第十三章 霧が晴れる朝
その夜、夢を見なかった。
眠って、起きたら朝だった。それだけだった。
でも——窓を開けたとき、トオルは思わず動きを止めた。
霧が、なかった。
完全に、どこにも。
昨日まで山の方角に薄く漂っていた白いものが、今朝はきれいさっぱり消えていた。空が青かった。山の稜線がくっきりと見えた。三週間以上、霧の向こうに隠れていた北の山道が、ただそこにある。
「……晴れた」
背後で、セサミンが声を上げた。
いつの間に起きていたのか、窓のすぐ横に来て、外を見ていた。青緑色の鱗が、朝日に照らされて光っている。
「きれい」
「きれいだね」
「きりが、いった」
「どこに行ったんだろう」
「しらない。でもいなくなった」
二人で、しばらく窓の外を見た。
街がざわめき始めていた。霧が消えたことに気づいた人々が、通りに出てきて空を見上げている。声が聞こえた。子供の笑い声、誰かが誰かを呼ぶ声、驚いたような声。
連絡石が振動したのは、それから少ししてからだった。
『トオル、霧が消えた。すぐ来られるか』
ヴェルナーだった。トオルは着替えながら返事をして、セサミンに「ギルドに行く」と告げた。
「いっしょにいく」
「もちろん」
朝ごはんは?とセサミンが聞いた。
後で食べよう、と言ったら、少しだけ不満そうな顔をしたが、「しかたない」と言って肩に乗った。
ギルドの中は、いつもより人が多かった。
霧が消えたことで、封鎖されていた北の山道が開通する。交易の再開、物資の確認、山道の安全確認——やることが一気に増えた。エルダが受付で四人のギルド員に同時に指示を出していた。
ヴェルナーの執務室に入ると、珍しく彼が立っていた。窓から北の方角を見ていた。
「昨日、地下に降りたな」
「はい」
「名前を読んだか」
「読みました」
ヴェルナーはゆっくり振り返った。
「何が起きた」
「応えました。眠ったまま、でも——聞こえた、と思います。セサミンが、また眠りを深くしてくれた。それで、霧が消えたのかどうかは、わかりません」
「関係があると思うか」
「思います。ただ——術式が安定したから霧が消えたのか、名前を呼んだから何かが変わったのか、どちらかはわからない。両方かもしれない」
ヴェルナーは頷いた。長い間ではなく、確認するような頷き方だった。
「術者集団の動きは?」
「今朝から連絡がない。廃村の外縁を見張っていた二人によると、昨夜、霧が消える少し前に、人の気配がしたが近づかずに去ったと言っていた」
「霧が消えるのを見て、引いたのかもしれない」
「そうかもしれない。あるいは——」
ヴェルナーが言いかけて、止まった。
「あるいは」
「また来る理由を、考え直しているのかもしれない」
霧がなくなった。術式は安定した。眠っているものは、まだ眠っている。術者集団が目指していた「目覚め」は、起きなかった。
それが、彼らにとって何を意味するのか。
「まだ終わってないですね」
「終わっていない」とヴェルナーははっきり言った。「ただ、今日のところは——少し息をつける」
そう言って、ようやく椅子に座った。
セサミンが机の上に降りて、ヴェルナーの顔をじっと見た。
「ヴェルナー、つかれてる?」
「三週間、ずっと気を張っていたからな」
「ねた?」
「少し」
「すこしじゃたりない」
「お前に言われるとは思わなかった」
セサミンは真剣な顔をしていた。ヴェルナーは、珍しく、口の端だけで笑った。
「気にかけてくれてありがとう」
「どういたしまして」
ギルドを出たのは昼前だった。
北の山道に、人が向かい始めていた。商人、調査のギルド員、ただ見に行きたい人々。三週間ぶりの開通を、誰もが確かめたがっていた。
トオルもその方角を、遠くから見た。
行くべきことは、まだある。
水晶の意識にまた会いに行くこと。術者集団の全体像を理解すること。地下に眠るものが、何のために、何を待っているのかを、もう少し読み解くこと。H・ヴァイスという人間が、なぜあの覚書を残したのか。
でも今日は、それをしない。
「セサミン」
「なに」
「朝ごはん、まだだったね」
「そう!」
「何食べたい」
「たまごとにく」
「欲張りだな」
「だって、おなかすいてる」
「どのくらい」
「すごく」
「そっか」
二人で、朝の市場へ向かった。
露店が並ぶ通りは、今日はいつもより活気があった。霧が晴れた朝の、解放感のような空気が街全体にあった。
セサミンは肩の上で首を伸ばして、あちこち見ていた。
「とおる」
「なに」
「きょう、なんかいいかんじ」
「そうだね」
「きりがきえたから?」
「それもあるけど」
「ほかは?」
トオルは少し考えた。
うまく言葉にならなかった。でも——地下の空間に、名前が届いた。百年間一人でいた存在が「よかった」と言った。三週間閉ざされていた道が開いた。セサミンが今朝、朝日の中できれいだと言った。
「いろいろ、ちゃんと動いてる気がする」
「ちゃんとうごいてる」
「うん」
「いいね」
「いいね」
セサミンが、尻尾を一回、大きく振った。
露店のおじさんが、肩の上のドラゴンを見て目を丸くした。セサミンが「おはよ」と言ったら、おじさんは固まった。トオルは目を逸らした。
そういうことが、これからもあるのだろう。
術者集団も、地下の眠りも、ヴァイスの覚書も、水晶の百年も——全部、まだ途中だ。
でもそれでいい。
途中のまま、今日の朝ごはんを食べに行く。
セサミンが「はやく」と言った。
「はやくしないと、たまごなくなる」
「なくならないと思う」
「なくなるかもしれない」
「なくならないよ」
「でも、はやくいこう」
「……行こう」
朝の街を、二人は歩いた。
霧のない、青い空の下を。




