誓約
「俺の勝ちだ」
強い風が、屋上を吹き抜けた。
兄は俺の指先をこめかみに当てられたまま、何も言わなかった。
互いの荒い呼吸だけが聞こえる。
「……ああ」
兄が短く息を吐いた。
「お前の勝ちだ、修二」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものが一気に緩んだ。
俺は兄のこめかみから指を離した。
少し離れた場所では、黒石さんが組んでいた腕を解いた。
尊流も黒石さんへ向けていた槍の穂先を下ろした。
戦いは、終わった。
そう思った途端、左手の痛みが強くなる。
掌の皮膚は裂け、指先から血が滴っていた。
それでも、兄を支えていた右腕は離さなかった。
兄の身体にも、まだほとんど力が入っていない。
兄は自らの脚で立とうと、俺から離れようとした。
「兄さん。無理に立たなくても――」
「離してくれ」
弱々しい声だった。
けれど、俺はその言葉に従った。
腕を解き、ゆっくりと身体を離す。
兄は一度、膝をつきかけた。
それでも片足を踏み出し、自分の力でどうにか踏みとどまる。
焼けたコートの裾が、風に揺れていた。
「ーーだが、俺の考えが間違っていたと認めたわけではない」
「……分かってる」
今回の計画を止められたからといって、兄が見てきたものまで消えるわけじゃない。
能力者への恐怖も。
居場所を失い、今も苦しんでいる人たちも。
何一つ、解決していない。
兄が顔を上げた。
「お前が示した道に、能力者の未来を託せるか」
鋭い目が、まっすぐに俺を捉える。
「それを証明しろ」
「分かった」
迷いはなかった。
ここから先が、俺の戦いだ。
次元の裂け目から見つかった金属片。
その後、調べるほどに増えていった侵攻の兆候。
「兄さん、一年間、俺に時間をくれないか」
兄の眉が、わずかに動いた。
「侵攻が始まる正確な時期は分からない。だけど、俺は一年以内に起きると考えている」
兄の表情に、初めて小さな驚きが浮かんだ。
黒石さんも、黙ったまま俺へ視線を向けた。
「それまでに、侵攻を止めるための準備を整える」
俺は兄から目を逸らさなかった。
「そして、能力者の力が、人を傷つけるだけのものじゃないことを――」
痛む左手を握り締めた。
「能力者とそうでない人たちが、共に生きていけることを、兄さんに証明する」
兄は何も答えなかった。
俺の言葉を確かめるように、しばらくこちらを見つめている。
やがて、小さく息を吐いた。
「分かった」
兄の長い髪が、風に流れた。
「一年の間、サモンズはすべての破壊活動を停止する」
「兄さん……」
「だが――」
兄の目が、再び鋭くなる。
「一年後、お前が何も証明できていなければ、俺は計画を再開する」
低く、静かな声が続いた。
「そのときは、もう俺を止めるな」
それは猶予であると同時に、最後の警告だった。
俺が勝ち取ったのは、能力者とそうでない人たちが共に生きる未来じゃない。
その可能性を証明するための、一年間だ。
「……分かった。この一年で、兄さんに別の未来を選ばせる」
俺は、はっきりと兄の目を見返した。
そのとき、兄の口元がほんのわずかに上がったように見えた。
けれど、それが笑みだったのか確かめるより先に、兄は背を向けた。
一歩踏み出す。
その身体が、大きく揺れた。
「兄さん!」
俺が手を伸ばすより早く、黒石さんが動いた。
兄の隣へ回り込み、倒れかけた身体を肩で支える。
「……すまない」
兄が小さく呟いた。
黒石さんは何も言わなかった。
ただ兄の腕を自分の肩へ回し、しっかりとその身体を支えていた。
黒石さんに支えられ、兄は屋上の出口へ向かって歩いていく。
俺は、鉄製の扉が閉じるまで、その背中を見送った。
屋上に残ったのは、俺と尊流だけだった。
尊流の槍が光の粒子となって消えていった。
「やったな」
「ああ」
短く答えると、尊流が俺の隣へ歩いてきた。
「それで、異世界からの侵攻なんて話、なんで俺たちにも黙ってた?」
「これまでやっていたのは張り込みや監視、調査が中心だったからな。それに、絶対に相手へ気づかれてはならなかった」
「……理由は分かった。だが、サモンズの件といい今回といい、一人で動きすぎだ」
