第十章 朝と、古い名前
朝は、鳥の声で来た。
トオルが目を開けると、窓から白い光が差し込んでいた。椅子の上で眠っていたらしく、首が少し痛い。膝の上を見ると、セサミンはいなかった。
代わりに、窓の桟の上にいた。
外を見ている。尻尾が窓枠の外に垂れて、朝風にゆっくり揺れていた。
「おはよう」
「おはよ」
振り返らずに答えた。
「何見てるの」
「ひと」
トオルも窓に近づいた。朝の通りには、早起きの商人や、荷物を運ぶ職人がいた。普通の朝だ。
「ひと、いっぱいいる」
「そうだね」
「みんな、なんかかかえてる」
トオルは、セサミンの横顔を見た。金色の目が、通りを行き来する人々を静かに追っている。
「かかえてる?」
「うまくいえない。なんか、もってる。かわいいのとか、おもいのとか」
昨日の「本当の気持ちを見せる力」が、常時何かを感じさせているのかもしれない。トオルはそう思ったが、深くは聞かなかった。
「朝ごはん、食べる?」
「たべる」
即答だった。
宿の食堂で、パンとスープと目玉焼きを食べた。
セサミンはパンをちぎってもらって、スープを少し飲んで、目玉焼きの黄身だけ先に食べた。黄身が好きなのか、毎回そこから手をつける。
「とおる、きょうなにするの」
「午前中は覚書をもう少し読む。午後はヴェルナーさんと、術式の保護について話す予定」
「わたしは?」
「一緒にいれば?」
「ずっと?」
「嫌なの」
「やじゃない。うれしい」
そう言ってパンをかじった。
窓から朝の光が入ってきて、セサミンの青緑色の鱗をきらきら光らせた。一週間前に卵から孵ったとは思えないほど、立体的で細かい鱗の模様だった。
「セサミン」
「なに」
「聞いていいこと」
セサミンが顔を上げた。
「自分の力のこと、どう思ってる」
「ちから?」
「金縛りとか、本当の気持ちを見せるやつとか、水晶に語りかけるやつとか」
セサミンはしばらくパンをもぐもぐしながら考えていた。
「……でてくる」
「出てくる?」
「つかおうとおもって、じゃなくて。なんか、でてくる感じ。からだがきめてる、みたいな」
「怖くなったことはある?」
「一回」
「いつ」
「うまれたひ」
トオルは少し黙った。
「卵から出た日?」
「うん。なんかわからないのに、からだがうごいた。なんかに、こたえてた。でも、なんにかかえてた」
卵から孵った瞬間に、何かに応答していた。
「……何に答えてたと思う」
「わからない」とセサミンは言った。それから、少しだけ考えるような間を置いて、「でも、おおきかった」と付け加えた。
地下のもの、とトオルは思ったが、口には出さなかった。
午前中、覚書の残りのページを丁寧に読み直した。
空白に見えたページのいくつかに、非常に薄い文字が書かれていることに気づいたのは、二度目に読んだときだった。書いてから消そうとしたのか、最初から薄く書いたのか——どちらにせよ、意図して目立たなくしてある。
術式の中心にいるものには、名前がある。
名前を呼ぶと、応える可能性がある。
私は呼ばなかった。呼ぶ必要を感じなかったのと——呼んだらどうなるか、わからなかったから。
さらに薄く、最後にこう書かれていた。
名前は術式の最深部に刻まれている。読める者が読めばいい。
トオルは覚書を閉じた。
読める者。
全言語理解のスキルが頭に浮かんだ。術式の最深部に降りれば——あの修復した外縁よりさらに内側に——名前が刻まれているということか。
「とおる、かお、むずかしい」
セサミンが横から顔をのぞき込んでいた。
「何か書いてあった」
「なんて」
「地下に、名前が刻んであるって」
「なまえ?」
「眠ってるものの」
セサミンは少しの間、何も言わなかった。金色の瞳が、宙の一点を見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「……よびたい?」
「まだ、わからない」
「よんだら、おきる?」
「わからない。呼んだら応えるかもしれない、って書いてあっただけ」
「おきないかもしれない?」
「かもしれない」
セサミンは少し考えてから、「むずかしいね」と言った。
「むずかしいね」
二人で同じ言葉を繰り返した。
窓の外で、街の音がした。荷車の音、誰かの笑い声、遠くで鐘が鳴る音。普通の朝が、普通に続いていた。
午後の約束まで、まだ時間があった。
トオルは覚書をもう一度開いて、記録者の名前を確認した。
H・ヴァイス。
ヴェルナーに、この人物のことを聞いてみよう。どこから来た学者で、どこへ去ったのか。覚書を置いていったのが偶然なのか、誰かに読ませるつもりだったのか。
「セサミン、ギルドに行く前に、少し街を歩かない?」
「いく!」
返事は一瞬だった。
「どこいく?」
「特に決めてない。ぶらぶら」
「ぶらぶら、すき」
セサミンは肩に飛び乗った。いつもより少し勢いが強くて、トオルはよろけそうになった。
「……重くなった?」
「なってない!」
「なってる気がする」
「きのせい」
「そうかな」
そうかな、と思いながら、トオルは宿の扉を開けた。
昨日より霧の薄い、朝の街が広がっていた。
どこか遠く、山の方角から——ほんのわずかな、震えるような気配があった気がした。
気のせいかもしれない。
気のせいではないかもしれない。
どちらにせよ、今日はまず、朝の街を歩く。
それで十分だった。




