一話・16
そこへさらに嬉し恥ずかしの不幸なアクシデントが重なり、それによる当然の悲鳴がオレリアの口から響き渡って、その結果……
春輝は、脱兎の如く逃げ出していた。
頭の中ではどこかに残っていたらしい冷静な自分が騒いでいる。
待て、何を逃げているんだお前は。
そこは謝るところであって逃げるところじゃないはずだろ。
事故なんだから話せば分かるだろうし、逃げたりしたら余計に怪しいだろうが。
疾しいことないんなら申し開きすればいいことだし、むしろこっちは礼を言われるべきなんだから堂々としていればいいんだ、と、喧しいくらいに正論で訴えている。
しかし、だ。
目の前で鼓膜に突き刺さるような悲鳴をあげられて冷静でいられる男なんかいるかっつーの。
実体験してしまった今は言い切れる。
そりゃあ痴漢扱いされたら冤罪でも逃げるって。
今は物後く、濡れ衣着せられて逃げ出す人の気持ちが理解出来る。
こんな道程での理解なんて、出来れば一生至りたくなかったけど。
ぐるりと角を曲がって本校舎の裏側へと回ると、並行に建てられた本校舎と第二校舎との間の道へと出る。
大型トラック二台が優にすれ違えそうな広い幅の道で、両サイドにはいくつもの彫刻やオブジェが並んでいた。
しかしゆっくりと見物している場合じゃない。
ほとぼりが冷めるまでどこかに避難しないと、先程の悲鳴に反応して人が集まれば流石に厄介なことになる。
「となると……職員室か」
都合の良いことに、職員室は第二校舎の中だ。
構内見学は中止して職員室に避難、簡潔に事情を説明して教師の口から誤解だと説明して貰うのが一番いい。
見知らぬ不審者が何を言っても聞いてくれないのはよく分かった。
そう判断して、第二校舎の中央にある昇降口を目指し……
「お待ちなさい、この変質者っ!」
後ろの方から聞こえて来たその声に、春輝は足を止めずに振り返る。
ついさっき自分が曲がった本校舎の角。
そこにオレリアの姿は無い。
しかし、分かる。
あのドリル女は追って来ていると、確信がある。
足音が聞こえるわけでもなければ、気配を察知するような裏技めいた技術もない。
ただ声がしただけだ。
しかし何故か、あと十数秒であの角から怒りに染まったオレリアが姿を現すのが、決定された未来のように見えている気がする。
それはもう棲い勢いで、発見次第コロスと言わんばかりの表情をしているのが。
まずい。
あの女に見つかれば騒ぎが酷くなると、ざわつく肌がそう告げている。
第六感や虫の知らせなんて信じていなかったけど、今ばかりは自分の直感が告げている判断が正しいと信じる。
『信じる者は救われる』っていうし。
前へ向き直り、春輝は加速する。
一刻も早く第二枚舎へと入り職員室に逃げ込まなければ、どんな展開になるか分かったもんじゃない。
焦る気特ちのままに、ギリシア建築を連想させる白い柱に挟まれた昇降口を駆け上がり、そこに人影があることに気付いた。
「うぉっ……!?」
中から出て来た制服姿の少女と鉢合わせてぶつかりそうになり、慌てて急停止。
たたらを踏むようにしながらも何とかぶつかる直前で止まることに成功し、ホッと胸を撫で下ろした。
しかし落ち着いていられる状況じゃない。
急がなければ奴が来る。
だから謝罪だけしてその場を後にしようと、驚いた様子の女生徒の目を見て、
「……ふぅ」
倒れられた。
貧血でも起こしたのか彼女は左手を額に当てるようにして、まるで天井から吊っていた糸が切れたかのように、ぐんにゃりと。
何もしていないのに、何があった訳でもないのに、倒れた。
突然のことで、抱き留める暇すらなかった。
目の前で起こったこの事態に、春輝は状況が分からず狼狽えしまう。
「ど、どうする……!?
とりあえず頭は打ってないから、急病ならすぐに保健室に運んで……いや保健室ってどこだ?!
誰かに……」
訊く相手を探して素早く辺りを見回して、いた。
タイミング良く、本校舎の昇降口から私服姿の女生徒が出て来るのが見えた。
良かったと、春輝は思わず安堵の息を漏らす。
これこそ天の助けた。
神様に嫌われまくっているんじゃないかと思うくらいろくなことがなかったが、ここにきてようやく運勢が上向きになったらしい。
急いで駆け寄ると、足音が届いたのか彼女の方もすぐに春輝に気付き……
保健室はどこにあるかと、尋ねる前に。
「……ふぅ」
バタリ、と。
あっさりと、彼女も倒れてしまつた。
「……なんで?」
二人目となると驚きはするがそれ以上に唖然とし、呆然と呟いてしまう。
何かした覚えはない。
これっぽっちもない。
声を掛ける間さえなく、ばたんきゅーと倒れられてしまったのだ。
ただ目が合って、顔を見ただけで……
……まさか。
ふっ……と、ある可能性が過った瞬間、自動的に頭の中で食堂での朱音の発言が思い出された。
『あなたって見た目不良っぽいでしょ。
男ってだけで過剰反応されておかしくないんだから、当然といえば当然よ』
……まさか、
「……俺が怖くて、気絶した……?」
呟いて、春輝は半笑いになった。
馬鹿馬鹿しい。
なんだその現実味のない仮説は。
単に男と顔を合わせただけで怖くて気絶だなんて、そんな、アホ臭い。
茶髪で、耳にいくつか安ピン刺して、左瞼の上にちょっと切り傷があって、それでいてほんの少し目つきが悪いだけなのに、そんなことがあるわけが……あるわけが……あるわけで……
……それ以外に、考えられなかった。
「見つけましたわよ、この……ッ?!」
絶望的なショックを受けているところに聞こえて来たのは、オレリアの声。
鼓膜に響く甲高い声に、春輝はつい振り向いて……ぎくりと、背筋を強張らせた。
まずい。
今気付いたけど、この状況は本気でまずい。
すぐ近くには、倒れて気絶している女生徒が二人。
見つかった相手は、勘違いの激しいお嬢様。
しかも事故とはいえ、彼女の胸を触ってしまった直後。
これは……とてもヤバい。
そしてその予想を裏付けるかのように、走ったせいか息を弾ませたオレリアの目は大きく見開いた後、怨敵を前にしたように険しいものへと変わる。
ちょっと待て言いたいことは分かる分かるけど落ち着いて俺の話を聞いてくれそうすれば分かるきっと理解して貰えるはずだからまずは深呼吸をして……って、無理か。
言い訳してもこの状況はどうにもならないと即座に判断。
春輝は顔色を真っ青にして、くるりと身を飜し、
「待ちなさいこの性犯罪者っ!
何人のか弱き乙女を毒牙にかける気ですの?!」
「そんな気ねぇよっ!!」
そこだけはちやんと否定して、再び逃走。
通路を塞ぐようにして倒れている女生徒を跨ぐような真似はどうかと思い踏躇ってしまったので、校舎への突入は果たせず。
傷心を抱えたまま外を駆け回ることになってしまった。
「このっ、痴漢!
変質者!
強姦!」
おまけに、背後からは馬声が聞こえてくるし。
倒れた二人とは違い、元気一杯だ。
どうやらあのドリルは特別らしいが、そんな特別はいらない。
普通が良いです。
倒れられるのも追いかけ回されるのも勘弁してください。
少し泣きそうになって心の中で身の潔白を叫びつつ、春輝は逃げ続けた。




