ロスト
二〇二一年二月。
あの日、俺が海姉を迎えに出たことに、深い理由なんてなかった。
夕飯の時間が近づいているのに、まだ帰ってきていなかったから。
帰り道で会えたら、今日の夕飯は何か聞いてみよう。
本当に、その程度の理由だった。
冬の日は短い。
空にはまだ夕焼けが残っているけれど、辺りはもう薄暗くなり始めていた。
吐く息が白い。
俺は上着のポケットに両手を入れ、海姉がいつも通る道へ向かって歩いていた。
もう少しで大通りに出るというところで、短い悲鳴が聞こえた。
「きゃっ――!」
海姉の声だ。
考えるより先に走り出した。
角を曲がる。
少し先に、黒いワゴンが停まっていた。
開いた後部座席の扉。
そこへ、海姉が二人の男に引きずり込まれていく。
「海姉!」
俺の声に、海姉が顔を上げた。
一瞬だけ、目が合う。
海姉の手から買い物袋が落ち、リンゴが道路へ転がった。
後部座席の扉が閉まる。
ワゴンが急発進し、進行方向――俺のいる方向へ向かってきた。
車内で、淡い青色の光が見えた。
海姉の召喚陣だ。
その直後、男が腕を振るった。
海姉の身体が折れ曲がり、青い光が消える。
「海姉っ!」
止めないと。
でも、どうやって。
俺の炎じゃ、走っている車は止められない。
無理に攻撃すれば、海姉まで巻き込む。
それでも、何もしないまま行かせるわけにはいかない。
黒いワゴンが、速度を落とさず迫ってくる。
俺は道の端へ寄らなかった。
エンジン音が大きくなる。
あと十メートル。
五メートル。
ぶつかる直前、俺は横へ跳んだ。
すれ違いざま、ワゴンの側面へ右手を叩きつける。
触れた場所に、三つの小さな召喚陣が浮かび上がった。
直後、車体に弾かれるようにして、俺の身体が道路へ転がる。
「ぐっ……!」
手のひらと膝を、アスファルトに強く擦りつけた。
制服の膝が破れ、じわりと血が滲む。
それでも、すぐに顔を上げた。
黒いワゴンが遠ざかっていく。
後部座席の辺りに、小さな青い炎がまとわりついた。
塗装を燻し、灰色の煙を上げながら走っていく。
道路を転がっていたリンゴが、俺の足元にぶつかって止まった。
けれど、拾っている時間はない。
俺はポケットから携帯電話を取り出した。
最初にかけたのは、黒石さんだった。
数回の呼び出し音のあと、低い声が聞こえる。
『どうした』
「黒石さん。海姉が攫われました」
わずかな沈黙。
『場所は』
俺は現在地と、黒いワゴンが走り去った方向を伝える。
「黒石さん、今ホームですか?」
『ああ』
「梓さんは?」
『いる』
「梓さんを連れて、バイクで来てください。俺を拾ってほしいんです。できるだけ早く」
『分かった』
それだけ言って、電話は切れた。
次に、兄へ電話をかける。
今度は、一度目の呼び出し音でつながった。
『修二?』
「かず兄。海姉が攫われた」
電話の向こうが、静まり返った。
『どこだ』
声が変わった。
俺は黒石さんに伝えたのと同じ場所を告げる。
「黒いワゴンだ。ここから北へ向かった。この先で道が分かれるけど、たぶん北東側の大通りへ出ると思う」
『海は無事か?』
「分からない。車の中で男に殴られたと思う」
口にした途端、手の震えが強くなった。
落ち着け。
今は、必要なことを伝える。
「車には召喚陣を仕掛けた。黒石さんと梓さんに来てもらって、俺はそっちを追う」
『分かった。俺もすぐに向かう』
「かず兄は、仕事を切り上げて、悟さんの車で、北東側の大通りに向かってほしい。詳しい場所は、分かり次第また連絡する」
一瞬、返事がなかった。
俺が指示したことに驚いたのかもしれない。
『……分かった。それでいこう』
通話を切る。
黒いワゴンの姿は、もう見えない。
それでも、灰色の煙がわずかに空へ残っていた。
消えるな。
せめて、黒石さんたちが来るまでは。
俺は煙の向こうを睨みながら、何度も浅い呼吸を繰り返した。
やがて、遠くから重いエンジン音が聞こえてきた。
音は急速に近づき、交差点の向こうから一台の大型バイクが現れる。
運転しているのは黒石さん。
その後ろには、梓さんが乗っていた。
バイクは俺の目の前で急停車した。
「修坊!」
梓さんがバイクから飛び降り、俺の肩をつかむ。
「怪我しとるやん! 大丈夫か?」
「転んだだけです。それより、海姉が」
