第十二章 名前を探しに
地下に降りたのは、三日後だった。
ヴェルナーの手配で、廃村の外縁に二人の人間が配置された。地下には来ない。来ないけれど、地上で何かあれば連絡石で知らせてくれる。それだけで、だいぶ違う。
霧はさらに薄くなっていた。
廃村の輪郭がはっきり見えて、壊れた屋根の形や、石畳の割れ目まで見えた。それでも霧は完全には消えていない。地下の術式がまだ完全には安定していないのか、それとも霧はもっと別の理由で存在しているのか。
「かわったね、きり」
「薄くなってる」
「でも、まだある」
「まだある」
セサミンは肩の上で、霧を見ていた。どこか、懐かしそうな顔をしているように見えた。
「セサミン」
「なに」
「怖かったら言って。引き返していい」
「こわくない」
「でも」
「こわくない」とセサミンは繰り返した。「しってるきがする」
「地下を?」
「ちがう。あのこを」
あのこ、とセサミンは言った。
眠っているもののことだ、とトオルは思った。
それ以上は聞かずに、扉を開けた。
階段を降りた。
ランタンの光が、石の壁を照らす。三日前と同じ道だ。空気の重さも、冷たさも、変わっていない。
でも一つだけ、違うことがあった。
音がした。
音、というより——振動だ。地の底から伝わってくるような、低い、規則的な揺れ。心臓の音に似ていると思った。
「……きこえる?」
「きこえる」とセサミンが言った。「まえもあった。でも、おおきくなってる」
「大きく」
「きいてる、みたい」
何かが、こちらを感じている。
トオルは立ち止まらずに歩いた。術式の部屋に入ると、外縁のアーチ状の光がゆっくり明滅していた。修復した七箇所は、他の部分と見分けがつかないほど馴染んでいる。
中心の、光の柱。
三日前と変わらず、そこにある。白く、静かに、ただ在る。
「水晶は」
「みぎ」
セサミンの声で振り返ると、壁際の水晶が光っていた。前回より強い光だった。トオルが近づくと、振動が少し変わった。
「来てくれた」
今日は言葉が速かった。待っていた、という感じがした。
「また来ました。約束したので」
「……君の連れも、来てくれた」
セサミンが水晶に向かって、軽く頭を下げるような仕草をした。
「うん、きた」
「ありがとう」
それだけで、水晶の光が少し揺れた。感情のようなものが、光の揺れ方に出る。そういう存在なのだと、三日でわかっていた。
「今日は、中心に降りたいんです」
「……わかっていた」
「知っていましたか」
「君が覚書を読んだのを、感じた。あの人が書いたものを」
トオルは少し驚いた。
「H・ヴァイスを知っているんですか」
「知っている。来た人間の中で、一番深くまで降りた人だ。名前を見た。でも——読めなかった」
「読めなかった」
「読める者でなかった、ということだ。あの人は賢い人間だったが、そういう意味では、縁がなかった」
水晶が静かに続けた。
「君は、読めるか?」
「わかりません。でも、試したい」
「……降りてほしい。ずっと、待っていた」
待っていた。
百年間、一人で術式を守り続けた存在が、そう言った。
トオルは中心の光の柱を見た。
「危険はありますか」
「わからない」と水晶は言った。「私も、一度も降りたことがない。ここより下には、行けない」
正直な答えだった。
「でも」と水晶は続けた。「君の連れが一緒なら、大丈夫だと思う。理由は、うまく言えないが」
セサミンが、また頭を下げるような仕草をした。
「いっしょにいく」
光の柱に近づくと、足元に段差があることがわかった。
三日前は気づかなかった。いや——気づかないように、なっていたのかもしれない。今日は見える。螺旋状に下に続く、石の段。光の柱がそれを中心に、ゆるやかに巻いている。
「ほんとうに段があった」
「あったね」
「みえなかったの、まえ」
「見えなかった」
「じゅつしきが、みせてくれてるのかな」
かもしれない、とトオルは思った。
一段ずつ降りた。
光が、足元を照らしている。壁に、文字が刻まれていた。降りるにつれて、文字が増えていく。古い言語、さらに古い言語、トオルが知っているどの系統にも属さないような文字——それでも全部読めた。
術式の記録だった。
いつ作られたか。誰が作ったか。何のために。
三百年前どころではなかった。記録の中に出てくる年号は、この世界の暦が始まる前を指していた。
「とおる、よめる?」
「読める」
「なんてかいてある?」
「……この術式は、あるものを眠らせておくために作られた、と書いてある。眠らせているのは、罰のためじゃない。時間が来るまで、安全に保つために、と」
「じかん?」
「何の時間かは、まだわからない」
降りながら、読みながら、進んだ。
