一話・7
「昔はか弱い従順な子だったのに、随分と生意気になっちゃったものねー。
何よその髪と安全ピンは」
「んなことはいいから、どうなんだっ!?
お前にその気がないなら……」
「分かったわよ、交渉成立ね。
それじゃ、うずうずしている都さんにはわたしから説明するから、余計な口出しはしないでね」
そう言われ、春輝はちらりと視線を動かし、朱音の肩越しに見える事務員の小さな姿を確認する。
確かに、なんか今にもこっちに駆け寄ってきそうなくらいそわそわしているのが丸分かりだ。
ちっとも大人らしくも事務員らしくもない。
親しみやすくはあるけど、本当にあれで名門校の一員が務まるのか。
「ほらっ、行くわよ。
協力的な態度を期待してるからね」
「あいよ」
適当な返事をして、颯爽と歩き始めた朱音の後を三歩遅れで付いていく。
こうして見ると、やっぱり制服に包まれた朱音の歩く姿は綺麗で、それが今ではとても詐欺臭く感じる。
ほんの一分前までなら見惚れていたのかもしれないけど、今見れば新手の詐欺だ。
どうして『あの』鈴橋朱音がこうも別人のようなお嬢様っぷりを発揮しているのか、
謎すぎる。
……いやそれより、さっきはああもテンパっていたのに、もう持ち直しているということに注目すべきか。
なんつー立ち直りの早さだ。
けど、それを突っ込んでいる場合じゃない。
今はある程度奴の言う通りにしなければ。
非常に不本意ではあるけど。
ただでさえ悪友に、
『ナチュラルに背後から蹴りを食らわせるタイプの目をしている』
と言われたことのある目を細め、どこでどう間違えばこんな事態になるのだろうと心の中で嘆き、肩を落とす。
勿論、爛々と目を輝かせている都に見られると余計な勘ぐりをされるかもしれないので、こっそりと。
朱音に付き添うような形で春輝は彼女のやや後ろに位置し、都と向かい合う。
幸運なのか当然の結果なのか、お気楽事務員は興味津々でいるにも関わらずこちらの微妙な表情に気付いた風はなかった。
「都先生、すみません。
少し彼とお話ししておきたいことがあったものですから」
「いえいえ、それは別に、いいんですけどね?
そんなことよりですね?
先生としては、お二人の関係が非常に気になるところなんですけど」
「お察しかと思いますけど、春輝くんは小さい頃の友達で……まさかのこのような形で再会するとは露とも思っていませんでしたので、本当に驚いてしまって。
不作法な真似をしてしまい、申し訳ありません」
「へえー、昔のお友達ですかぁ。
これはまた凄い偶然が……」
そこまで言ったところで都は『あれ?』と小首を傾げた。
少し気になる反応だが、春輝はとりあえず放っておくことにした。
何か疑問が浮かんだみたいな仕草だったけど、それを口に出さないのならこっちから突っ込んで訊いてやることもないだろ。
聞けば聞く程うんざりする朱音のお嬢様口調にどこか遠い世界へ行きたい気分になっている真っ最中だし、追及はしない。
イメージする逃避先は冬の日本海だ。
きっと厳しい寒風が剥き出しになっている肌を襲うんだろうけど、それでもこの何階層目か分からない地獄よりはマシだろう。
「ええと、それじゃあ後は藤條さんにお任せしても大丈夫ですか?
