第七章 地下の術式と、透の魔法
地下への入り口は、集会所の床にあった。
テーブルを動かすと、石畳の一枚が他と違う色をしている。触れると、わずかに魔力の反応があった。透が魔力を流すと、石畳が音もなく沈み込み、暗い階段が現れた。
冷たい空気が上がってくる。湿っていて、古い石の匂いがした。
「行けそうか」と透はセサミンに聞いた。
「うん」とセサミンは答えた。肩の上で、いつもより体を小さくしている。緊張の現れだと透にはわかった。
水晶はテーブルの上に残した。連れていこうとしたが、セサミンが「ここにいる、って言ってる」と伝えた。地上で見張りをするということらしい。
透は指先に光球を作り、階段を降り始めた。
段数は二十ほど。降り切ると、横穴が続いていた。天井が低く、大人が背をかがめて歩く高さだ。壁は自然の岩盤で、人の手で掘られたわけではないらしい。もともとあった洞窟を利用した構造だ。
魔力視で見ると、奥に向かって魔力の流れが強くなっていく。
「においが、つよい」とセサミンが言った。「こわいにおい、じゃない。ふるいにおい」
「古い魔法だからな」
「ちがう」セサミンは少し考えた。「まほうじゃなくて、もっとまえのにおい。まほうができるまえの、せかいのにおい」
魔法ができる前の世界の匂い。透には意味がよくわからなかったが、セサミンが感じていることは本物だろうと思った。
横穴を進むこと十分ほど。急に視界が開けた。
広い空洞だった。
天井が高く、壁は滑らかな岩盤だ。空洞の中央に、巨大な術式が刻まれていた。
床全体に広がる術式だ。直径二十メートルはあるだろう。線が複雑に絡み合い、中心に向かって収束している。線の一本一本が深く岩に刻まれ、そこに何かの液体——いや、固まった魔力のようなもの——が詰まっていて、鈍く光っている。
透は入り口で立ち止まり、全体を観察した。
圧倒される規模だった。しかし同時に、魔力視で見ると構造が見えてくる。術式はいくつかの層に分かれていて、外側の層から内側の層へと順番に魔力が流れるようになっている。一番外側の層はほとんど休眠状態だが、中心の層は今も緩やかに動いていた。
「これは……封印術式だ」と透は呟いた。
「ふういん?」
「何かを閉じ込めておくための術式。でも——」透は目を細めた。「向きが逆だ」
「むきが、ちがう?」
「普通の封印は、内側のものが外に出ないようにする。でもこれは——外からのものが内側に入れないようにする構造になっている」
セサミンが首を傾げた。「どういうこと?」
「中に何かを閉じ込めているんじゃなくて、外からの力が中に届かないように守っている」透は術式の外縁に近づいた。「これは封印じゃなくて、護りだ」
術式の中心を見る。魔力視を最大まで開いて、中心の奥を覗き込んだ。
そこに、何かあった。
小さい。術式全体の巨大さに比べれば、ほんのわずかな光の点だ。でも確かにある。何か、非常に密度の高いものが、中心に眠っている。
「これを守るために、地上の存在は百年間ここにいたのか」と透は言った。
「ちかのわるいじゅつしきを、けしてほしい、っていってた」とセサミンが思い出したように言った。「でも、これ、わるくない、きがする」
「私もそう思う」透は術式の縁に沿って歩き始めた。全体像を把握するために。「問題は、外縁の一部が壊されかけていることだ」
「こわされてる?」
「見てみろ」透は北側の外縁を指した。術式の線の一部が、削られたように欠けている。それほど大きくはない。でも確実に、誰かが意図的に傷をつけていた。「たぶん、昨夜逃げた術者たちの仕事だ。地下にもルートがあって、少しずつ削っていた」
術式の外縁が完全に破壊されれば、中心への道が開く。そして中心にあるものが——外の力に曝される。
子供の魔力を集めていたのは、この術式を破壊するためのエネルギーを集めるためだったのか。
「修復できるか」とセサミンが聞いた。
透は傷ついた部分を調べた。削られた線の幅は三十センチほど、深さは五センチ程度。術式の構造は複雑だが、外縁部分は比較的シンプルな繰り返しパターンでできていた。
「やってみる」
透は膝をついて、傷の前に座った。魔力視で線の本来のパターンを読み取り、どう補修すればいいかを考えた。石に刻まれた術式を修復するには、石の中に魔力を直接流し込んで、元の形を作り直す必要がある。
繊細な作業だ。力ではなく、精度が必要だった。
透は人差し指を傷に当て、ごく細い魔力の流れを作った。石の中へ、少しずつ。削られた部分の形を魔力で満たしていくイメージ。焦らず、丁寧に。
時間がかかった。
十分ほどかけて、最初の傷を埋めた。術式の線が繋がり、そこだけぼんやりと光った。
「できた」とセサミンが言った。