「分かっとる」
いつもなら笑っている梓さんの顔に、今はまったく笑みがない。
「乗れ」
黒石さんが短く言った。
梓さんは自分のヘルメットを脱ぐと、俺の頭へ被せた。
「梓さんは?」
「俺はええ。はよ乗り」
俺は黒石さんの後ろへ跨がった。
さらにその後ろへ、梓さんが乗る。
俺は空にわずかに残った灰色の筋を指差した。
「あの薄い煙を追ってください!」
黒石さんがアクセルを回す。
「掴まれ」
次の瞬間、大型バイクが弾かれたように走り出した。
ものすごい加速だった。
俺は慌てて黒石さんの身体へしがみつく。
冷たい風が、ヘルメットの隙間から入り込んでくる。
灰色の煙を追って、いくつもの角を曲がった。
けれど、数分も経たないうちに、煙は完全に見えなくなった。
大きな交差点へ出たところで、黒石さんがバイクを停める。
正面と左右。
三つの道に分かれている。
「修坊」
後ろから梓さんが尋ねる。
「車に何を仕掛けたん?」
「召喚陣を三つです」
俺は携帯電話で時間を確認した。
「一つは、弱い炎で車体を燻して煙を出すもの。残り二つは、時間が来たら青い炎が五回、強く点滅します」
「時間差か」
黒石さんが呟く。
俺は頷いた。
「五分後と、十分後。最初の点滅まで、あと一分です」
「五回だけか……」
梓さんが周囲を見回す。
建物が多く、地上からでは遠くまで見通せない。
その目が、上へ向いた。
「ほな、見逃さんように上から探すわ」
梓さんの足元に、紫がかった黒い召喚陣が開く。
その内側から、黒い鎖の巻きついた長い柄が勢いよくせり上がった。
梓さんは柄へ足をかけ、その勢いを利用して宙へ跳ぶ。
さらに空中で足元に召喚陣を開き、せり上がる柄を次々と足場にして、高く上がっていく。
やがて、空中に展開した召喚陣から伸びた柄につかまり、その場に留まった。
俺は携帯電話の画面を見る。
あと十秒。
九。
八。
心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
頼む。
見えてくれ。
数字がゼロになった。
けれど、地上から見える範囲には何も起こらない。
俺は建物の向こうを睨みながら、心の中で数える。
一回。
二回。
見えない。
三回。
四回。
頼む。
梓さん――見つけてくれ。
「見えた!」
頭上から梓さんの声が響いた。
「北東や! この先の大通りを走っとる! 光る場所が少しずつずれた。まだ動いとるで!」
空中に残した召喚陣から黒い鎖が伸び、一気に地上近くまで垂れ下がる。
梓さんはその鎖を滑り降り、俺たちの前へ軽やかに着地した。
「行くぞ」
黒石さんが即座にバイクを発進させる。
俺は再びその背中へしがみついた。
梓さんが後ろから俺の身体を支える。
その腕に身体を預け、俺は携帯電話を取り出した。
走行中の風で画面が揺れる。
それでも、兄へ電話をかける。
『修二!』
「かず兄。位置が分かった」
梓さんが見つけた方角と、ワゴンが走っている大通りを伝える。
『分かった。悟とそっちへ向かう』
「次の点滅は、あと五分で出る。それまでに、もう少し近づく」
『無茶はするな』
「分かってる」
電話を切り、前を見る。
黒石さんのバイクが、夜になりかけた街を猛スピードで駆け抜けていく。
まだ追いつける。
俺がつけた召喚陣は、確かに海姉のいる場所を示してくれた。
今度こそ、見失わない。
絶対に、海姉を助ける。
◇
大通りを抜けると、辺りの建物は次第に少なくなっていった。
代わりに、暗い山の影が近づいてくる。
黒石さんのバイクは、山沿いの道を速度を落とさず走り続けた。
俺は携帯電話の画面を何度も確認する。
二つ目の召喚陣が発動するまで、あと一分もない。
「梓さん!」
走行中の風に負けないよう、大声を出す。
「もうすぐ二回目が光ります!」
「分かった!」
梓さんが俺の肩を叩く。
黒石さんがバイクの速度を落とした。
梓さんは走行中のバイクから道路脇へ飛び降り、その足元に召喚陣を開く。
せり上がった柄を足場に跳び、さらに空中へ召喚陣を展開する。
次々と現れる柄を蹴り、あっという間に木々よりも高い位置まで上がっていった。
俺は携帯電話へ目を落とす。
あと五秒。
四。
三。
二。
一。
「光れ……!」
一回。
二回。
三回。
