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第六章 霧の中へ

出発は三日後にした。

準備が必要だったからだ。無計画に霧の中へ踏み込んで戻れなくなっては意味がない。透はその三日間を使って、できることをすべてやった。

まず、魔法の練習を集中的に行った。石を動かすだけだった制御の練習を、より複雑な操作へと移行した。複数の物体を同時に動かすこと、魔力の出力を細かく調整すること、そして防御の術式を展開すること。ヴェルナーに頼んで練習場を借り、毎朝三時間、黙々と繰り返した。

「上達が早い」とヴェルナーは言った。「普通は一年かけて身につけることを、三日でやっている」

「基礎がわかっていたので」と透は答えた。

それは本当のことだった。ゲームで散々研究した魔法の理論が、この世界でも大筋で通用した。知識があれば、実践は速い。

セサミンも毎朝練習を眺めていたが、ある朝突然「セサミンも、やる」と言い出した。

「どうやるかわかるのか」

「わからない。でも、やってみる」

セサミンは地面に降りて、小石の前に座り、じっと見つめた。一分ほど動かなかった。透が声をかけようとした瞬間、小石がふわりと浮いた。

三センチほど。ゆらゆらと不安定に、でも確かに空中に浮いている。

「……できた」セサミンは目を丸くした。「うごいた」

「すごいな」

「でも、どうやったか、わからない」セサミンは首を傾げた。「かんがえたら、うごいた」

透はその様子を観察した。セサミンの魔力の動きを魔力視で見ると、普通の魔法の使い方とは全く違う。術式を経由していない。意志が直接、現実に干渉しているような動きだ。

これは魔法ではない、かもしれない。

何か別のものだ。しかしそれが何かは、まだわからなかった。


出発の前日、透はヴェルナーにすべての計画を話した。

「無茶ではないか」とヴェルナーは言った。

「多少は」と透は認めた。「でも待ち続けても状況は変わらない。霧が広がれば、いずれ街にも影響が出る可能性があります」

「それは私も感じている」ヴェルナーは窓の外、北の方向を見た。「三日前から霧が少し広がっている。このペースで続けば、一月以内に北街道が完全に塞がれる」

「だから行きます」

ヴェルナーはしばらく黙っていた。それから立ち上がり、書棚の奥から小さな石を取り出した。淡く青く光っている。

「連絡石だ。対になるものを私が持つ。何かあれば、これを強く握れ。私に届く」

透は受け取った。温かい石だった。

「もう一つ」ヴェルナーは今度は小さな瓶を渡した。「霧の中で方向感覚を失った場合に使う。中身を地面に垂らすと、来た方向に引力が働く。一回分しかないので、本当に必要なときまで使うな」

「ありがとうございます」

「無事に帰ってこい」ヴェルナーはそれだけ言った。「君はまだ、私に語っていないことが多くある。帰ってきたら、ゆっくり聞かせてもらいたい」

透は少し驚いた。「……何でわかるんですか」

「長年この仕事をしていると、人の目でわかることがある」ヴェルナーは静かに笑った。「君の目は、この世界をよく知っているようでいて、時々ひどく新鮮なものを見る目になる。どこか遠いところから来た人間の目だ」

透は何も言えなかった。

「無理に話せとは言わない。ただ——君が何者であれ、今この街にいて、子供たちを助けて、霧のことを調べようとしている。それだけで十分だ」


翌朝、日の出とともに透は北街道を歩き始めた。

セサミンは肩の上にいた。出発してすぐ、透の耳元で「においが、つよくなってる」と言った。

「怖い匂いか」

「ちがう。かなしいにおい。でも、もっとつよい」

街道は最初のうち普通の道だった。荷馬車の轍が残り、道端に野草が生えている。しかし一時間ほど歩くと、景色が変わり始めた。

空気が湿っぽくなった。草の色が淡くなる。音が、遠くなる。

そして霧が見えてきた。

想像より大きかった。山の麓から中腹にかけて、白い霧が壁のように立ちはだかっている。境界線がはっきりしていて、霧の外は晴れているのに、霧の内側は完全に白く塗りつぶされていた。

