三話・6
放り込まれたのが温水プールだというのは、果たして不幸中の幸いと言えるのだろうか?
急に冷たい水に浸かれば心臓に悪いし、プールサイドに真っ逆さまに落ちるよりは、そりゃあずっとマシだっただろう。
けど、盛大に咳き込む羽目になったのは……不幸の幸いで済ませられるのだろーか?
そんな自問をしつつ、春輝はよたよたとプールの中を歩いていた。
一歩一歩、踏みしめるようにして、両腕も大きく振って。
そうでもしないと、水中で、しかも抵抗バッチリな上に重くなった衣服を着たまま歩くのは難しい。
ちょっと気を抜いただけで簡単にバランスを崩してよろけてしまう。
当然だが、泳ぐのはさらに難易度が上だった。
放り込まれた後、試しにちょっと泳いでみたが、クロールなんて出来たもんじゃない。
あっという間に両腕に疲労が溜まり、情けないくらい簡単に息が上がってしまった。
平泳ぎも浮きにくくて大変だったけど、クロールよりは幾分マシ。
そんな発見が出来ただけでも成果はあったのかもしれないが、普通なら全く以ていらない発見だ。
少なくとも嬉しい発見じゃなかった。
むしろ頷いた後、軽くブルーな気分になれる。
というか筋肉痛で死にそうな時にやるようなことじゃないっての。
なんかもうあちこちが痛いわ怠いわで、十分と経たずに歩くだけでもやっとの状態になって、今はもうかなりよろよろでちょっとの油断が水没を生む感じになっている。
他の奴等はというと、まだ泳いだり潜水してみたり、色々と試している。
一応、男子は左寄りのレーン、女子は右寄りのレーンに分かれて。
豪快に春輝をプールに投げ込んだ後、深閑は他の生徒に対し、
『では、各自思うように鍛錬を始めてくたさい。
勿論、準備運動は怠らないように』
と言って、今は監視台に座っている。
特に指示をするつもりはないらしい。
準備運動なんてする暇も与えられ無かった身としては文句の一つや二つや三つは言いたいが……まあ、うん、どうせまたプールに叩き込まれるだけだろうから、止めておこう。
今同じことをやられたら、疲労も手伝って溺れるかもしれないし。
それにしても体が重い。
咋日の長距離走で筋肉痛になっただけじゃなく、体力も削られていたのがこうして歩いているだけで実感出来る。
泳ぎ続けるなんてとてもじゃないが無理な話なので,筋肉を解すようにゆっくりと歩いて、服を着たまま水中で動くのに慣れる努力だけしか出来ない。
それでもかなりしんどい。
足があまり上がらなくなってきたい呼吸も少し乱れているし。
ただ歩いているだけで、しかも温水とはいえ水の中で、炎天下に登山をしている訳でもないのに、こうも辛いとは思わなかった。
突拍子もないアホなことをさせやがると思っていたけども、下手な筋トレより地味にキツイ。
もう何十分こうしているのかは分からないけど、もうそろそろ限界が近いかもしれない。
まあ、ゆっくりとした運動なので今すぐに倒れるようなことも無いから、とりあえず指示があるまでは続けようと、歯を食いしばって手足を前に……
「そんな気張ってもしゃーないで?
適当なところで休まんと」
不意に横手から陽気な声が聞こえて、春輝は眉を顰めてそちらを見た。
いつの間に寄って来たのか、すぐ横に二人、男子生徒がいた。
どうやらその内の一人、オールバックに銀縁眼鏡を掛けた方が声の主らしい。
そこそこ容姿は整っているけど、にまにまと口元が緩んでいて……なんかこう、殴りたくなる。
「……何だ、お前」
「いやいや怪しいモンとちゃうで?
ほら、一緒に整列してたやん。
すぐ後ろにいたやんか。
もしかして気付かんかったん?
うわぁ、そいつはショックや……まだオーラが不足しとるなんて!」
なんだか妙に忙しく身振り手振りをして、違和感のある関西弁で捲し立てる。
思わず無視したくなるところを堪え、春輝はジロジロと遠慮無く観察した。
モーニングコートを着ているから従育科の生徒には違いないんだろう……けど、なんつーか胡散臭い奴だ。
漫画とかだとこういうタイプが実は食わせ者の実力者だったりするけど、こいつは違う。
絶対違う。
むしろ小物っぽい匂いがする。
後ろに控えている小柄な男子生徒がおっかなびっくりという具合で様子を窺っているのも含めて、かなり怪しい。
だからつい睨んでしまうと、オールバック男はにやりと笑った。
「そんな怖い目えせんでもちゃんと自己紹介くらいするわな。
オレは香取卓也、八月八日生まれのナイスガイや。
身長は百七十一センチで体重は男の子のヒミツ、視力良しで見た目もええっちゅう、正真正銘のナイスガイや!」
「卓也君、ナイスガイって二回も言ってるよ?」
「ミケのアホっ、そこは突っ込みポイントなんや!
いかにも間違いを指摘しましたー、なんて感じやのうて、もっとこう、どっかーんと笑い取れるように言わんかいっ!」
「ご、ごめんなさい?」
「ああもうそこで謝られたら空気が冷たくなるやんかっ?!」
一人騒がしくドタハタと暴れる香取はとりあえず放置することにして、春輝は歩みを止めずにもう一人の小柄な男子の方を注視する。
濡れた前髪は眉に掛かる程度なのに対し、後ろ髪がやや長めで、中学生に間違われそうな童顔をしていた。
まあ、ここには一昨日出会った小学生にしか見えない上級生もいるくらいだから、これくらいなら全然許容範囲だ。
むしろ普通っぽくて安心する。
女子にからかわれやすそうな感じの気の弱そうな目も、声変わりはどうしたんだというようなボーイソプラノの声も、今までに見てきた奇人変人お嬢様に比べればどうってことはない。
いやまあ、そんなのに慣れるのは割とまずい気もするが。
このまま黙ってうっとうしい関西弁を聞いているのも嫌なので、春輝は矛先をこっちへ向けることにした。
向こうは向こうで春輝の視線にすぐに気付き、その意図も理解したかのようにすぐに口を開いて、
「あの、僕は壬卦満って言います。
その……よろしくお願いします」
「ああ、よろしくな。
……んで、そっちの関西弁男」
「おっ、なんやなんや?
このナイスガイに質問かいな?」
「初対面だから今は我慢するけども、その調子で騒ぎ続けたら容赦なくぶん殴るから。
覚えておいてくれると助かる」
「いやいや助かるって、どんなシチュエーションやねんな、それ」
「主に、警察の事情聴取か裁判の時だな」
質問があったので春輝が具体的に答えてやると、流石に香取は唇を結んで押し黙った。
冗談で言ったつもりだけど、向こうがどう取るかは勝手なのでわざわざ教えてはやらない。
それに一ミクロンも本気の部分が無かったかと問われれば、その答えはノーだし。




