三話・12
なかなか浮いて来ない羽柴に、慌てたように朱音とオレリア以外の見学組が飛び込み用のプールへと依っていく。
まあでも、あいつは大丈夫だろう。
ああいうタイプは死んでも死なないだろうから。
それよりも、
「……完璧に気が削がれちゃったみたいだね」
壬卦が小さく呟いたとおり、爆発寸前だったオレリアは、脱力気味にとても微妙な表情をしていた。
覇気は無くなり、けれど燻った怒りはまだあるらしい。
けど、勢いがついている時にならともかく、一度水をぶっかけられた花火にまた火を点けるのは難しいはずだ。
どうしようもないのか、なんかこっちに助けを求めるような目をして居たたまれない雰囲気を醸し出しているし。
同情に値するが……ここで燃料を注いでやるのも、なんか違う気がする。
可哀相だけど、もう放っておこう。
方針を決定した春輝は、朱音へと軽く手を挙げて、
「……じゃ、俺は練習に戻る」
「……はい、頑張ってください」
朱音の方も笑みを微妙に濁らせて、そう返した。
この展開には不満があるんだろうけど、そこは空気を読んで、無理に自分の望む方向には持って行こうとしない。
そんな態度に好感が持てるといえばそうだけど、オレリアと一緒に現れた時点でこいつが一枚噛んでいるのは理解しているのでプラマイゼロだ。
少し長く休んでいたのですっかり衣服の重さを忘れていた手足がなかなか言うことをきいてくれずに苦戦しつつ、とりあえずコースを何往復かしようと頑張って歩く。
ちらりと後ろを見てみれば、香取と壬卦はまだ端にいて、プールサイドの朱音とオレリアへ何やら視線を送ったり逸らしたりしていた。
話をしてみたいけど何を言えばいいのか分からない、ってところだろうか。
ただ、あの様子だと諦めて泳ぎ出すのも時間の問題だな、きっと。
ちなみに、倉木は我関せずといつた感じで泳ぎ続けていた。
本気で化け物じみた体力だ。
何かコツがあるのかもしれないが、やっぱり基本的には鍛えるしかないだろ。
一朝一夕で出来るとは思えないし。
一人そう納得して、春輝は地道に頑張るべく、しんどいと訴えている手足を大きく振るようにして水を掻き分けて歩き……
「では 、そろそろ次の段階へ移行します」
ようやく真ん中くらいまで来た時、そんな声が聞こえて来た。
それが深閑のものだと分かったので、春輝は立ち止まり、彼女の姿を探す。
いつの間にか監視台から消えていて、プールの入り口付近にいた。
瞬間移動でもしたのかという驚きがあったが、それ以上に気になることがある。
次の段階、というのも確かに気になるが、それ以上に……
あの、メイド服を着た教師が握っている、壁からにょきっと生えている真っ赤なレバーは何ですか?
なんかもう嫌な想像しか引き出してくれないレバーの存在に、春輝は頬を引きつらせるしかない。
レバーに手を掛けているメイド教師は相変わらず無表情だけど、心なしか口元が緩くなっている気もするし。
バラエティ番組で何度も似たような光景があった気もするし。
落ち着け。
まだそうなると決まった訳じゃない。
プールで泳いでいるのは若手芸人じゃなくて従育科生徒なんだ、面白展開なんて必要ないはずだ。
ただでさえ着衣遊泳なんて色物めいたことやらされているんだから、もう十分だって。
そうして『何でもいいから予想が外れますように』と祈る中、
深閑の手は力強くレバーを下ろし……
堰が決壊したかのように、怒濤の勢いでプールの水が流れ始めた。
「おいおいおいおいマジでマジにそうなるのかぶおぁっ?!」
立っていることが困難なくらい水の勢いは強く、速い。
それも単純に一方へ流れているだけじゃなくて、奔流したまま右へ左へと、或いは渦巻くように、もう滅茶苦茶だ。
なんだこれ、壊れた洗濯機の中ってこんな感じか?
「おいっ、これはどういうっ……?」
「『氾濫した川で溺れてしまった主人を助ける』
というシチュエーションの、第一段階です」
「これがかよっ!?
