場所は、出発した噴水のすぐ近くだった。
「駄目だ。上から行っても近づけない」
「空間そのものが、おかしくなってるのかな」
一ノ瀬が、白い城を見つめながら呟く。
「じゃ、じゃあ……」
悠真先輩が、少し迷ってから前へ出た。
「大聖だけでも、行けないかな」
悠真先輩の足元へ、赤褐色の召喚陣が広がる。
同時に、その赤い髪が根元から逆立ち始めた。
「大聖、お願い!」
光の中から、巨大な腕が伸びる。
続いて、赤褐色の体毛に覆われた巨体が、ゆっくりと姿を現した。
四メートル近い大猿。
額には雲をかたどった金色の冠飾り。
首には大粒の珠が連なり、両腕と腰にも金色の装具が輝いている。
一ノ瀬の顔が、一気に明るくなった。
「おおー! めちゃくちゃかっこいいですね!」
「えっ?」
悠真先輩が、驚いたように一ノ瀬を見る。
「そ、そうかな」
「はい! 大きいし、装飾もすごくかっこいいです!」
「そ、そう言ってもらえると、大聖も喜ぶと思うよ」
悠真先輩の表情が、少しだけ緩む。
「はぁ……」
今は大聖の感想を言い合っている場合じゃないと思う。
悠真先輩が白い城を指した。
「大聖。あの城まで行ってみて」
大聖が低く喉を鳴らし、城へ向かって歩き始める。
一歩。
二歩。
大きな足が、地面を踏み締める。
その巨体は、確かに前へ進んでいる。
最初は、そう見えた。
けれど、十歩ほど進んだところで違和感に気づく。
大聖の脚は動き続けている。
金色の装具も、歩みに合わせて揺れている。
それなのに、その横にある街路樹との位置が変わっていない。
まるで、見えない床の上を延々と歩かされているようだった。
「大聖も、進めてない……」
悠真先輩が、不安そうに呟く。
しばらくして、大聖は足を止めた。
困ったように振り返り、悠真先輩を見る。
「戻ってきていいよ」
大聖は来た道を戻り、悠真先輩の隣へ立った。
地上も駄目。
空からも駄目。
召喚獣だけを向かわせても駄目。
「はぁ……」
思わず、もう一度ため息が漏れる。
そのとき、悠真先輩が近くを歩いていたマスコットへ近づいた。
「ねえ」
バクのマスコットが、悠真先輩を見上げる。
「なあに?」
「あの城に行きたいんだけど、どうすればいいの?」
「悠真先輩。そんな、わざわざ怪しいやつらに――」
言い終わるより早く、マスコットが両手を叩いた。
「ドリーム城へ行きたいんだね!」
「う、うん」
「ドリーム城へ入れるのは、特別なお客様だけです!」
マスコットが、俺たちの胸元に下がっているパスポートを指差す。
「パスポートの裏側を見てね!」
カードを裏返す。
園内の簡単な地図と、その周囲に並ぶ四つの空欄。
地図には、赤い点が四か所つけられていた。
「地図の赤い印がついたアトラクションで遊ぶと、パスポートにスタンプがもらえます!」
マスコットが、楽しそうにその場で跳ねる。
「すべてのスタンプを集めたお客様は、ドリーム城へご招待!」
「つまり、その四つのアトラクションを回れば、城へ行けるってこと?」
一ノ瀬の問いに、マスコットが大きく頷いた。
「そのとおりです!」
それから、地図にある最初の赤い点を指差す。
「最初のアトラクションまで、ご案内します!」
「じゃあ、おねが――」
「いや」
答えようとした悠真先輩を遮る。
マスコットが、笑顔のまま俺を見上げた。
「案内はいらない。せっかくだし、ゆっくり楽しみながら行くよ」
「そうですか!」
マスコットは、残念がる様子も見せなかった。
「それでは、ドリームランドをお楽しみください!」
両手を振りながら、別の場所へ歩いていく。
その姿が十分に離れてから、悠真先輩が俺を見る。
「案内してもらったほうが、早かったんじゃないかな」
「相手が信用できるなら、それでもよかったんですけどね」
俺は小さくなっていくマスコットの背中を見つめた。
「どこへ向かうのかも、何を調べるのかも、全部見られることになりますよ」
「なるほど……」
悠真先輩が納得したように頷く。
一ノ瀬もパスポートの地図へ目を落とした。
「じゃあ、俺たちだけで回ろう」
「ああ」
俺も地図を確認する。
現在地から最も近い赤い点は、城とは反対方向にあった。
その横には、笑顔を浮かべた星と、一本の杖が描かれている。
『ミラクル・ミラーハウス』
名前だけなら、子どもが喜びそうなアトラクションだった。
ただ、その下には、丸みを帯びた可愛らしい文字で注意書きが添えられていた。
『かがみのなかで、まいごにならないように、きをつけてね!』




