第九章 覚書と、眠れない夜
宿に戻ったのは、すっかり夜になってからだった。
肉屋の店先で焼いてもらった串肉を、セサミンは三本食べた。一本目は勢いよく、二本目は満足そうに、三本目はもう限界だというのに意地で食べた。宿の部屋に入るなり、ベッドの上で丸くなって、五分もしないうちに寝息を立て始めた。
小さな腹が、規則正しく上下している。
トオルはランタンの火を落として、窓際の椅子に腰を下ろした。懐から取り出したのは、ヴェルナーから渡された薄い冊子だ。
表紙に書かれた文字は、今のアルヴィスでは使われていない字体だった。それでも読める。意味が、するりと入ってくる。
北の護りについての覚書 記録者 H・ヴァイス
ページをめくった。
書き方は雑だった。
学者の走り書きというより、自分のためだけに記した思考の断片、という感じだ。日付が飛んでいたり、途中で別の言語に切り替わったりする。それでも全部読めた。
最初の数ページは、霧についての観察記録だった。
霧の濃度が季節によって変わること。中心に近いほど時間の感覚がずれること。霧の中で方位を失った旅人が三人、同じ廃村に辿り着いたこと。そのうち一人は、地下への扉を見つけて降りたが、記憶をほとんど持ち帰らなかったこと。
地下に術式がある。非常に古い。様式からして少なくとも三百年前、もしかしたらもっと。中心に何かが封じられている——いや、「封じられている」は語弊がある。「眠らされている」と書くほうが正確だ。
トオルは指を止めた。
眠らされている。
術者集団は「目覚めさせる」と言った。この学者は「起こすな」と書いた。どちらも、同じ「何か」について言っている。
ページを進めた。
中盤は、術式の構造についての考察が続いた。
専門的な記述で、トオルには細部まで理解できるわけではないが、大意はつかめた。あの術式は「護り」のためではなく「安定」のためにある、と学者は書いていた。
護りの術式は外側の脅威を遮断する。だがあの術式は違う。内側から出ようとする力を、均等に分散させて、世界に溶け込ませている。封じているのではなく、ゆっくりと、少しずつ、外に逃がしているのだ。
少しずつ外に逃がしている。
つまり——中にあるものは、放置すれば溢れる。
術式はその溢れを防ぐための、調整機構だということか。
術式の外縁が損傷すると、分散が偏る。特定の場所に負荷がかかり、均衡が崩れる。霧はおそらくその兆候だ。
トオルは窓の外を見た。夜の街に霧はない。だが山の方角を見れば、暗い空に低く、白いものが漂っているような気がした。
術式の外縁を修復した。霧が薄くなった。因果関係としては、筋が通っている。
では、術式を完全に破壊したら何が起きるか。
学者の字が、そこだけ少し乱れていた。
私には想像したくない。だから「起こすな」とだけ書いておく。
そこでページが終わっていた。
後半のページは、半分以上が空白だった。
書きかけで去ったということは、続きを書く前に何かがあったのか、それとも書く言葉がなかったのか。
最後のページに、一行だけ文字があった。
別の言語だった——それでも読める。
あれはひとりでいてはいけないものだ。
トオルはその一行を、しばらく見つめた。
ひとりでいてはいけないもの。
術式が「溢れを防ぐ」ためにあるなら、溢れようとしているのは何だ。力か。意識か。それとも——何か、もっと別の、うまく言葉にならないものか。
ベッドの上でセサミンが少し動いた。寝返りを打って、また静かになった。
眠れなかった。
眠れないというより、考えが止まらなかった。
術式を修復したのは正しかったと思う。子供たちを助けたのも。術者を退かせたのも。でも——それらは全部、表面をなぞっただけかもしれない。
地下に何かがいる。
百年間、水晶の意識がそれを守っていた。学者が「起こすな」と書いた。術者集団が「目覚めさせれば世界が正される」と信じている。
全員が、同じ「何か」を違う方向から見ている。
「……ゲームじゃないな」
独り言は、誰にも聞こえないくらい小さかった。
ルーナリアオンラインには、こんな設定はなかった。霧も、廃村も、水晶の意識も、セサミンも——何ひとつ、知っている話の中にない。
同じ世界のはずなのに、まるで別の物語の中にいる。
いや。
トオルは椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
もしかしたら最初からここは、ゲームの世界ではなかったのかもしれない。似ているけれど違う、別の場所。たまたまゲームと地名が重なっていたり、魔法の仕組みが似ていたりするだけで——ここはここの歴史と、ここの理屈で動いている。
そう考えると、少し楽になった。
知らなくていい、という意味ではない。ただ、知らないことを焦らなくていい。
「ゆっくり、か」
水晶の意識が言っていた言葉を思い出した。急がなくていい。あなたは丁寧に生きる人間だ。
百年間、地下にいた存在に言われた言葉としては、妙に重かった。
夜が深くなったころ、セサミンがまた動いた。
今度は起きた。
むくりと頭を上げて、金色の瞳が暗がりの中で光った。トオルと目が合うと、数秒間、不思議な顔をした。
「……おきてるの」
「うん」
「ねむれないの」
「考えごとしてた」
セサミンはしばらくトオルを見てから、のそのそとベッドの端まで歩いてきた。そこから短い翼を広げて、ふわりと飛んで、トオルの膝の上に着地した。
「おもたい?」
「全然」
「そっか」
セサミンは膝の上で丸くなった。温かかった。小さいのに、ちゃんと重さがある。
「なにかんがえてた?」
「地下のこと」
「ふうん」
「セサミンは何か感じた? あそこで」
セサミンは少し黙った。膝の上で、尻尾がゆっくり揺れた。
「……おおきいものが、いた」
「おおきい」
「うまくいえない。おおきい、っていうか——いっぱいいた、みたいな。ひとりなのに、いっぱい」
トオルは、学者の最後の一行を思い出した。
あれはひとりでいてはいけないものだ。
「セサミン、それ——」
「わからないけど」とセサミンが続けた。「こわくなかった。ねてたから」
「眠ってたから怖くない?」
「おきてたらこわかったかも」
そこで少し間があった。
「とおるは、こわい?」
「……わからない。まだよくわかってないから」
「わかったらこわくなる?」
「なるかもしれない」
「そしたら」
セサミンが顔を上げた。暗がりでも、金色の目ははっきり見えた。
「そしたら、いっしょにこわがる」
それだけ言って、またうずくまった。
トオルは何も言わなかった。
言わなくていいと思った。
夜がもっと深くなって、セサミンはまた寝た。
トオルも、いつの間にか椅子の上でうとうとしていた。覚書は膝の上にある。ランタンはとうに消えていて、窓から入る月の光だけが、部屋をうっすらと照らしていた。
夢を見た。
夢の中に、声があった。
言葉ではなかった。音でもなかった。強いていえば——震え、とでも言うような何かが、遠くから伝わってくるような感覚だった。
起きたときには、もう覚えていなかった。
ただ、地下の方角から、何かが静かに自分たちを感じていたような——そんな気がした。
セサミンは膝の上で、相変わらず眠っていた。
夜は、まだ続いていた。