しかも第一って?!」
「次の段階では実際に人形を抱えて岸に上がるまでを行って貰います。
まずは一人でプールから出る、このミッションをクリアしてださい」
とんでもないことをさらっと注文してきた。
あのメイド教師に原稿用紙十枚に渡る文句を浴びせてやりたいと思いながら、春輝は口を固く閉じて、必死に手足を動かす。
気を抜くと流されてしまうくらい水の流れは急で、今は一刻も早くプールサイドに辿り着かないとヤバイ。
流れに逆行しなくてもいいなら、まだ何とか泳げる。
ただし数分後も同じ事を言える体力が残っているかと問われれば、かなり自信が無い。
苦難を共にしている他の生徒も同じだろう。
ギャーキャーと悲鳴は聞こえるが、SOSは聞こえない。
というか、救援を求められても困るし、むしろヘルプが必要なのはこっちだし。
運悪く中央付近まで来ていたし、体力も残り僅か。
ぐにゃぐにゃと変化する流れを上手く掴んで、波乗り感覚でスピードに乗って泳ぎ、柵まで辿りつかないといけない。
ただでさえ波打つ水面から顔を出して息をするだけでも辛いのに、そんな芸当をこなさなければならないなんて、割と死ねる。
けど、出来ないと本気で死ねる。
あらぬ方向に体が流され、顔に水がかかり、肺が圧迫されて、それまでの風景ががらりと姿を変えて……これで落ち着いていられる人間の方がおかしいってくらいハードな状況だ。
慌てに慌て焦燥感にどっぷり浸りつつ、それでも、春輝はほんの少しだけ余裕を取り戻しつつあった。
川と違いここはプールで、この急流も機械で作られたものだ。
どの辺りでどんな流れになるのかいまだ掴めてないけど、体は対応し始めている。
プールの底と垂直に足を伸ばせば何とか立つこと出来るし、状況にも段々と慣れて来た。
この調子で、 体力が削られて底をつく前に動けば、何とか……
「わきゃあぅあー?!」
「なっ!?」
希望の直後に聞こえて来た悲鳴に春輝が振り向く間も無く、背中に何かがぶつかって来た。
その拍子に足を滑らせてしまい、しかもタイミング悪く水流で体が傾いた。
体が浮く感覚に一気に焦りが増すが、問題はそれより、
「こ、の……誰がっ……!?」
ぶつかって来た何かが首にしっかりと絡みついて、ぴたっと背中に密着している。
おまけに後頭部に息がかかって、それが人だと教えてくれる。
顔が見えないから誰だかは分からないけど、この感触は間違いなく女生徒。
というか、滅茶苦茶相手に心当たりがあった。
「けほっ……たっ、助けてください!」
「や、やっぱりお前か!?」
密着されて振り向けないが、声だけで確信が持てたのでその必要もない。
昨日、散々ハプニングを巻き起こした鳳凰寺早苗は、今日も絶好調にトラブルを運んで来たらしかった。
なんだろう、迷惑すぎて泣けてくる。
ただし今は泣いている暇なんてこれっぽっちもない。
「おいっ、 落ち着け!
泳ぐのはキツいかもしれないけど、溺れるほどのもんじゃない!」
「だだだ駄目なんです、私っ!
泳げなくて!
ビート板が、流されてっ、溺れちゃいますからぁ……!?」
「いや俺も溺れるっつーの!
くっ、足!
足を絡ませるなって!?」
もう離さないと言わんばかりに鳳凰寺の体が絡みついてきて、春輝は本格的に慌てる。
こんな緊急事態じゃなければ、服を着たままじゃなければ、今の状態は死んでもいいと思えるくらい幸せなのかもしれないけど、一歩間違うと本気で死ぬ。
全く洒落にならない状況だ。
懸命に腕をばたつかせてバランスを維持しようと藻掻くが、一度崩れた体勢で鳳凰寺というオプションが付いている状態だとなかなか上手くいかず、 何度か水を炊んでしまう。
恐慌状態に近い鳳凰寺が腕に力を込めてくるから首は絞まるし、奔流が落ち着く気配もない。
このままだと、本気で……
「何をしてますのっ!?」
空気を切り裂くような切迫した声に、春輝は目だけ動かしてそちらを見る。
プール際で、声の主であるオレリアが怒っているのか焦っているのか分からない吊り上がった目をして、そこに立っていた。
その手に持っている物を見て、思わず、ナイスだと叫びたくなった。
何故ならセレニアが抱えているのは、船や港で見かけるような、救命浮き輪だ。
あれさえあれば、鳳凰寺が引っ付いているこの状態でも何とかなる。
崖っぷちの場面で現れてくれた光明に、春輝は本気で感謝を抱き……凍り付く。
体を捻り、遠心力を最大限に利用したフォームで浮き輪を放るオレリアの姿が目に入ったからだ。
なんというか、『救命浮き輪投げ』という競技があるなら国際強化選手に選ばれるんじゃないかと思うくらい見事な投げっぷりで、それ故に呼吸が止まるくらいの恐怖が襲いかかって来た。
放たれた浮き輪は、ほぼ真っ直ぐにこちらへと飛んで来る。
このままだと直撃コースだ。
ちなみに。
一度触った事があるから知っているが、救命用の浮き輪は、割と固い。
重量もそこそこある。
それをノーバウンドで届くように、しかも正確な狙いで投げたオレリアの技術は驚嘆に値するし、拍手してやってもいい。
ただ、まあ、なんっつーか。
鳳凰寺がまとわりついているこの状態だと、避けることは不可能なわけで。
猛烈な勢いで迫り来る救命道具に、春輝はそっと目を閉じた。
直後、見事に額へヒットして、そのままプールへと沈むことになった。




