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第五章 ヴェルナーの書斎と、ゲームにない話

事件の翌朝、透はギルドに呼ばれた。

昨夜のうちに衛兵隊から報告が上がり、ヴェルナーの耳に届いていたらしい。受付で案内されたのは、いつもの窓口ではなく、建物の奥にある階段を上った先の部屋だった。

ヴェルナーの私室兼書斎。

扉を開けると、天井まで届く本棚が四方を囲んでいた。羊皮紙の束、古い地図、標本瓶、乾燥した薬草の束。雑然としているが、不思議と居心地がいい空間だった。ヴェルナーは窓際の椅子に座って本を読んでいて、透が入るとゆっくり顔を上げた。

「座りなさい」

向かいの椅子に腰を下ろすと、セサミンが肩から降りて、近くの本棚の端に陣取った。興味深そうに背表紙を眺めている。

「昨夜のことを聞かせてくれ」とヴェルナーは言った。「報告書ではなく、君の言葉で」

透は順を追って話した。噂を聞いたこと、依頼を受けたこと、旧市街の地下に降りたこと、子供たちを見つけたこと。セサミンの力のことも、包み隠さず話した。

ヴェルナーは途中で口を挟まなかった。ただ静かに聞いていた。

話し終えると、しばらく沈黙があった。

「セサミンが人を金縛りにして、恐怖を見せた」とヴェルナーはゆっくり繰り返した。「孵化して一週間のドラゴンが」

「はい」

「君はそれを不思議だと思うか」

「思います」透は素直に答えた。「ドラゴンが人語を話すことも、生まれてすぐに感情を持つことも、こういう力を持つことも——私の知識の範囲では説明がつかない」

ヴェルナーは顎ひげを撫でた。「実は私も、似た話を一つだけ知っている」

透は少し前に乗り出した。

「百年ほど前の記録に、『言葉を持つ竜』の話がある」ヴェルナーは立ち上がり、本棚の一角から古い書物を引き出した。「ルーナリア語の古い言い回しで『竜の声』と呼ばれた存在だ。普通のドラゴンとは違う——魂の層が深い、という表現が使われている」

「魂の層が深い」

「感情、意志、言語、そして——記録によれば——世界の理に触れる力を持つ、とある」ヴェルナーは書物を透の前に置いた。「ただしこれは伝承に近いもので、実在を確認した記録は残っていない」

透は書物を見た。古い文字だったが、全言語理解のスキルのおかげで読める。書かれていた内容は、ヴェルナーの言った通りだった。そしてもう一つ、気になる一文があった。

竜の声は、世界の均衡が揺れるときに現れる。

「世界の均衡」と透は呟いた。

「気になるか」

「はい」

「私もそこが気になっている」ヴェルナーは椅子に戻った。「この街で子供が消えた事件も、孤立した犯罪にしては少し——きれいすぎる」

「きれいすぎる?」

「術式が、素人の仕事ではなかった。あの魔法陣を描けるのは、相当な知識を持つ者だ。しかしそれほどの術者が、なぜこんな辺境の街で子供から魔力を集めていたのか」透はその問いを頭の中で転がした。ゲームでの記憶を手繰る。「昨夜逃げた三人は、衛兵が追っているのですか」

「追っているが、まだ捕まっていない」ヴェルナーは窓の外を見た。「一夜で完全に消えた。街を出たのか、あるいは……」

言葉が止まった。

透には、その先が何となく想像できた。ゲームでは、子供の魔力を集めた黒幕は街の外にいて、この事件は序章に過ぎなかった。しかし今は、それが本当にゲーム通りかどうかわからない。

「一つ聞いてもいいですか」と透は言った。

「どうぞ」

「この街の、最近変わったことは何かありますか。事件以外で」

ヴェルナーが少し目を細めた。「鋭いところを聞くな」

「気になっただけです」

「……実は一つある」ヴェルナーはゆっくり言った。「北の山道が、三週間ほど前から通れなくなった。理由は不明だ。行商人が戻ってきて『道が消えた』と言った。文字通り、山道が霧に閉ざされて見えなくなったと」

透は内心で息を呑んだ。

ゲームにはなかった情報だ。

北の山道は、アルヴィスの北東にある峠への唯一のルートで、ゲームでは物語中盤に重要な拠点として使われた。しかしその道が「霧で消えた」などという展開はゲームになかった。

