第八章 報告と、もう一杯のお茶
地上に戻ると、霧が少し薄くなっていた。
完全に晴れたわけではない。それでも朝よりは輪郭がはっきりしていて、廃村の外れに立つ枯れ木が、ぼんやりと形を取り戻していた。
「霧、うすくなった」
セサミンが空を見上げながら言った。トオルの肩の上で、小さな首をくるりと回している。
「術式を修復したから、少し影響が出たのかもしれない」
「おそとがみえる」
「見えるね」
それだけ言って、トオルは連絡石を取り出した。ヴェルナーから渡された、親指ほどの大きさの青みがかった石だ。握ると、じんわりと温かくなる。
『クラウスさん、トオルです。ご報告があります』
少し間があってから、石が振動した。
『聞こえている。無事か』
『はい。子供たちも。ただ、話すと長くなるので、戻ってからでもいいですか』
『すぐ来い。お茶を淹れて待っている』
短い。でも、それがヴェルナーらしかった。
アルヴィスに戻る道は、行きよりも静かだった。
子供たちはすでに先に送り届けてある。術者に捕まっていた三人——ルカ、マリィ、イルヴ——は疲れてはいたが、体に異常はなかった。魔力を少し取られかけていたのを、トオルが気づいて遮断した。子供たちは何が起きていたかよくわかっていなかったし、それはそれでよかったと思う。
「ねえ、とおる」
「なに」
「あのひとたち、またくる?」
「来ると思う」
「そっか」
セサミンは特に怖がりもせず、ただ確認するように聞いた。トオルが「来ると思う」と答えると、ふむ、と小さく鼻を鳴らして、それ以上は聞かなかった。
「……怖くないの」
「こわい?」
「また来るって言ったのに」
セサミンはしばらく考えてから、「とおるがいるから」と言った。
それだけだった。
トオルは何も返さなかった。返す言葉が見つからなかったというより、何か言うと、この軽さが崩れてしまう気がした。
ギルドの建物に入ると、副マスターのエルダが入り口に立っていた。三十代の女性で、いつも少し眉間に皺が寄っている。
「戻りました」
「……セサミンも無事で何より」
エルダはトオルではなく、肩のセサミンに目を向けながら言った。セサミンが「えるだ!」と声を上げると、彼女の眉間の皺が少しだけゆるんだ。
「マスターが二階で待ってる。お茶、もう三回目よ」
「三回も?」
「待てない人なのよ、本当は」
エルダが小声で付け加えた。トオルは軽く会釈して、階段を上がった。
ヴェルナーの執務室は、本と地図と古い書類が積み上げられた、雑然とした部屋だ。それでも、窓際の小さなテーブルだけはいつも片付いていて、今日も白いカップが二つ用意されていた。
トオルが椅子に座ると、ヴェルナーは黙ってお茶を注いだ。セサミンは机の上に降りて、カップの縁に前脚をかけてのぞき込んでいる。
「……熱いよ」
「わかってる」
わかっていないと思ったが、黙っておいた。
「話してくれ」
ヴェルナーが言った。命令ではなく、ただ聞く気でいる人間の声だった。
トオルは順を追って話した。霧の中の廃村。地下への扉。術式の七箇所の損傷と修復。水晶に宿っていた意識のこと。術者たちが子供を使おうとしていたこと。セサミンが「本当の気持ちを見せる力」を使ったこと。術者が退いたこと。
ヴェルナーは途中で何も言わなかった。お茶を一口飲んで、またトオルを見て、静かに聞いていた。
「術式の中心に、何か眠っている」
トオルがそこまで言うと、ヴェルナーが初めて口を開いた。
「見たか」
「見ていない。触れなかった」
「触れなかった、というのは」
「触れるべきではないと思った」
ヴェルナーはしばらく考えるような間を置いた。窓の外で、鳥が一声鳴いた。
「……正しい判断だと思う」
「根拠はありますか」
「ない」
正直な人だ、とトオルは思った。
「ただ」とヴェルナーは続けた。「あの山道が霧で閉ざされる前、この街に古い伝承を調べに来た学者がいた。三ヶ月ほど滞在して、何も言わずに去った。その学者が残していった書きかけの覚書が、うちの資料室にある」