「一箇所だけ」透は次の傷に移った。「他にもある」
空洞を丁寧に調べると、傷は合計で七箇所あった。どれも外縁部分で、中心に近い層は無傷だった。術者たちはまだ外縁を破壊している段階だったのだろう。
一箇所ずつ、透は修復していった。
作業の途中、セサミンが静かにしていることに気づいた。いつもは何かと話しかけてくるのに、今は黙って透の背中を見ている。
「セサミン」
「うん」
「何か感じるか」
「……なかから、きこえる」
「聞こえる?」
「おとじゃない。でも、きこえる。ずっとまってた、ってかんじ」とセサミンは言った。「なんびゃくねんも、ここで、まってた」
透は手を止めずに聞いた。「何を待っていたんだろうな」
「わからない。でも、まだ、じかんじゃない、って思ってる、きがする」
「まだ時間じゃない」
「うん。もうちょっと、まつ、って」
透はそれを聞きながら、六箇所目の修復を終えた。最後の一箇所に取り掛かる。ここが一番傷が深かった。幅は同じだが、深さが倍ほどある。
慎重に魔力を流し込む。石の性質を読みながら、元の術式のパターンに合わせて。
途中、魔力の流れが乱れた。
この傷だけ、内部構造が複雑に絡み合っていた。ただ削られただけでなく、意図的に歪められている。修復しようとすると、歪みが邪魔をした。
「難しいな」透は集中しながら呟いた。
「てつだえる?」とセサミンが言った。
「わからない。でも試してみてくれ」
セサミンが透の隣に来て、傷の前に座った。あの振動音を低く発し始める。最初は小さく、次第に大きくなる。透には意味がわからないが、術式に何かを伝えているように見えた。
すると——歪みが、少し解けた。
複雑に絡み合っていた部分が、ほぐれるように整列し始めた。セサミンが振動で「元に戻れ」と伝えているのかもしれない。あるいは、術式自体に働きかけて、本来の形を思い出させているのかもしれない。
透はその隙に魔力を流し込んだ。
今度はうまくいった。傷が埋まっていく。線が繋がり、光る。
最後の傷が塞がった瞬間、術式全体が一度大きく光った。
透とセサミンは思わず目を細めた。光はすぐに落ち着き、術式は静かな輝きに戻った。しかし何かが変わっていた。術式の流れが、修復前より滑らかになっている。百年間少しずつ劣化していたものが、本来の状態に近づいたのだろう。
「できた」と透は言った。
立ち上がると、膝が痛かった。ずっと同じ姿勢でいたらしい。どのくらい時間がかかったか確認すると、一時間以上が経っていた。
「トオル、つかれた?」とセサミンが心配そうに言った。
「少し」
「やすむ?」
「もう少ししたら」透は術式全体を改めて見渡した。「これで、しばらくは持つはずだ。でも根本的な解決にはなっていない。術者たちがまた来れば、また削られる」
「どうする?」
「それは——」透は考えた。「ヴェルナーに相談しないといけない。この術式のことを、正式にギルドで管理してもらう必要がある。守る人間が必要だ」
「ちかのこは?」とセサミンが上を指した。地上の水晶のことだ。
「あの存在が一番詳しい。協力してもらえるなら、一番いい」
セサミンは頷いた。それから、急に表情が変わった。
「トオル」
「うん?」
「だれか、くる」
透は動きを止めた。魔力視で空洞の入り口方向を探ると——確かに、複数の魔力が近づいてくる。三つ、いや、四つ。
昨夜逃げた術者たちが戻ってきたのか。あるいは別の仲間か。
「隠れる場所は——」透は空洞を見渡した。柱も壁の凹みもない。逃げ場がない。
足音が横穴から聞こえてきた。
透は術式の前に立った。修復したばかりの術式を、また傷つけさせるわけにはいかない。
光球を消した。暗闇の中で、魔力視だけを頼りに相手を見る。
入り口から、光が差し込んできた。松明の光だ。人影が二つ、横穴から入ってくる。
「誰かいる」と一人が言った。
「感知されたか」ともう一人が言う。声が低い。昨夜の男たちとは違う声だ。
透は暗闇の中で静かに言った。「何しに来た」
二人が足を止めた。暗がりの中から声がしたことに驚いている。
「術式を壊しに来た」と低い声の男が言った。隠す気もなく、あっさりと。「邪魔をするな」
「できない」
「子供か」男が松明を掲げて透を照らした。「……本当に子供だな。ギルドの者か」
「そうです」
「帰れ。これは子供の関わることじゃない」
「術式を壊させるわけにはいきません」
男は透を見た。その目が、少し変わった。最初の侮りが、警戒に変わっていく。透の魔力を感じ取ったのかもしれない。
「なぜ守る。お前にはこの術式が何かもわかるまい」
「守るべきものだということはわかります」
