三話・3
「ちなみにバトラーは重要な役割です。
酒蔵の管理だけでなく様々な雑務にも従事し、他の使用人を使う立場でもあったのですから。
特にディナーの席では食卓の配膳や装飾、ワインを注ぐなどの気配りと紳士らしい振る舞いが求められるのですから、それなり以上に責任のある役職といえます」
「……なるほど」
「ですが、バトラーよりも上の役職があります。
英語でいえばスチュワード、日本語では家令と呼ばれる役職です。
使用人の中では一番上の存在で、現代人の感覚でいえば、雇われ店長、といった感じですね。
それくらいの権限はあったと言われています。
他にもフットマンやヴァレットなど、家の規模によっていくつかの種類、妥当な人数によって使用人は構成されていました。
女性の使用人も同じく、です」
すらすらと、淀みなくアンチョコを見ることもなく説明する深関の姿は、流石に従育科教師のトップに立つだけはあると思わせるだけの説得力がある。
そんな彼女が、一つ息を入れて……間を置いてから、言い放った。
「そして従育科が目指す執事、メイドとは、それら全てを兼ね揃えた、私的な秘書に近い管理職です。
具体的には使用人の纏め役、そして主人の要望に出来うる限り応え、必要とあらば公私に渡り助言もしなければなりません。
広い知識と教養がなければ心許なく、細かな配慮が出来、健全で強靭な肉体も必要とされるのです」
「……なんだそのハードルの高さ……」
春輝は呆然と言ってしまい、それから胸中でそれも無理ないだろと自己弁護してみる。
だって、深閑が言っていることはつまり、リーダーとしての資質が必要とされて、アドバイザーでもあって、おまけに気が利くボディガードでもあれ、と、そういうことだ。
単に世話役というか、私設秘書みたいなことをするのが執事だと思っていたのに。
大外れではないけど、想像を遥かに越える難易度だ。
しかし、言われた通りの想像をしてみるとなんっつーか、とんでもなくハイスペックだな。
どっかの社長になるとかプロスポーツ選手になる方が簡単なんじゃないかと思うくらいに。
もしかし冗談なのかと思いつつ深閑を見て、悟る。
眼鏡の奧は少しも笑っていない。
あの目は本気な目だ。
あの目のまま『死にたくなかったら靴を舐めなさい』とか言われたら、本職のヤクザでも実行してしまうんじゃないかというくらいに真剣そのもので、堅気の人間とは思えない威圧感がある。
メイド服を着ているのに癒しとは正反対のオーラを放つ教師は、生徒全員を見渡すように視線を這わせ、
「貴方達は現在成長期です。
身体的な意味だけでなく、精神的にもです。
この時期に鍛えられた若人は、世間一般が不可能だとすることでさえ可能とするだけの力を得ることが出来ます。
世界の頂点に立つのは、今、努力する人間です」
冷えた、しかし不思議と誠意が込められていると分かる声が響いた後、プールサイドは静まり返り、生徒全員が息を吞むように張り詰めた空気を纏っている。
ただ、春輝だけが例外だった。
「いや、執事やメイドを目指すのに世界目指してどうすんだ?」
我慢出来ずに突っ込みを入れると、素早く深閑が睨んでくる。
ギン、という効果音が聞こえて来そうなくらいの眼差しで、物凄く怖い。
思わず体を強張らせると、視線を外さぬまま深閑が目を細める。
それが『余計なことを言ったら潰しますよ』と言っているような気がして、体温が二度ばかり下がったような感覚に襲われる。
ゴルゴンの目で見られるとこんな感じかもしれない。
もしかしたらそんな脅迫めいた意図は全然無かったのかもしれないが、逆らえば間違いなく痛い目を見ることだけは確信出来てしまった。
そりゃもう、震えが来るくらい。
刑事さんが不貞不貞しい態度の犯人に向けるような強圧的な視線は数秒続き、いい加減耐え切れそうになくなってとにかく謝ろうかとした矢先、ようやくで深閑の視線は逸れ、もう一度生徒の顔を見回すように動いた。