「今回は一人じゃない。調査に協力してくれた人がいる」
「そういう意味じゃねぇよ」
尊流は呆れたように頭をかいた。
「次からは、俺たちにも話せ。何かできることがあるかもしれねぇだろ」
「……分かった」
「まあ、張り込みや監視が中心なら、たしかに俺には向いてねぇけどな」
「自覚はあるんだな」
「うるせぇ」
尊流はそう言ってから、血に濡れた俺の左手へ目を向けた。
「まあ、その話はあとだ。とにかく病院へ行くぞ」
「そうだな。円と灯莉のことも気になる」
「ああ、それだがな」
尊流がズボンのポケットから携帯を取り出した。
画面を操作し、俺へ向ける。
「灯莉から連絡が来てる」
そこには、少し前に届いたLINNのメッセージが表示されていた。
『勝ったよ! 円が少し怪我したけど……今、朝凪病院に向かってる』
尊流が携帯をポケットへ戻した。
「……とりあえず、二人とも無事だ」
「ああ。だけど、円の怪我が気になる」
俺は、兄たちのいなくなった屋上へ一度だけ目を向けた。
「俺たちも行こう」
◇
目を覚ましたとき、俺は朝凪病院のベッドに横たわっていた。
朝凪市にある、小さな病院。
槍宮家のかかりつけで、院長は勇玄さんの昔からの友人らしい。
怪我の事情を深く尋ねることも、警察へ知らせることもなく治療してくれる。
そのうえ、腕も確かだ。
俺の左腕や肩、太腿には包帯が巻かれている。
どの傷も深くはなく、しばらく安静にしていれば問題ないと言われた。
ただ――。
「だから、あのときの判断が遅いのよ」
ベッドの横に置かれた椅子へ腰かけ、灯莉が腕を組んでいた。
「避け切れないと分かった時点で、どこに受けるかを決めなさい。全部かわそうとするから、かえって余計な傷が増えるの」
「はい……」
「血の槍を左腕で受けたのは悪くなかったわ。急所を守る判断はできてた。でも、あと少し早く見切っていれば、もっと浅い傷で済んだはずよ」
「はい……」
「それから、血の網を切ったところ。抜けることばかり考えて、切れた糸の先まで見てなかったでしょ」
「……はい」
目を覚ました直後は、よくやったと褒めてくれていた。
それが戦いの話をしているうちに、少しずつ熱が入ってしまったらしい。
いつの間にか、完全な反省会になっていた。
「聞いてるの?」
「き、聞いてるよ」
「なら、今言ったことを――」
病室の扉が開いた。
「おいおい。こんなときまで指導してんのかよ」
尊流さんが、呆れたような顔で立っていた。
灯莉が椅子から立ち上がる。
「お兄ちゃん!」
その表情が、すぐに真剣なものへ変わった。
「どうなったの? 修二さんは?」
続けて、眉をつり上げる。
「というか、無事なら連絡してよ!」
「すまんすまん。道中は修二と少し話し込んでてな」
尊流さんは片手を上げ、病室の中へ入ってきた。
その身体に目立った怪我はない。
「修二は今、治療を受けてる。左手は酷い火傷だが、命に関わるような怪我じゃねぇ」
尊流さんは、俺と灯莉を順番に見た。
「修二の兄貴も止めた。トゥルルの破壊は阻止した」
俺と灯莉は、顔を見合わせた。
灯莉の表情が和らぐ。
俺も小さく息を吐いた。
「よかったです」
「ああ」
尊流さんは短く答えたあと、わずかに目を細めた。
「……だが、どうやらこれで終わりじゃねぇ」
「終わりじゃない?」
尊流さんの口元が、わずかに上がる。
けれど、楽しそうな笑顔とは違った。
外敵の気配を感じ取った獣のような、獰猛な表情だった。
「ああ。次は、もっとでかい戦いになる」
尊流さんが告げる。
「異世界から、この世界へ敵が攻めてくる」
「えっ……?」
思わず声が漏れた。
灯莉も目を見開く。
「どういうこと?」
「詳しいことは、修二が治療を終えてから話すそうだ。俺には難しいことまでは分からねぇ」
尊流さんは、窓の外へ目を向けた。
夕暮れの朝凪市が、何事もなかったように広がっている。
「ただ、俺たちがやることは決まってる」
再びこちらへ向けられた目には、迷いがなかった。
「敵が来るまでに、そいつらを叩き返せるだけの力をつける」
尊流さんが、力強く言い切る。
「俺たちが――能力者が、この世界を守れるってことを証明するぞ」