「その覚書に」
「『起こすな』と書いてあった。それだけだ」
セサミンが、カップから顔を上げた。
「おこすな、って、ねてるひとのこと?」
「そうかもしれない」
「ふうん」
セサミンはまた興味をなくしたように、カップの中を見つめた。お茶の湯気が、青緑色の小さな鼻先をかすめている。
「水晶の意識について」
トオルは話を戻した。
「百年間、一人で術式を守っていたようです。名前は聞けなかった。でも——話すことができました。セサミンの力で」
ヴェルナーの目が、わずかに細くなった。
「セサミンが」
「セサミンの振動する声が、古い術式に届くみたいで。水晶の意識が応答しました」
「……そういうことか」
ヴェルナーは何かに納得したような顔をして、それ以上は聞かなかった。
「竜の声」という伝承のことを思い出しているのだろう、とトオルは思った。自分もそれを知っている、とは言わなかった。ヴェルナーが言いたければ言うだろうし、言わないなら言わない理由があるのだろう。
「術者集団については」
「まだ全員ではないと思います。今日退いた二人は——セサミンの力で、何かを見た。本当の気持ち、とでも言うのか。それで、今日は動けなくなったんだと思います」
「だが仲間がいる」
「はい」
「目的は」
「眠っているものを目覚めさせて、世界の歪みを正すと言っていました」
ヴェルナーは静かに息を吐いた。
「厄介な信念を持っている」
「正しいと信じている人間は止めにくい」
「そうだ」
二人は少しの間、黙ってお茶を飲んだ。セサミンは器用にカップの縁に座って、小さな舌先で湯気を確かめていた。まだ熱いと判断したらしく、しょんぼりした顔をしている。
「地下術式の保護について、ギルドで動けますか」
「定期的に人を送ることはできる。ただ——あの地下に入れる人間を選ばないといけない」
「そうですね」
「お前には、また行ってもらうことになる」
断定だった。トオルは断らなかった。
「水晶の意識にも、また会いに行くつもりです」
「そうしてくれ」
ヴェルナーはそこで立ち上がって、棚から薄い冊子を取り出した。表紙に、手書きの文字がある。筆跡は、ヴェルナーのものではなかった。
「あの学者の覚書だ。持っていっていい」
「……いいんですか」
「どうせ私には読めない部分がある。お前なら読めるかもしれない」
全言語理解、ということだろうか。トオルはそれを受け取って、懐にしまった。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
ヴェルナーはそう言ってから、ふと視線をセサミンに向けた。セサミンはまだカップの縁で待機している。
「セサミン」
「なに?」
「今日はよくやった」
セサミンは一瞬きょとんとした顔をして、それから、尻尾をゆっくり揺らした。
「……うん」
照れているのか、ただ受け取っているのか、よくわからない反応だった。でも金色の瞳は、少し嬉しそうに見えた。
ギルドを出たのは、夕方近くだった。
空はまだ明るいが、光が横になり始めている。石畳の通りに長い影が伸びて、遠くで子供の声がした。
「とおる」
「なに」
「おなかすいた」
「知ってた」
「しってたの?」
「二時間くらい前から思ってたんじゃないの」
セサミンはしばらく沈黙してから、「……うん」と認めた。
「肉、食べる?」
「たべる!」
声が大きくなった。通りがかりの老人がびっくりして振り返ったが、トオルは気にしないことにした。
夕暮れの街を、二人は歩いた。肩の上の小さなドラゴンは、夕飯のことだけを考えているようだった。それでいい、とトオルは思った。
地下に眠る何かのことも、術者集団の黒幕のことも、水晶の意識が百年間抱えていた孤独のことも——今夜は、少しだけ脇に置いていい。
腹が減った、と言える生き物と一緒に歩いているうちは、きっと。