「以前にも言いましたが、貴方達は将来、主人を決め、仕えることになります。
そしてその時、何が必要になるか分かりません。
ですからこの学園にいる間に出来る限り知識を得て、取れるだけの資格を取り、心身を鍛えておくことが重要になるのです。
仕えるということは即ち、彼の人の傍らに立ち、助力するということです。
いざという時、自らの力の無さを悔いることなど無いよう、教養を身に付け、研鑽を積み、経験を深めるように。
分かりましたか?」
誰も返事はしなかった。
しかし誰もが理解を示したことが、空気で分かる。
冷や汗を掻いていた春輝は少し置いてきばりを食らいつつ……けど、一方では胸の奥で燻っていた部分に火が点いたのも感じる。
かなり無茶苦茶言っている気がするが、この雰囲気は好みだ。
余計なことを考えなくて済む。
集中してとにかく学べば希望する将来への道が開けるというシンプルさが性に合っているし、教える側も真剣だということが伝わってくるのでやる気も上がる。
生徒の総意を確認したように深閑は頷いて、
「それでは少し開始が遅れましたが、授業を開始します」
「……」
もう誰も無駄口を叩いたりはしない。
元々生徒側は春輝しか話していなかったが、他の生徒も耳を傾ける集中具合は段違いになっている。
世界戦を前にした日本代表以上の纏まりで、静かな熱気が溢れんばかりだ。
これ以上はない状態かもしれない。
春輝も背筋を伸ばし、これから深閑の口から伝えられる授業内容をしっかりと最後まで聞き屈けようと意識を集中して……
「本日からの内容ですが、題して『困った時のいん・ざ・ぷーるな初級編』です。
総員、そのままプールに入りなさい」
「なんだそりゃあっっっ!?」
沈黙は不可能だった。
というか、突っ込めと言われたようなもんだ。
数秒前の心地良いやる気の燃焼なんて、去年の残りの花火に火を加けたような燻り方をして消えた。
水を掛けられるとはこのことか。
プールなだけにか。
笑えないっての。
なんでこう突拍子のないことを言い出すのかと深閑の正気を疑いつつ、春輝は勢いのままに質問を飛ばした。
「服を着たままプールに入るって……それとさっさの話と、どう関係あるっつーんだ?!」
「従育科の授業は、座学も実技訓練も制服のままで行うのが基本です。
いざという時、一々着替えてなどいられないでしょう?
示現流の修練にも似たような逸話があります」
確か蘇摩の方にそんな流派の剣術があることやその逸話は春輝も知っているが、それだけで納得出来るはずがない。
なんだ、服着たままプールって。
示現流の開祖は平服での修練を奨励したはずで、『モーニングコートやメイド服を着たままスイミングした方が良いよ』とは言ってないはずだろ。
「つまり、です。
大切な主人がクルーザーから落ちるようなことがあったとしましょう。
テロリストによって船が乗っ取られ、やむなく脱出するシチュエーションでも構いません。
共通するのは一秒を争う事態。
その時に脱衣の暇など無い、ということです。
服を着たまま泳ぎ、安全な場所まで運ぶなり救助を待つなり出来なければ、その時に後悔するのは貴方ですよ」
「いやそんな時来ないだろ普通!?」
「普通でないことが起こる、それが上流社会です。
常織に囚われていては成長は無く、またいざという時に備えてこそ一流の執事、一流のメイドです」
「けどよ」
どう考えてもおかしい授業内容と深閑の説明に、尚も食い下がろうとして……
その時、春輝はようやく気付いた。
眼鏡の向こう、深閑の目は細められ、いつの間にかその手が自分の胸倉を掴もうと伸びていることに。
「さあ……『いざ』という時です」
その言葉に、背に猛烈な悪寒が走り、
次の瞬間、春輝の体はプール目掛けて、高々と放り投げられていた。
んな馬鹿な、と突っ込む暇は、どこにも無かった。