お二人で積もる話もあるでしょうし。
終わったら、四時を目安に職員室に来てくださいね」
「はい、任せてください。
先生方の期待に添えられるよう、精一杯務めます」
にこりと微笑んだ朱音はどう見ても優等生で、それがまた詐欺臭い。
春輝の知る限り、朱音は優等生っぽい言動をすることはあっても、その仮面の下で打算に満ちた悪巧みをするような女だ。
あの笑顔に騙されたらアウト、気がつけば大損する羽目になる。
しかし事務員はすっかり騙されてしまったらしく、嬉しそうに、
「藤條さんなら安心してお任せ出来ますねー」
などと言って、何の憂いも無く来た道を戻って行った。
ただし途中で振り返りぶんぶんと手を振ったり、こっちが胡乱げな目で見てやるとちょっぴり寂しそうに肩を落としたりと、どこまでも『らしい」ままで。
小さくなっていく彼女の背中を見ながら、春輝はやれやれとため息を吐いた。
「……本当に、あんなのが教員で大丈夫なのか……?」
「いいんじゃない?
事務の仕事は一応やれているみたいだし、理事長としての仕事は他の人が手助けしてくれているみたいだから」
もう猫被りする必要がなくなったからか、朱音はやや砕けた口調で応える。
その切り替えの早さに呆れそうになり、しかしすぐに眉を顰める。
今、何か妙な発言を聞いたような気がする。
出来れば気のせいであって欲しい発言、という方が正しいかもしれないが。
「……おい、鈴……じゃない、藤條」
「ん、間違いに自分で気付いたからペナルティは無しにしてあげるね。
それで何?
訊きたいことでもあるの?」
何故か尊大に胸を張る朱音につい文句の二つ三つ言いたくなるが、そこはぐっと堪えた。
それより先に晴らしておきたい疑問がある。
「お前、あの事務員のことを何つった?
このメルヘン世界の影響で俺の聴覚っつーか脳がおかしくなったせいか……理事長、と聞こえたんだが」
「え?
春輝ってば知らないの?」
素で驚いたようで、朱音は目をパチクリさせて、
「都さんって、ラベールブロンシュの理事長でもあるのよ。
前の理事長のお孫さんで……噂によると、一番暇そうだから命令されたって」
「……前の理事長に、か」
春輝の知っている理事長は、白髪の多い七十半ばの女性だ。
政財界でも恐れられる有名な女帝らしく、テレビで見たこともある。
そういえば何ヶ月か前、彼女が倒れて入院したとニュースでやっていたような……
「やっぱり、寄る年波には勝てないってことみたい。
リュウマチで腰痛が酷くて、しばらくは闘病生活らしいわよ。
だから都さんに白羽の矢が立ったんでしょうね」
「いやどう考えても人選間違えてるだろ」
「そうでもないわよ?
他の先生が優秀だから、理事長の仕事は殆ど無くてただの判子作業だけって噂だもの」
「……ただの噂って可能性もあんだろ?」
「そうだけど、都さんが事務室でごろごろしていることが多いのは目撃証言もたくさんあるから間違いないもの。
それに……その様子だと、編入試験の時も理事長らしい振る舞いや仕事はしていなかったんでしょ?」
その通りだった。
確か、案内以外は試験官役の、深閑とかいう名前の女性教師が全てを取り仕切っていた。
つまり……本当に、あれが理事長、なのか。
信じられないというか信じたくない事実に、春輝は空を仰ぐ。
とても蒼い一面の大空を、千切れた白い雲が泳いでいる。
これはきっと明日もいい天気になるんだろうなー、と思わせる、見事な快晴だった。
こんな天気なら、善いことが起こってもよさそうなものなのに。
そうでなくても、平穏で安らげる一日になりそうなものなのに。
どこをどう間違えばこんな、心の中をどどめ色に染めるような出来事ばかり起こるのか。
「なんっつーかままならねぇよなぁ」
世の不条理を肌で感じて、春輝は瞼を閉じた。
どうしようもないということか。
なんかもう、腹ペコで死にそうな時にカップ焼きそばの湯切りに失敗して麺がシンクにダイブを決めた直後よりも虚しくなる。
そう悟っていると、
「妙なこと言ってないで、さっさと移動するわよ」
横合いから朱音の声が飛んで来る。
どうやら自分の世界に浸ることさえ許さないらしい現実に、春輝は大きなため息を吐いた。




