八話・22
「ですから、仮にも命に関わる事故から助けられておいて、謝礼の一つもしないなどということは有り得ませんわ。
お父様やお祖父様が知ったら絶縁ものですわよ」
「絶縁て」
「冗談でも誇張でもありませんわ。
ですから、」
言葉を途中で止めると、オレリアは、
腰を折るようにして、頭を下げた。
舞台でも見られないような、優雅な仕種で。
「溺れていた私を助けて頂いて、ありがとうございました。
この恩はグランヴィルの名において、必ず返しますわ。
後で、などと言いません。
今すぐにですわ」
「……お、おお」
「とはいえ、どうしたものか困りものですわね。
うちの使用人ならば賞与を与え、そうでなければ謝礼の品を贈呈するところなのですけど」
幾分か雰囲気は和らいだものの、オレリアは本当に悩んでいるようで僅かにだけど眉間に皺が寄っていた。
しかし春輝としても、下手な物を贈られても困る。
そりゃもう困る。
でかい仏像とか条約に触れそうなペットとか寄越された日にはたぶん寮から追い出されるし。
宝石とか価値ある骨董品とか貰っても全然嬉しいとは思えないし。
売っていいなら別だけど、いや、貰い物を売るなんて出来ないな、これも却下。
とはいえ、現金を貰うっていうのは違うし……確かにこれは悩むな。
春輝も腕組みをして小さく唸って、
「俺は別に謝礼なんて要らないけど……それだとお前は納得出来ないんだよな?」
「当然ですわよ。
一方的なのは好きではありませんもの」
「ん、となると……後に残る物は極力遠慮したい。
出来ればサクッと、手軽に済ませられるようなことでいいんだけど」
そう言いながら春輝は頭の中で、『三十分肩を揉め』とか『その立派なドリルを使って一発芸を』とか、後腐れが無くて微妙に笑えそうな提案を考え、
「分かりましたわ」
「……へ?」
決意したような声に、春輝は落ちていた視線を上げて、
すぐ目の前に迫っていたオレリアの華麗な容姿に息を呑み、
左の頬に掌が触れて、
碧色の瞳と仄かに紅くなった白い頰に気を取られている内に、それは終わった。
そっと頬に触れて離れた柔らかな感触は、目を閉じていればなんだろうと迷うところだけど……バッチリ目を開けていたので、何が起きたかは分かっている。
不意を突くようなタイミングで近付いて来たオレリアが、軽く頬に……
「……その、勘違いしないで貰いたいものですわ!
昔から栄誉ある騎士は女王陛下からキスを賜るという、伝統があるんですのよっ。
それに則っただけですわよ!」
いきなりやられた挙げ句に逆ギレ気味に捲し立てられて、春輝は混乱しそうになる。
普通に考えればキレ返してもいいよーな気もするけど、そんなことより自分の身に起きたことが現実なのかと疑わしくて、まだ微かに感触が残っている頰に指を這わせた。
その瞬間、自分がしたことを思い出したのか、オレリアが一気に顔を赤らめて、
「とにかくっ、礼は済みましたわよ!
私はもう寝ますから!」
喧嘩腰に近い雰囲気のまま、オレリアはぷいと腫を返して、テラスから去って行った。
春輝は呆然とそれを見届け……
後ろ姿か見えなくなってからどれだけ経ったか分からないくらいの時間を置いて、呟いた。
「……マジで?」
今のは本気で現実なのかと、自分に問いかけてみる。
手っ取り早くて古典的な頬を抓るという手段を試みると……痛い。
かなり痛い。
つまりあれは、現実か。
あのオレリアが、自分の頬に、その、キ……
「……うっわ……ちょっ……これ、ヤバい……」
ばっくばっくと高鳴る心臓を抑えつけるようにしながら、その場にしゃがみ込む。
ヤバイ。
これは、本当にヤバイかもしれない。
末期からしれない。
今までうっかり胸を触ってしまったり、抱き倒したりするようなことがあったけど、それでもここまで動揺はしなかつた。
だって、あれとかそれとかは全部事故か、やむを得ないのでそーいうことになってしまっただけであって……
対して、今のは、謝礼だとはいえ、伝統らしいけれど、どうであろうとオレリアが自発的にやったことに変わりはなくて。
たぶん、オレリアのヤツは気付いていない。
自分がどれくらいとんでもないことをしたのか、気付いていない。
春輝は気付いているからこそ、深く深く息を吐いて、
「……明日、どんな面して顔合わせりゃいいんだ……?」
ここがラベールブロンシュじゃなくて、今は試験中で逃げることが出来ないという状況に、頭を抱えた。
とりあえず。
ただでさえ遠巻きにあった眠気は、見事地平の彼方に吹っ飛ばされている。
これは、眠らずに苦悶する羽目になりそうだった。