「それは……魔法的な原因ですか」

「魔力視を持つ者を送ったが、霧の内側には入れなかった。入ろうとすると、気づいたら街の方に向かって歩いていたと言う」

「強制的に引き返させる術式ですね」

「そうだ。相当な規模の」ヴェルナーは透を見た。「君に頼みたいことがあるのは、そこだ。昨夜の腕を見て、確信した——君ならあの霧に入れるかもしれない」

透は少し考えた。

セサミンが本棚の端から降りてきて、透の膝に乗った。ずっと聞いていたらしく、真剣な顔をしている。

「むこうに、なにか、ある?」とセサミンがヴェルナーに聞いた。

ヴェルナーは一瞬目を丸くして、それから穏やかに答えた。「わからない。だから知りたい」

「セサミンも、いく」

「危ないかもしれない」

「しってる」セサミンは頷いた。「でも、いく。トオルと、いく」


ヴェルナーの書斎を出て、透は街の北側に向かって歩いた。すぐに行くわけではない。ただ、北の方向を見ておきたかった。

城壁の上に登ると、北の山並みが見えた。晴れた日なのに、山の手前あたりに白い霧が漂っているのがわかる。距離があってもわかるほど、濃い霧だ。

「ゲームと違う」と透は小さく呟いた。

「ゲーム?」とセサミンが聞いた。

透はハッとした。口に出すつもりはなかった。

セサミンが透の顔を見ている。金色の目が、じっと透を見ている。

「……セサミン、一つ話してもいいか」

「うん」

「信じられない話かもしれないけど」

「きく」

透は城壁の縁に腰を下ろした。セサミンが隣に並んで座る。遠くに霧が見える。風が吹いて、セサミンの鱗が光った。

「私は、この世界の生まれじゃない」

セサミンは黙って聞いている。

「別の世界から来た。その世界では、ここは——この街も、この山も、この国も——物語の中の場所だった。私はその物語をよく知っていた。だから、この街に来たとき、どこに何があるか、誰がいるか、ある程度わかった」

「ゲーム、って、なに?」

「その世界で、この世界を模した遊びがあって……その遊びを私はよく知っていた、ということ」

セサミンは少し考えた。「トオルは、ここのことを、しってた?」

「知ってたつもりだった。でも実際に来てみると、知らないことの方が多い」透は霧の方を見た。「あの霧も、ゲームにはなかった。セサミンも、ゲームにはいなかった」

「セサミンが、いない、せかい?」

「うん」

セサミンはそれを聞いて、少し複雑な顔をした。それから言った。「さびしいせかい」

透は思わず笑った。

「そうかもしれない」

「トオルは、むこうのせかい、かえりたい?」

正直な問いだった。透は少し間を置いた。

「わからない」と答えた。「でも今は、ここにいたいと思ってる。この世界のことを、ちゃんと知りたい。ゲームとは違う、本当のこの世界のことを」

セサミンは頷いた。「セサミンも、いる」

「ここに?」

「トオルのよこに、いる」

短い言葉だったが、透にはその重さが伝わった。

「ありがとう」

「おなか、すいた」

透は脱力した。「今?」

「さっきから、すいてた。でも、はなしてたから、いわなかった」

「気を遣えるようになったんだな」

「えらい?」

「えらい」

セサミンは満足そうに尾を揺らした。


昼食を食べながら、透は頭の中でこれまでの情報を整理した。

子供の失踪事件。逃げた三人の術者。北の山道を閉ざす霧。そして——ゲームになかった出来事の数々。

ゲームでのアルヴィス編は、比較的平和な序盤のエピソードだった。街の依頼をこなして、仲間を集めて、やがて北の峠を越えて物語が展開していく。しかし今の状況は、ゲームよりずっと早い段階で不穏な影が見えている。

何かが、ゲームと違う方向に動いている。

なぜ自分がこの世界に転生したのかも、まだわからない。理由があるのかさえわからない。ただ一つ確かなのは——セサミンがここにいて、この世界は確かに存在していて、自分は今ここで息をしているということだ。

「トオル、かんがえすぎ」

セサミンがパンの欠片を透の鼻先に押し付けた。

「食べながら考えてた」

「かおが、こわかった」

「そうか」透はパンを受け取った。「心配かけた」

「うん」セサミンはスープを覗き込んだ。「でも、セサミンがいる。ひとりじゃない」

「そうだな」

透はスープを一口飲んだ。温かかった。


その夜、透は書物を広げて北の山道について調べた。宿の主人に頼んで、ギルドの資料室から借りてきた古い地図と旅行記だ。

山道の先には、かつて小さな集落があったらしい。ゲームにも登場した場所——「霧の村」と呼ばれた場所だ。ゲームでは廃村として描かれていたが、地図によれば百年ほど前まで人が住んでいたとある。

廃村になった理由は、地図には書かれていなかった。

セサミンは燭台の横で丸まっていたが、透が地図を広げると顔を上げた。

「むこうに、むらがある?」

「あったらしい」

「ひと、いる?」

「今は廃村だと思う」透は地図を指でなぞった。「でも、霧がある。その霧の向こうに何かある可能性はある」

セサミンはしばらく地図を見ていた。それから言った。「においが、した」

「今?」

「まえから。きたのほうから、においが、した。なんのにおいか、わからない。でも、きになる」

透は顔を上げた。「いつから?」

「ここにきた、ひから」

来た日から、ずっと。セサミンは北の方角から漂う何かを、ずっと感じていたのか。

「なぜ言わなかった?」

「いいにおいじゃ、なかったから」セサミンは少し目を伏せた。「こわいにおい、じゃないけど、しずかなにおい。かなしいみたいな」

悲しいような匂い。

透は地図を見つめた。廃村になった理由。霧の発生。子供の魔力を集める術者。それらが一本の線で繋がるとしたら——

まだわからない。しかし何かが、静かにこちらへ向かっている気がした。

「セサミン」

「なに」

「怖かったら、行かなくていい」

セサミンは少し間を置いた。それから、はっきりと言った。

「いく。セサミン、トオルと、いく」

「なんで」

「においのさきに、なにかある。セサミンが、しりたい」

透はセサミンを見た。孵化して一週間の、手のひらサイズのドラゴンが、怖いかもしれない場所へ行くと言っている。その目に迷いはなかった。

「わかった。一緒に行こう」

透は地図を畳んだ。

燭台の炎が、静かに揺れた。


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