やがて、梓さんの声が響いた。
「見えたで!」
残りの点滅が終わるより早く、梓さんが鎖を伝って地上へ降りてくる。
「この先や。山ん中に建物がある。さっきと違って、光った場所は動いとらん!」
車が停まった。
海姉は、そこにいる。
俺はすぐに兄へ電話をかけた。
『修二!』
一度も呼び出し音が鳴らないうちにつながった。
「かず兄。ワゴンが停まった。山の中にある建物だ」
現在地と、梓さんが確認した方角を伝える。
電話の向こうから、車のエンジン音が聞こえていた。
『俺たちも近くまで来ている。あと数分で着く』
俺は周囲を見る。
山へ入る細い道が一本だけ続いていた。
正面から向かえば、見張りに気づかれる可能性が高い。
「かず兄。俺たちはそのまま正面から行く」
『何?』
「悟さんの車は手前で停めて、かず兄は裏へ回って。俺たちが見つかっても、すぐには出てこないでほしい」
一瞬、沈黙があった。
『……中の様子が分かってから、挟むんだな』
「うん。海姉を人質にされたときのために、かず兄は見えないところにいて」
『分かった』
兄の返事を聞き、通話を切った。
「黒石さん。行きましょう」
黒石さんがアクセルを回す。
バイクは細い山道へ入り、暗い木々の間を駆け上がっていった。
◇
山道の先にあったのは、古い別荘だった。
二階建ての大きな建物だが、外壁は汚れ、庭も長い間手入れされていない。
敷地の脇に、黒いワゴンが停まっていた。
間違いない。
あの車だ。
バイクを降りた俺たちは、木々に身を隠しながら別荘へ近づいた。
玄関の前には、一人の男が立っている。
煙草を吸いながら、落ち着きなく周囲を見回していた。
見張りだ。
梓さんが前へ出ようとする。
その肩を、黒石さんが片手で止めた。
黒石さんが右手を上げる。
握った拳の前に、小さな召喚陣が浮かんだ。
その内側から現れたのは、指先ほどの石だった。
石は、ほとんど音もなく撃ち出された。
次の瞬間。
男のこめかみに石が命中した。
「ぐっ……」
男は短く呻き、その場へ崩れ落ちる。
「黒石さんも、使えたんか……?」
梓さんが驚いたように尋ねた。
けれど、黒石さんは何も答えない。
倒れた男のそばを通り過ぎ、そのまま別荘へ向かっていく。
梓さんも、それ以上は聞かなかった。
俺たちは玄関の前まで近づいた。
扉の向こうから、男たちの笑い声が聞こえる。
それに混じって、何かが倒れる音。
「このっ……大人しくしろ!」
続いて聞こえた声に、心臓が跳ねた。
海姉の苦しそうな声。
梓さんの顔から、すべての表情が消えた。
黒石さんが玄関の扉へ手をかける。
鍵はかかっていない。
俺たちは一斉に中へ踏み込んだ。
鼻を突く、ひどい臭い。
酒と煙草。
それに、薬品のような臭いが混じっている。
広い居間には、五人の男がいた。
部屋の隅には、服を乱したまま、虚ろな目で床へ座り込んでいる女性たちがいる。
テーブルの上には、空になった酒の瓶と注射器が散らばっていた。
そして、部屋の中央。
一人の男が、海姉の髪をつかんで立たせていた。
海姉の眼鏡はなく、頬には大きな痣ができている。
唇の端から、血が滲んでいた。
「海姉……」
海姉が顔を上げる。
「修二……?」
俺たちの姿を見た男たちが、一斉に立ち上がった。
「な、なんでここが……!」
梓さんは答えなかった。
ただ、海姉をつかんでいる男を見つめている。
足元に、紫がかった黒い召喚陣が開いた。
長い柄がせり上がる。
梓さんは大鎌をつかむと、低い声で言った。
「……ほんま、殺すわ」
その声に、男たちの顔が引きつった。
海姉をつかんでいた男が、慌ててナイフを取り出す。
刃を、海姉の首元へ押し当てた。
「う、動くな!」
梓さんの足が止まる。
「こ、こいつがどうなってもいいのか!」
男の手が震えている。
刃先が海姉の首へ触れ、薄く血が滲んだ。
「武器を捨てろ!」
梓さんは動かない。
黒石さんも、男を睨んだまま足を止めている。
俺は部屋の中を見回した。
兄の姿はない。
まだ裏へ回っている途中なのか。
それとも、もう――。
「早く捨てろ!」
男が叫んだ、その直後だった。
部屋の奥で、青い光が走る。
凶鬼の男たちの背後。
裏口から入った兄の足元に、大きな青い召喚陣が開いていた。
そこから一本の青い炎が勢いよく噴き出す。