「自然の霧じゃない」と透は呟いた。

魔力視で見ると、霧全体に術式が走っている。複雑で、大きい。一人や二人で張れるものではなかった。

「トオル」とセサミンが言った。

「うん」

「なかに、だれかいる。においがする」

「人の匂いか?」

「……ちがう。でも、いきものの、においがする」

透は深呼吸した。霧の境界線に近づき、手を差し伸べる。指先が霧に触れた瞬間、強い引力を感じた。引き返せ、という力だ。ヴェルナーの部下が言っていた「気づいたら戻っていた」という現象はこれだ。無意識に従えば、足が勝手に向きを変える。

しかし透には魔力視がある。術式の構造が見えた。

引き返させる力の根は、霧の中心から伸びていた。つまり、中心に近づくほど力が強くなる。しかし構造を理解していれば——透は自分の魔力で、その引力を一時的に相殺することができた。

「いくぞ」

「うん」

一歩、霧の中へ踏み込んだ。

視界が白くなった。音が消えた。自分の足音だけが聞こえる。

方向感覚が揺らぐのを感じた。霧の術式が、感覚を少しずつ狂わせようとしている。透は魔力視を最大まで広げて、地面の下に走る術式の流れを羅針盤代わりにした。流れが最も濃い方向が、霧の中心だ。

一歩ずつ、慎重に進んだ。

セサミンは静かだった。いつもならすぐ何か言うのに、今は無言でいる。気配でわかる——緊張している。

「セサミン、大丈夫か」

「うん」短い返事。「においが、つよい」

「どんな匂いだ」

少し間があった。「……ふるい、においがする。ながいあいだ、ひとりだったものの、においがする」

長い間、一人だったもの。

透はそれを聞いて、足が少し止まった。それから、また歩き始めた。


霧の中を二十分ほど歩いた頃、石造りの建物が見え始めた。

廃村だ。

五、六棟の建物が、霧の中に沈んでいた。屋根が崩れているものもある。蔓草が壁を覆い、石畳の隙間から草が生えている。しかし完全に廃墟というわけでもなかった——建物の一棟に、かすかな光が灯っている。

