一話・19
「……居ません、ね」
「本当……確かに話し声がしたと思ったのだけれど」
「勘違いでしたのかもしれませんわね」
上の方から口々に言い合う声が聞こえて来て、かなり居心地悪い。
まあ、それも当然。
茂みの中でこっそり息を潜め隠れて聞いている状況で居心地が良かったらそれはかなりハイレベルの変態だ。
「変質者、変質者はどこに行きましたの?!」
タイミング良くどこからか聞こえて来たその声に、『いやだから変質者じゃねえよ!』と言い返す。
ただし、心の中で。
実際に発声出来ない現状に、春輝は奥歯を強く噛みしめた。
心の叫びに説得力がないのは充分に承知しているけど、物凄く歯痒い。
もういっそ本当に叫んでしまいたい。
けど、ここで叫ベる程馬鹿でも大物でもないつもりなので、惨めに四つん這いのまま耐えるしかないが。
その後も次々と、あちこちから、
「あの痴漢一刻も早く!」
「警備部に連絡を入れて!」
「ああ、何ということ!」
いくつもの声が見えない槍となって背中に突き刺さり、いちいち怒鳴り返してやりたくなる。
でも、んなこと出来るはずがない。
茂みの中で少女を押し倒している構図は、たぶん、自分が思っている以上に外から見たらヤバいものだ。
発見されたらえらいことになる。
咄嗟に少女を抱き抱えて茂みの中に身を潜めたものの、決してここも安全な場所じゃない。
調べられれば一発だ。
その場で取っ捕まって新たな冤罪を加えられるよりはマシだったが、代償として身動きは取れず、少女はまだ目覚める気配は無く、さらに追っ手らしき声はどんどん増えやがる。
生徒総数は少なくてしかも日曜日だっていうのに、どれだけの数が忌まわしき不審者への憎悪を燃やしているのか。
本当は少人数なのかもしれないが、とてもじゃないが楽観出来ない心境なので、どんどん敵の数が増えているような感覚に襲われる。
もしもこの状態で見つかればどんな扱いを受けるだろう?
その間、脚色無しの言い分を、果たして信じて貰えるか?
しかも女の子を押し倒す形になったのは本日二度目。
……どう考えても悲惨な結果しか思い浮かばず、身を潜めて状況を窺うことしか出来ない。
なんっつーか、情けなさすぎだ。
「……くそっ、なんだってこんな目に遭うんだ……!?」
堪えきれずに口の中で吐き捨てるように呟いて、それから周囲の気配を探る。
すぐ近くには誰もいないが、少し離れた所を駆ける足音が間断なく聞こえて来て、まだしばらく隠れ続けなければいけないことを教えてくれた。
一体、いつまで茂みの中で四つん這いで、幼い少女に覆い被さるような状態でいなければならないのか。
手足は痺れ始めたし、背筋も辛くなってきた。
葉の青臭い匂いにもうんざりだ。
これで虫が出て来たらギブするかもしれない。
現実の辛さに、春輝は思わずため息を漏らし……それがまずかった。
「……ぅ、うー……」
文字通り目と鼻の先に顔のある少女が、目を閉じたままで呻き声を上げた。
どうして、と思った矢先、すぐに気付く。
ため息だ。
息がこそばゆかったのが原因に違いない。
そう理解すると同時に、
「今っ、そこの茂みから声がしましてよ!」
無情にも居場所を知られたことを示す、甲高い声が聞こえて来た。
声には聞き覚えがあり、脳裏に金色に輝くドリルが思い浮かぶ。
あれに違いない。
逃げるべきか、それとも黙ってやり過ごすべきか……
迷うことが出来た幸福な時間は、次の声が聞こえて来るまでの数秒だけだった。
「楊さん、一思いにお願いしますわ!」
「我明白了。
いきマス」
先の声主の指示に誰かが応じた、刹那。
「……っ!?」
首筋から脊髄にかけて猛烈な寒気が走る。
それは例えるならば、駅の階段の最上段で足を滑らせてしまった時、一瞬後に自分が辿る悲惨な運命を想像してしまう、死すら範疇にある大怪我を目の前にしたような、絶望的な焦燥だった。
やばっ、と思った瞬間、春輝の体はもう動き出していた。
気絶したままの少女を抱えて茂みから横っ飛びに飛び出す。
木の枝が手足にぶつかり鼻先を葉が擦るのも気にせず、濃緑の暗がりから陽光の下へと転がり出た。
それから一秒と間を置かず、風切り音、同時に視界の橋で葉と枝が舞う。
「やはり居ましたねっ!?
楊さん、逃がしてはなりません!」
ヒステリックな声を背を受け、眩しさを堪えながら既に駆け出していた春輝は足を止めずに素早く振り返った。