炎は海姉の身体を避け、ナイフを握る男の手首へ横から襲いかかった。
「熱っ!」
男の腕が、炎の勢いに押されて大きく弾かれる。
海姉の首元からナイフが離れ、その手からも滑り落ちた。
床へ落ちた刃は、青い炎に包まれた瞬間、赤く熱せられて形を失っていく。
「海から離れろ」
兄の低い声が響いた。
男たちが振り返る。
兄の目には、これまで見たこともないほどの怒りが浮かんでいた。
その足元で、召喚陣がさらに強い光を放つ。
次の瞬間。
何本もの青い炎が、一斉に噴き出した。
床を走り、壁を伝い、家具の間を縫う。
炎はまるで意思を持っているかのように、海姉や部屋の隅にいる女性たちを避け、凶鬼の残党だけを次々とのみ込んでいった。
「ぎゃああああっ!」
男たちの悲鳴が響く。
一人がテーブルへ叩きつけられ、その向こう側へ倒れた。
海姉の髪をつかんでいた手からも、完全に力が抜ける。
青い炎が荒れ狂う部屋の中心で、海姉だけは傷一つ負うことなく立っていた。
「海姉!」
俺が駆け出す。
海姉の身体が傾くより先に、梓さんが抱き止めた。
「海!」
梓さんが、その顔をのぞき込む。
「大丈夫か!? ほかに何もされとらんか!?」
「梓……」
かすかな声が返ってきた。
海姉は傷ついている。
頬も腫れ、唇も切れている。
それでも、意識は失っていなかった。
その声を聞いた瞬間、梓さんの顔に少しだけ笑みが戻った。
「ほんま……よかった」
声が、わずかに震えていた。
兄も海姉の前へ膝をつく。
「海。ほかに怪我は?」
「殴られただけ……大丈夫だよ」
「どこが大丈夫だ。顔も腫れてる」
兄は海姉の頬へ触れようとして、傷に触れないよう途中で手を止めた。
黒石さんもそばへ来て、海姉の様子を確かめる。
「立てるか」
「はい……少し休めば」
よかった。
間に合った。
海姉は怪我をしている。
怖い思いもしたはずだ。
それでも、生きている。
助けられたんだ。
そう思ったときだった。
海姉の表情が変わった。
その視線が、兄の肩越しへ向けられる。
青い炎に焼かれ、テーブルの向こうへ倒れた男。
そいつの指が、わずかに動いていた。
焦げた上着の内側へ手を入れ、拳銃を引き抜く。
銃口が、兄の背中へ向けられた。
俺の位置からは、兄の身体が邪魔になって見えていなかった。
梓さんも、黒石さんも気づいていない。
見えていたのは――海姉だけだったんだ。
「一樹!」
海姉が叫んだ。
考えて動いたわけじゃなかったんだと思う。
海姉は反射的に両手を伸ばし、兄の身体を突き飛ばした。
パンッ!
乾いた音が、部屋の中に響いた。
海姉の身体が、小さく揺れる。
白い服の胸元に、赤い染みが広がった。
「……海?」
兄の声が聞こえた。
海姉は何かを答えようとした。
けれど、声は出なかった。
その身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「海姉っ!」
俺の叫び声が、部屋の中に響いた。
兄が、崩れ落ちる海姉の身体を抱き止める。
その直後。
黒石さんの拳の前に、召喚陣が開いた。
男が二発目を撃つより早く、いくつもの石礫が凄まじい勢いで放たれる。
最初の一つが、拳銃を握る手を砕いた。
続く石礫が、男の頭部へ集中する。
鈍い音が連続して響いた。
男はそのまま動かなくなる。
黒石さんは、倒れた男を一度も振り返らなかった。
すぐに携帯電話を取り出し、救急へ連絡をかける。
「銃で撃たれた。胸だ。意識は――」
そこで兄を見る。
「一樹」
呼びかけられても、兄は答えなかった。
海姉を腕の中に抱いたまま、胸元に広がっていく血を見つめている。
「……海?」
何が起きたのか、まだ理解できていないような声だった。
「海。おい……」
その手が、震えながら傷口へ伸びる。
血に触れた瞬間、兄の表情が変わった。
「布だ」
掠れた声が漏れる。
「何か、押さえるものを……早く!」
黒石さんが、近くに落ちていた清潔そうなタオルを投げる。
兄はそれを受け取ると、海姉の胸元へ当てた。
けれど、その両手は震えていた。
「大丈夫だ。きっと大丈夫だ」
誰に言い聞かせているのか、分からなかった。
「血を止めれば助かる。救急車もすぐに来る。だから――」
兄は海姉の顔をのぞき込む。
