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第十一章 H・ヴァイスという人

街歩きは、思ったより長くなった。

セサミンが八百屋の前で立ち止まったのがはじまりで、そこから芋の山を眺め、隣の乾物屋で干し魚の匂いを嗅ぎ、広場の噴水に映る自分の顔を確認し、鍛冶屋の火花に目を輝かせ、パン屋の試食をひとかけもらった。

一時間かけて、四軒しか進まなかった。

「セサミン、そろそろ」

「あとすこし」

「さっきも言ってた」

「あとすこし、は、まいかいちがうあとすこし」

「理屈だけは通ってる」

それでもどうにかギルドに向かい始めたのは、広場の鐘が正午を告げてからだった。

肩の上のセサミンは、さっき試食でもらったパンのかけらをまだ大事そうに持っていた。なぜ食べないのか聞いたら「あとでたべる」と言った。どうやら、気に入ったものはすぐ食べず、持ち歩いて何度も眺めてから食べる習性があるらしい。

一週間でわかった、セサミンの不思議のひとつだった。


ヴェルナーは執務室にいた。

今日は書類の山が少し片付いていて、代わりにテーブルの上に地図が広げられていた。北の山道を含む、アルヴィス周辺の古い地図だ。霧の範囲が、手書きで書き込まれている。

「来たか」

「H・ヴァイスという人について聞きたいんですが」

椅子に座る前に言った。ヴェルナーは少しだけ目を細めて、「覚書を読んだのか」と言った。

「全部」

「薄い文字まで?」

「読めました」

ヴェルナーは何も言わなかった。窓の方を見て、少し間を置いた。

「……私が読めないのは知っていて渡した。お前が読めるとは、確信していなかったが」

「賭け、みたいなものですか」

「そんな大層なものではない。ただ——あの覚書は、読める者に渡るべきだと思っていた。長いこと持て余していたんだ」

セサミンが机の上に降りて、地図の上を歩き始めた。ヴェルナーは止めなかった。

「ヴァイスについては」と彼は続けた。「私が知っていることは多くない。十二年前、冬の初めに来た。王都の学術院に籍を置く、古代術式の研究者だということだった」

「ということだった、というのは」

「肩書きは本物だ。だが——来た理由が、研究だけではなかったように見えた」

「個人的な理由?」

「わからない」とヴェルナーは言った。「三ヶ月、うちのギルドに出入りして、資料を読んで、北の山道まで何度か行った。それで、ある朝突然、荷物をまとめて出ていった。礼も言わずに」

「覚書は」

「資料室の棚に、挟まっていた。置いていったのか、忘れていったのか、それも聞けなかった」

セサミンが地図の上で立ち止まった。廃村のあたりに、小さな前脚を置いている。

「ここ」と言った。

「そう」とヴェルナーが答えた。

二人と一匹で、地図の一点を見た。

「ヴァイスさんは今、どこに」

「王都にいるかどうかも、わからない」ヴェルナーは腕を組んだ。「ただ——覚書を読んだなら、お前は気づいているんじゃないか。あれはただの研究記録じゃない」

「誰かに読ませるつもりで書いた、という気がします」

「私もそう思う」

「でも、ヴェルナーさんには渡さなかった」

「読めないからだろう」ヴェルナーは短く言った。「あの薄い文字は、特殊な書き方がされていた。普通の目には見えないようになっていた。私には文字があることすらわからなかった」

「読める者に、と」

「そういうことだ」

トオルは膝の上で手を組んだ。

H・ヴァイスという人間が、十二年前にこの街に来た。古代術式を調べて、覚書を残して、去った。覚書には「名前が最深部に刻まれている、読める者が読めばいい」と書いてあった。

読める者が来るのを、待っていたのかもしれない。

「術者集団と、関係はありますか」

「ヴァイスと?」ヴェルナーの眉がわずかに動いた。「……否定はできない。だが確認もできていない」

「同じことを調べていた、ということは考えられる」

「考えられる。ただ、ヴァイスは子供を使おうとはしなかった。それだけは言える」

それだけは、という言い方が、何か重いものを含んでいた。トオルはそれ以上は聞かなかった。


地図を見ながら、術式の保護について話し合った。

ヴェルナーはギルドから定期的に人を送ることを決めていた。ただし地下には降りさせない。廃村の外縁と、地下への入り口付近の監視だけにする。

「術者集団がまた来たとき、対応できる人数にするべきか、それとも少数で気づかれないようにするべきか」

「気づかれないほうがいい」とトオルは言った。「対抗しようとして、向こうを刺激したくない」

「私もそう思う」

「今、術者たちはどこにいるんでしょう」

「霧の中に潜んでいるか、いったん街に紛れているか」ヴェルナーは地図から目を上げた。「術者集団がどういう組織なのか、まだわかっていない。一枚岩なのか、派閥があるのか。昨日の二人が戻って何を報告するかによって、動きが変わる」

「セサミンが見せたものが、効くかどうか」

「ああ」

セサミンは相変わらず地図の上にいたが、今は自分の尻尾を眺めていた。話を聞いているのかいないのか、よくわからない顔をしている。

でも多分、聞いている。

「あの二人に何を見せたんだ」とヴェルナーが聞いた。セサミンに、直接。

セサミンは尻尾から目を離して、ヴェルナーを見た。

「しらない」

「知らない?」

「みせてる、じゃなくて——でてくる。そのひとが、もってるやつが」

「持っているもの」

「うん。なんか、なかにあるやつ」ちょっと考えて、「ないてたひとが、いた」と付け加えた。

ヴェルナーは少し黙った。

「術者の中に、泣いていた人間が」

「こころの、なかで」

静かな答えだった。

ヴェルナーはそれ以上聞かなかった。トオルも聞かなかった。

窓の外で、風が通った。


ギルドを出たのは夕方前だった。

帰り道、セサミンは肩の上でさっきのパンのかけらを食べた。もぐもぐと、大事そうに。

「おいしかった?」

「うん。でも、あさよりあじがした」

「時間が経ったから?」

「わかんない。でも、おいしかった」

それは良かった、とトオルは思った。

明日か明後日には、また地下に降りる必要がある。

名前を確認するために。それが何を意味するのか、まだわからないまま。

でも今夜は、セサミンと夕飯を食べる。


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