壁の文字が、ある段から変わった。記録ではなくなった。
語りかけ、になった。
眠るものよ。
お前が目を覚ます時を、我々は知らない。
ただ、お前が目を覚ますとき、側に誰かいることを望む。
一人でいてはいけない。それが、我々の願いだ。
トオルは立ち止まった。
学者の覚書の最後の一行と、同じことが書いてある。
あれはひとりでいてはいけないものだ。
ヴァイスはここまで降りて、これを読んだのだ。
セサミンが、静かに言った。
「ひとりに、しないで、ってこと?」
「そう思う」
「だれが、おこすの」
「わからない。でも——側にいる、ということなら」
そこで言葉が止まった。
足元の段が、終わった。
最下層だった。
部屋、というより、空間だった。
天井がどこにあるかわからないほど高く、壁が遠い。中心に、台座のようなものがある。石でできていて、表面に細かい文字がびっしり刻まれていた。
台座の上には、何もなかった。
目に見えるものは。
でも——確実に、何かがいた。
空気が違った。重さが違った。温度が違った。そして何より、振動が違った。ずっと感じていた、心臓の音に似た振動が、ここでは体の内側まで響いてきた。
「……いる」
セサミンが言った。声が、少し違った。いつもより低く、落ち着いていた。
「うん」
「おきてないけど、いる」
「感じる」
「とおる、なまえ、よめる?」
台座に近づいた。
文字が刻まれていた。層をなすように、何重にも。一番外側は術式の記録、内側に行くほど古くなる。そして、中心に——一番深く、一番古い文字で、刻まれたもの。
読んだ。
意味が、するりと入ってきた。
名前、というより——それは呼び名だった。「こういうものだ」という、定義に近い何かを、音にしたような。
トオルはその音を、声に出すかどうか、少し考えた。
出した。
静かに、でも確かに、その名を。
空間が、揺れた。
揺れた、というより——応えた。
振動が変わった。心臓の音に似た一定のリズムが、少しだけ乱れて、また戻った。起きた、のではなかった。でも、聞こえた——そういう変化だった。
セサミンが、トオルの肩から台座の上に降りた。
小さな前脚を台座の石の上に置いて、喉の奥から、あの振動する声を出した。言葉ではなかった。三日前に水晶に語りかけた時とも、少し違った。
もっと柔らかい。
あやすような、あるいは、また眠るよう促すような——
振動が、ゆっくり落ち着いた。
元のリズムに戻った。
セサミンが振り返った。いつも通りの、金色の目をしていた。
「ねてる」
「うん」
「でも、きこえてた」
「聞こえてたと思う」
「おこさない」
「今は、おこさない」
セサミンはしばらく台座の上に座っていた。そこから見上げる金色の目が、何かを確かめるように、空間を見回していた。
「……さみしくなくなった」
「台座が?」
「ここが」
空間全体が、とセサミンは言いたいのだろう。
「そっか」
「うん」
それから、またトオルの肩に戻ってきた。
帰ろうか、と言うより先に、「かえろ」とセサミンが言った。
「うん」
「でも、またくる」
「また来る」
「やくそく」
「約束」
水晶に、今日あったことを話した。
名前を呼んだこと。応えたこと。セサミンが声で、また眠りに戻したこと。
水晶は長い間、何も言わなかった。
ただ、光が揺れていた。
「……よかった」
最後に、そう言った。
「百年間、あなたは一人でここにいたんですか」
「そうだ」
「何かを待ちながら」
「待っていた、というより——ただ、ここにいた。他にいられる場所がなかった」
「今も、ここにいるつもりですか」
「……お前たちが来てくれるなら、もう少しいられる気がする」
トオルは何も約束しなかった。でも、「また来ます」とは言った。
水晶の光が、少し明るくなった気がした。
地上に出ると、夕方になっていた。
思ったより時間がかかっていた。霧の中で、空が赤くなっている。廃村の石畳に、長い影が伸びていた。
「つかれた?」
セサミンが聞いた。
「少し」
「おなかすいた?」
「少し」
「わたしはおおきくすいた」
「知ってた」
帰り道、セサミンはずっとトオルの肩で静かにしていた。いつもは周りのものに目を向けているのに、今日は前だけを見ていた。
何かを、考えているのかもしれなかった。
「ねえ、とおる」
「なに」
「なまえ、よんであげた。なんかかわった?」
「わからない。でも——何かが、変わり始めたと思う」
「かわりはじめた」
「ゆっくり、たぶん」
「ゆっくりでいい?」
「ゆっくりのほうがいい、と思ってる」
セサミンはそれを聞いて、少し尻尾を揺らした。
「そっか」
それだけで、また前を向いた。
夕暮れの霧の中を、二人は歩いた。