「海。目を開けろ」
「海……?」
梓さんが、力の抜けたような声を漏らした。
持っていた大鎌が、黒い粒子となって消えていく。
梓さんは兄の隣へ膝をつき、海姉の手を握った。
「海。なあ、聞こえとるやろ?」
返事はない。
「もう大丈夫やで。悪いやつらは、全部倒したから」
声が震えている。
「帰ろうや。勝も、美嘉も待っとる。今日の晩飯、何作るん?」
海姉の指は、梓さんの手を握り返さない。
「なあ……海」
梓さんの目から、涙がこぼれ落ちた。
「頼むから、返事してや……」
俺も海姉のそばへ駆け寄った。
「海姉!」
床へ膝をつく。
海姉の白い服が、赤く染まっている。
兄が押さえているタオルにも、血が広がり続けていた。
「海姉、起きてよ……」
声がうまく出なかった。
「俺、ちゃんと見つけたんだ」
目の前が涙で滲んでいく。
「召喚陣をつけて、みんなに連絡して……ちゃんと、ここまで来たんだよ」
助けられたと思った。
間に合ったと思った。
「だから……起きてよ」
涙が、海姉の服の上へ落ちた。
「海姉……!」
「泣くな、修二!」
兄が叫んだ。
怒鳴ったというより、悲鳴に近い声だった。
「まだ助かる。海は死なない」
傷を押さえる手に、さらに力がこもる。
「こんなところで死ぬわけがない。だから――」
兄の声が途切れた。
海姉の唇が、わずかに動いた。
「……かず、き……」
「海!」
兄が顔を近づける。
「ここにいる。喋らなくていい。すぐに助けが来る」
「一樹……怪我、は……?」
兄の顔が歪んだ。
「俺は大丈夫だ」
海姉を安心させようとしたのだろう。
けれど、その声は震えていた。
「どこも怪我してない。だから、もう喋るな」
「そっか……」
海姉の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
「よかった……」
撃たれたのは、海姉なのに。
こんなときまで、自分より先に兄の心配をする。
海姉は、こんなときまで海姉だった。
海姉の視線が、ゆっくりと動いた。
兄の隣で、その手を握っている梓さんを見る。
「し……ずき……」
「なんや?」
梓さんが、海姉の手を両手で包み込む。
「ここにおるで。ずっとここにおるから」
海姉が何かを伝えようとする。
けれど、もう声にならない。
唇だけが、かすかに動いていた。
梓さんは顔を近づけ、その言葉を聞き取ろうとする。
「あの、とき……」
途切れ途切れの息が漏れた。
「助けて……くれて……」
「海……?」
「あの場所から……ホームに……連れてきて、くれて……」
梓さんの目から、涙が次々とこぼれ落ちる。
「そんなん、今言わんでええ」
海姉の手を強く握り締める。
「帰ってから聞く。なんぼでも聞いたるから。せやから、今は喋らんでええんや」
海姉は、かすかに首を横へ振った。
残った力を振り絞るように、梓さんの手を弱く握り返す。
「あのとき……声、かけてくれて……」
一度、浅い息を吸う。
「……ありがとう」
それは、ほとんど声になっていなかった。
それでも、俺たち全員には、はっきりと聞こえた。
海姉の口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
ゆっくりと息を吐く。
それきり、次の息は聞こえなかった。
梓さんの手を握っていた指から、力が抜けていく。
「……海?」
梓さんが呼びかける。
返事はない。
「海。なあ……」
もう一度、呼ぶ。
「ありがとうやないやろ……」
海姉の手を握ったまま、梓さんが俯く。
「勝手に終わらせんなや……」
その背中が、小さく震え始めた。
「俺は……こんなことになるために、自分を連れてきたんやない……」
こらえ切れなくなった声が漏れる。
「頼むから……目ぇ開けてや……」
兄は何も言わなかった。
海姉の胸元を押さえたまま、動かなくなったその顔を見つめている。
やがて、震える指を海姉の首元へ当てた。
何度も位置を変える。
脈を探している。
「……ない」
掠れた声が漏れた。
「そんなはずはない」
もう一度、指を当てる。
「まだだ。まだ間に合う。海は――」
「かず兄……」
俺は、それ以上何も言えなかった。
涙で、海姉の姿が見えなくなる。
救急車のサイレンは、まだ聞こえなかった。




