二話・11
「……最悪だ」
ベッドに俯せになって枕に顔を押しつけたまま、春輝は万感の思いで呟いた。
最悪。
これ以上に適した言葉があるだろうか。
まさか昨日よりも今日の方が厄介な事態になるだなんて、これっぽっちも思っていなかった。
シャワー室にて鳳凰寺が馬乗りになった状態で倉木と都に発見された、あの後……思い出したくないくらい、情けない状態になった。
まず、はしゃいでどうしようもない都の口封じを試みた。
しかし立ち上がろうとすれば素っ裸で有りの儘の自分を見られてしまうため、倉木にタオルを要求。
同性の裸体なんぞ見たくないと思ったようで、熟れた林檎並みの顔色のまま倉木は無言でバスタオルを持って来て投げ渡してくれた。
ついでに蔑み100%の視線もくれた。
それから何とか鳳凰寺を宥め賺して上からどかし、バスタオルで大事なところを隠して都と倉木を説得し、そこでさらに話をややこしくする鳳凰寺マジックに遭い、挙げ句の果てには絶対零度の威圧感を醸し出す従育科責任者の深閑が現れて……
結局、誤解を解くだけでかなりの時間を食った挙げ句、罰としてグラウンドを二十周する羽目になった。
しかも倉木が持ってきていた着替えというのがジャージだったから、この流れは謀られていたんじゃないかと疑いもした。
罰を受ける謂われなんかない、んなもんやってられるか、とは言えず、半ばヤケで走ることにした。
ちなみにグラウンドは陸上競技用の、一周が八百メートルという立派なコースだった。
つまり二十周で十六キロ。
なんかもう、素直に死ねる距離だ。
途中何度もぶっ倒れそうになりながら、よれよれで完走をして……
その頃にはとっぷりと日が暮れていた。
当然、授業には出られなかった。
ついでに夕飯も食い逃した。
ただでさえ昼飯にありつけなかったのに。
「腹減った、けど……食う気しねえ……」
胃がギュルギュルいっているが、今食べれば確実に吐く。
長距離専門の陸上部員でもないのにいきなり十六キロも走ったんだから当然だ。
完走出来たのが不思議なくらいで、妙な充実感がほんのりとある。
「……んなことで充実感を覚えてどうするんだ、俺よ」
自分への突っ込みも弱々しい。
元気はどこまでも絞りつくされている。
それにしても、その理由が罰を受けたからっていうのが虚しすぎだ。
今日は転校初日で、記念すべき初授業だったのに。
執事への第一歩だったはずなのに。
千里の道も一歩から、とはいうが、だからといってマジで長距離走ってどうするんだ。
思い返せばその分だけ鬱になれそうな記憶に押し潰されそうになる。
「……あー……何やってんだ、本気で……こんな……こんなことの為に……」
せめて少しでも発散しようとしているのか、単に弱気になっているだけなのか、自然と口からぼやきが漏れた。
「……昨日があれで……今日が、これで……」
泣き言だし、格好悪いし、んなこと言っても何の意味もない。
「なんだろ……向いてない、とかそういうレベルの話でもない、し……」
それでも呟いていると、何となく気持ちが落ち着いて……
「うるさい。
静かにしろ、変質者」
隣。
ベッドとベッドの間にあるカーテン越しに、倉木の険しい声が舌打ち混じりで聞こえて来た。
いくら何でも傷ついているルームメイトにそれはないだろ、と思いながら、春輝は、
「すみません」
反射的に、勢い無く謝罪してしまう。
いつものように反論する気力なんか、一ミリも残ってない。
俯せのまま両腕で枕を抱くようにしながら、春輝は思った。
というか、理解した。
負け犬って、こういうことをいうんだなぁ……と。
涙の気配が込み上げてきて、もうこのまま泣き寝入りしてしまおうかと目を閉じる。
心の安寧は、最早このベッドの中にしか……
「湯浴みもせずに寝る気か。
不埒で、不潔で、変質者で、こんな男と一緒に暮らさないといけないなんて」
「……すみません風呂行ってきます……」
なんだかもう本格的に泣きたくなりながら、春輝は体を起こした。
どうやらこの学院に安らげる場所はどこにもないと、今更のように悟る。
俺は一体、何をしにここに入ったんだろう。
というのは、たぶん今一番考えてはいけないことだと思いながら、のろのろとした動きで春輝はベッドから降りて、大浴場に行くべく歩き出す。
風呂に入って、それからゆっくり寝て……そうして起きた時、この陰鬱な気持ちが綺麗さっぱり無くなっていることを願う。
それと、明日は少しでも執事になる為っぽいことを学べるように……とも。
ちなみに、翌日。
その願いは叶うことになった。
ただし、やっぱり平穏は品切れのままだったが。