「守るべき?」男は短く笑った。「あれが何か知っているか。あれは封印ではない。眠っているものへの供物だ。目覚めれば——この世界は変わる」
透は黙って聞いた。
「変わるとはどういう意味ですか」
「良い変化とは限らない」もう一人が口を開いた。こちらは女の声だ。「しかし変化は必要だ。今の世界は、歪んでいる。あれが目覚めれば、歪みが正される」
「誰が決めたんですか、歪んでいると」
女が黙った。
「歪みを正すために、子供の可能性を奪うことを選んだ人たちの判断を、私は信用できません」
男が魔力を高め始めた。「問答は終わりだ」
透も構えた。
しかし次の瞬間、セサミンが透の肩から飛び降りた。二人と透の間に降り立ち、金色の目で男たちを見た。
昨夜と同じように、男たちが固まった。
だが今回は違った。セサミンが、何かを「見せた」だけでなく、何かを「伝えた」のだ。
男たちの表情が変わった。固まっているのに、目に感情が動いている。驚き、困惑、そして——悲しみのような何か。
一分ほどして、セサミンが金色の目を戻した。男たちが動けるようになった。
しかし誰も動かなかった。
男がゆっくり、松明を地面に置いた。女がその隣で、目を閉じていた。
「……見せたな」と男がセサミンに言った。「あれを」
セサミンは答えなかった。
「あれが本当なら」男の声が、低くなった。「我々は——」
「間違えていた」と女が静かに言った。男の言葉を引き継ぐように。「気づかなかった、いや、気づかないようにしていた」
透には何のことかわからなかった。セサミンが何を「見せた」のか。
しかし二人の様子は、明らかに変わっていた。
「術式は——壊さない」と男は言った。透に向けて、ではなく、自分自身に言い聞かせるように。「今日は、帰る」
「あなたたちの仲間は」と透は言った。「他にもいるはずだ」
「いる。しかし——話をする必要がある」男は松明を持ち直し、透を見た。「お前は何者だ」
「ギルドの魔法使いです」
「名は」
「トオル」
男は少し考えた。「トオル。覚えておく」それだけ言って、二人は横穴を戻っていった。
足音が遠ざかり、静かになった。
透はしばらくその場に立っていた。
「セサミン」
「うん」
「今度は何を見せた」
セサミンは少し黙った。それから言った。「あのひとたちが、ほんとうは、なにをしたかったか」
「本当にしたかったこと?」
「まほうじゃなくて、ちかのものをめざめさせることじゃなくて」セサミンは探すように言葉を選んだ。「もっとまえの、もっとちいさな、ほんとうのきもち」
透には、それ以上の説明を求める気になれなかった。
セサミンが人の本当の気持ちを見せる力を持っているということが、わかった。それがどこから来る力なのかは、まだわからない。でも確かに、その力は今日、誰かを傷つけることなく、何かを変えた。
「ありがとう」と透は言った。
「セサミンは、なにもしてない」
「してる」
セサミンはそれを聞いて、少し照れたような顔をした。
地上に戻ると、霧が明らかに薄くなっていた。
完全には消えていない。でも、霧の向こうに山の稜線が透けて見えるほどになっていた。集会所に入ると、水晶が先ほどより強く光っていた。
修復した。ありがとう。
声が、透の頭に届いた。
「あなたは——これからどうするつもりですか」と透は聞いた。
しばらく間があった。
もう少し、ここにいる。術式が完全に安定するまで。でも——久しぶりに、外の声を聞いた。
「外に出ることも、できるんじゃないですか」
そうかもしれない。でも今はまだ。
セサミンが水晶に近づいた。振動音を短く出した。水晶の光が揺れた。何かを伝え合っている。
「なんて言ってるんだ」と透はセサミンに聞いた。
「またくる、っていった」とセサミンは言った。「そしたら、また、はなそう、って」
「私に聞かずに約束したのか」
「いい?」
透は苦笑した。「いいよ」
水晶の光が、柔らかく揺れた。
帰り道、霧の中を歩きながら、透は今日のことを頭の中で整理した。
術式は修復した。術者たちは——少なくとも今日のところは——退いた。地下に眠るものが何かは、まだわからない。術者たちが言った「変化」の意味も。
わからないことは、まだたくさんある。
しかし一つだけ、今日確かにわかったことがあった。
セサミンの力は、戦うための力ではない。
人の本当の気持ちに触れる力。眠っているものを呼び起こす力。そして——透にはまだ言葉にできないが——何か、もっと深いところに根ざした力。
それがこれからどんな意味を持つのか。
「トオル」とセサミンが言った。
「うん」
「おなか、すいた」
透は笑った。
「霧を抜けたら、何か食べよう」
「やくそく?」
「約束」
セサミンは「よし」と言って、透の肩で丸くなった。
霧が、少しずつ晴れていく。




