兄弟の選択
強い風が、俺たちの間を吹き抜けた。
兄の長い髪が宙へなびき、黒いコートが大きくはためく。
俺の隣では尊流が兄と黒石さんを見据え、いつでも動けるように腰を落としていた。
黒石さんは、兄の少し後ろで腕を組み、黙って立っている。
「……兄さんは、この事件を利用して、能力者への恐怖を煽るつもりなんだな」
俺は、兄の目をまっすぐに見つめた。
「能力者とは一緒に暮らせない。生活圏を完全に分けるべきだと、世間の方から言い出すように仕向ける」
兄は否定しなかった。ただ、黙ってこちらを見つめている。
「そして、能力者だけが暮らす場所を国に作らせる。そのために兄さん自身が――能力者への恐怖の象徴になる」
「そうだ」
兄は迷うことなく認めた。
「能力者だけの居住区を設け、互いの生活圏を完全に分ける。すでに政治家連中とも話はついている」
兄が眼下へ視線を向ける。
「ここの破壊のこともな」
はるか下では、何も知らない人たちがトゥルルを行き交っている。
これから兄が壊そうとしている場所で、いつもどおりの日常を過ごしている。
「無関係の人が巻き込まれるかもしれないんだぞ」
「被害は可能な限り抑える」
「ゼロにはできない」
兄は答えなかった。
その背後で、黒石さんは腕を組んだまま、眼下の人々へ視線を落とした。
上腕をつかむ指に力がこもり、上着の袖へ深い皺が寄る。
それでも、黒石さんは何も言わなかった。
「それに……こんなことをすれば、能力者は今よりずっと恐れられる」
「だからこそ、分ける必要がある」
低く、静かな声で兄が答えた。
「互いの恐怖は、もう消せない。なら、それが憎しみに変わって傷つけ合う前に、生活圏を分けるしかない。能力者には能力者の居場所を作る。俺は、そのためにここまで来た」
言っていることが、何も理解できないわけじゃない。
能力者への風当たりは、年々強くなっている。
どれだけ人を救っても、たった一人が事件を起こせば、能力者全体が危険な存在として扱われる。
このままでいいとは、俺だって思っていない。
「兄さんの考えが、全部間違っているとは思わない」
兄の目が、わずかに細められた。
「能力者とそうでない人間が、このまま一緒に暮らしていけるのか。俺にも分からない」
それを認めるのは怖かった。
分離が必要になる未来なんて、考えたくもない。
それでも、兄が見てきたものを、何も知らないふりをして否定することはできなかった。
「いつか、本当に生活圏を分ける必要が出てくるのかもしれない」
俺は一度、眼下のトゥルルへ目を向けた。
大勢の人たちが、兄たちの計画を知らずに歩いている。
その人たちに能力者を恐れさせ、自分たちから分離を望ませる。
そんな方法でしか選べない未来なら、それは本当に選んだことにはならない。
「だけど、恐怖で選ばせるのは違う」
兄の表情は変わらない。
「関係のない人たちを危険にさらすのも、兄さんと黒石さんが悪人になるのも違う」
「なら、どうする」
兄が静かに尋ねた。
「何もせず、いつか理解される日を待つのか」
「違う」
俺は首を横へ振った。
「まだ、別の道がある」
兄は何も言わず、続きを待っている。
「近いうちに、この世界へ異世界からの侵攻が始まる」
兄の眉が、わずかに動いた。
黒石さんも、眼下の街から俺へ視線を戻す。
「異客とは違う。偶然、こっちの世界へ迷い込んでくる化け物じゃない」
半年前、次元の裂け目の近くで拾った、この世界のものではない金属片。
その後も協力者と調査を続け、いくつもの証拠を集めた。
そこから導き出した結論だ。
「向こうの世界から、明確な意思と目的を持って侵攻してくる。その兆候を、俺はすでにつかんでいる」
「確かな話なのか」
「詳しいことは、全部話す。今すぐ信じろとは言わない」
俺は兄から目を逸らさなかった。
「だけど、侵攻は起きる。そのとき、異世界の敵からこの世界を守れるのは、俺たち能力者だ」
風が、屋上を駆け抜ける。
「能力者は、ただ恐れられるだけの存在じゃない。人を傷つける力じゃなく、人を守る力にもなれる」
すべてが上手くいく保証もない。
それでも。
「俺たちが侵攻を止める。能力者がこの世界を守れると、世界に見せる」
兄はすぐには答えなかった。
俺の言葉を否定するのではなく、その可能性を考えるように目を伏せる。
その沈黙が、永遠に続くように感じられた。
やがて、兄が口を開いた。
「仮に、お前の言う侵攻が起きたとする」
その声は変わらず平坦だった。
「能力者がそれを食い止め、多くの人間を救ったとしても――それで恐怖が消えるとは限らない」
「……兄さん」
「異世界からの侵略者を退けられるほどの力だ。その力が、自分たちへ向けられたらどうなる」
兄の言葉が、胸へ突き刺さる。
「世界を守れる力は、そのまま世界を壊せる力でもある」
否定できなかった。
俺たちがどれだけ人を救っても、その力を恐れる人間は必ずいる。
感謝してくれる人ばかりではない。
俺たちの力を目の当たりにしたことで、かえって恐怖を強める人間だっているかもしれない。
「異世界からの侵攻を止めることと、能力者の生活圏を分けることは両立する」
兄が俺を見据える。
「お前の言う未来へ賭けるために、今苦しんでいる能力者たちを待たせるつもりはない」
その間にも、能力者は狙われる。
家族から恐れられ、居場所を失う。
異客に襲われ、命を落とす。
兄は、それを何度も見てきた。
だから、待てない。
不確かな未来へ、すべてを預けられない。
「……そうなるかもしれない」
俺は認めた。
能力者が世界を救えば、すべてが解決する。
そんな単純な話ではないことくらい、分かっている。
「それでも、変えられるかもしれないんだ」
兄の目を見る。
「能力者を恐れる人が残ったとしても、俺たちを信じようとしてくれる人だって、きっと現れる」
橙子。
能力を持たない、デモンズの仲間たち。
サモンズを抜けて路頭に迷っていた時、俺を受け入れてくれた、槍宮家の人たち。
能力を持たない彼らは、能力者であることも含めて、俺を受け入れてくれた。
「だから俺は、共に生きられる可能性を、何も試さないまま捨てたくない」
ここへ来るまで、何度も迷った。
兄と戦うことになるかもしれない。
俺の言葉は、もう兄には届かないかもしれない。
その不安は、今も消えていない。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
あのとき、俺を家から連れ出してくれたのは兄だった。
今度は俺が兄を連れ戻す。
「だから、この計画を止める」
自分の声が、風の中にはっきりと響いた。
「俺が、兄さんを止める」
言葉にした瞬間、指先の震えが止まった。
兄はしばらく、何も言わずに俺を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「なら、証明してみろ」
兄の足元に、青い召喚陣が開いた。
「お前の言う未来を、俺に選ばせたいのなら――」
轟音とともに、兄の背後すれすれから青い炎が噴き上がった。
炎に触れそうなほど近くに立っているのに、その勢いにあおられてはためく兄のコートも、長い髪も、まったく燃えてはいない。
青い炎は兄の意思に従うように、その背後で激しく揺らめいている。
「まず、俺を止めてみせろ」
兄が右腕を上げた。
開かれた掌が、まっすぐに俺へ向けられる。
「俺は止まらない。誰にも邪魔はさせない」
青い炎が、ひときわ高く燃え上がった。
「たとえ――修二。お前が相手でもだ」