「あそこだ」

近づくと、古い木の扉がある。光は扉の隙間から漏れていた。透は扉の前で立ち止まり、内部の気配を探った。

人の気配は——ない。

しかし何かいる。魔力視で見えるのは、建物の中心に集まる、奇妙な魔力の塊だ。透が今まで見たどの魔力とも違う。古く、深く、静かだ。

「入ろう」

扉を押すと、軋む音がした。

中は思ったより広かった。もとは集会所のような建物だったらしく、中央に大きなテーブルが残っている。埃が積もり、蜘蛛の巣が張り、長い時間の重さがある。

テーブルの上に、光源があった。

水晶だ。掌ほどの大きさの、透明な水晶が、内側から淡い光を放っている。

透は近づいた。水晶の内部を魔力視で見ると——

「これは……」

水晶の中に、意識がある。

薄く、弱い。長い眠りに落ちているような状態だ。しかし確かに、何かの意識がそこにあった。

セサミンが透の肩から降りて、テーブルの上に乗った。水晶の前に座り、じっと見つめる。

「トオル」

「うん」

「これ、しってる」

透は驚いた。「知ってる?」

「しらない。でも、しってる、きがする」セサミンは首を傾げた。「むかし、あった、ことが、あるような……でも、セサミン、うまれたばかりだから、むかしは、ない」

「前世、みたいな感覚か」

「ぜんせ?」

「生まれる前の、記憶のようなもの」

セサミンはそれを聞いて、しばらく黙った。水晶の光がセサミンの鱗に映り、金色に輝く。

「……よぶ」とセサミンが言った。

「呼ぶ?」

「このこを、よぶ。おきて、って」

「セサミン、待て。何が起きるかわからない——」

しかしセサミンはすでに水晶に向かって、低い声で何かを言っていた。言葉ではなかった。音というより、振動に近い。透の胸の奥まで届くような、深い共鳴音だった。

水晶の光が強くなった。

建物全体が、微かに揺れた。霧が——外の霧が、少し薄くなった気がした。

そして水晶の内側で、意識が動いた。

眠りから醒めるように、ゆっくりと。透は魔力視を最大まで開いて、その様子を見ていた。意識が、水晶の中で形を整えていく。人の形ではない。もっと古い、もっと根源的な何かの形だ。

声が、した。

建物の中に直接響くような声ではなかった。頭の中に、静かに届く声だった。

……久しぶりに、声を聞いた。

セサミンが答えた。あの振動で。

透には意味がわからなかった。しかしセサミンには伝わっているようだった。二つの存在が、言葉ではない何かで会話している。

しばらくして、セサミンが透を振り返った。

「トオル、このこは、ここをまもってた」

「守ってた?」

「むかし、このむらに、わるいまほうがかかった。そのとき、このこが、むらのひとたちを、にがして、そのあと、ひとりでとまってた」

透は水晶を見た。「ずっとここにいたのか」

「ながいながい、じかん」セサミンの声が少し沈んだ。「ひとりで、とまってた」

「なぜ出られなかった」

セサミンは水晶に向き直って、また振動で何かを伝えた。答えが返ってくる。セサミンはそれを、透にわかる言葉に変換した。

「でられなかった、んじゃない。でなかった」

「なぜ」

「わるいまほうが、まだ、のこってるから。でたら、またひとがくる。だから、ここで、とめてた」

透は静かに考えた。

百年間、一人で悪い魔法を押さえ込んでいた存在。その存在が作った霧が、人を近づけないようにしていた。子供の魔力を集めようとしていた術者たちは——その悪い魔法と、何らかの関係があるのかもしれない。

「その悪い魔法とは何か、聞けるか」

セサミンが伝える。答えが返ってくる。

「……ちかに、ある。このむらの、ちかに、ふるいじゅつしきが、ねむってる。めをさましたら、おおきなわざわいになる」

「それを目覚めさせようとしていた者がいる、ということか」

セサミンが確認する。

「……そう、おもう。さいきん、ちかで、なにかがうごいた。このこが、それで、きんちょうしてた」

透はすべてが繋がった気がした。

子供の魔力を集めた目的は、地下の古い術式を起動するためだ。それを阻もうとしていたこの存在が作った霧が、計らずも人を遠ざけていた。しかし術者たちはそれを知らず、あるいは知っていて、別のルートから近づいていた。

「この存在を、助けられるか」と透はセサミンに聞いた。

セサミンは水晶を見た。また振動で話す。

返ってきた答えを、セサミンはゆっくり透に伝えた。

「……たすけ、はいらない、って。でも、いっしょに、ちかのじゅつしきを、けしてほしい、って」

「消せるかどうかわからないが」と透は言った。「やってみる」

水晶の光が、少し揺れた。

……ありがとう。

その声は、透の頭の中にも直接届いた。

セサミンが透を見上げた。その目が、少し潤んでいるように見えた。ドラゴンが涙を持つかどうかは知らないが、表情はたしかにそう見えた。

「かなしいにおい、だった」とセサミンは言った。「ながいあいだ、ひとりだったから」

「うん」

「だから、きたかった」

透はセサミンの頭を、そっと撫でた。

来た理由が、わかった気がした。セサミンはずっとこの声を聞いていた。この匂いを感じていた。だから来たかった。

窓の外を見ると、霧が少し薄くなっていた。まだ消えてはいない。地下の術式が残っている限り、霧は必要だ。しかしもうすぐ——何かが、動こうとしていた。

透は腰を上げた。

「地下に行こう」


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