八話・20
大丈夫のはずだ。
授業の時は、洗濯機並みの奔流の中で泳がされた。
授業の時は、制服を着たまま頗る泳ぎづらい状態での訓練だった。
それに比べれば波は穏やかなものだし、自分も相手も水着姿で無駄な重りも抵抗もない。
だから、絶対に大丈夫……!
春輝はそう信じて、奥歯を噛み締めながら必死になって泳いで……
「ねえ、春輝っ!?」
切羽詰まった朱音の声が聞こえた時、爪先に砂の感触があった。
「っし……!」
待ち侘びていた足場に、春輝はオレリアの体を両腕で抱えたまま立ち上がる。
もう水面は腰より少し高いくらいまでしか無かった。
水面から上がったことで抱えているオレリアの体は重さを増すけど、関係ない。
氷嚢を背負って完全に溶けるまで走らされた時に比べれば、全然軽い。
秋春が流れる砂に足を取られないように注意しながら浜へ上がると、珍しく焦った表情の朱音が近寄って来た。
不安そうなこいつの顔を見ると、逆に落ち着く。
自分が何とかしなければ、って覚悟が出来上がる。
「グランヴィルさんはっ」
「大丈夫だから落ち着け。
まずは寝かせて……」
波が来ない位置まで運んで、慎重に寝かせる。
そうしてから春輝はオレリアの額と顎に手を当てて、上を向かせるようにして顎先を上げ頭を後ろへと反らした。
これで気道確保は完了……のはず。
ええと次は、確か人工呼吸の前にするべきことが、
「……ぅ、ん……」
「お、オレリアっ!
おいっ、大丈夫か?!」
焦っていたところに小さく呻く声がして、春輝は慌ててオレリアへと声を掛けた。
返事は無いけど、意識がないだけで呼吸はちゃんとしているし、胸も上下している。
溺れていた時間もそう長くないし、水の飲み過ぎで死ぬこともないはずだ。
「大丈夫だな」
呟いて、春輝は尻餅をつくような感じで座り入り込んだ。
やれやれだ、どうなることかと思った。
まさか水難救助をする羽目になるなんて。
あと、あの無駄にアクロバティックな授業が役に立つ日が来るなんて。
「春輝っ……グランヴィルさんは……」
「おぅ、大丈夫だ。
たぶんすぐに意識も戻るだろうし」
慌てた風に近寄ってきた朱音も、察したように表情を緩めた。
勝負中に相手が事故ったんたからやっぱこいつでも心穏やかじゃいられなかったらしい。
ともあれ、これで一安心……
「のんびりしている場合じゃないですよ、春輝くん!」
「……へ?」
息を吐こうとしていたところを、何故か窘められた。
しかもどーいうわけか、優等生口調で。
両手を胸に当てた朱音は、いかにも『わたし、凄く必死なんです!』と言わんばかりの様子で、どえらいことを口にした。
「何をしているんですか!
一刻も早く、グランヴィルさんに人工呼吸を!」
「な……え?
いやお前、そんな必要は……」
「溺れて意識を失った人に人工呼吸をするのは常識ですよ!
だからほら、すぐにキス……じゃなくて、人工呼吸を」
「んな常識ねえよ!
つーかお前、今わざと言い間違えなかったか!?」
「そんなわけありません。
人命がかかっているんです、ふざける訳がないじゃないですか!
だからほら、早くグランヴィルさんに人工呼吸を!
それからその豊かに育った胸を揉みしだくようにして心臓マッサージをしないとっ」
「揉っ……やらねえよ馬鹿!
んなことしたら確実に訴えられて社会的に終わりを迎える羽目になるっつーの!」
恥ずかしさを堪えながら春輝が怒鳴り返すと、朱音はもう絶好調の活き活きとした笑顔で、
「今大事なのは人命です!
一刻も早く、唇と唇を重ね合わせて吐息を送り込まないといけないんですよ!
さっさとむちゅーっとやっちゃってください」
「だから必要ねえんだよ!
つーか、んなこと言うならお前がやれよ!?」
「わたしは手ほどきを受けたことがないですから、経験者の方が安全です!
ほら早く、グランヴィルさんが起きる前に!」
「起きるんだったら解決してるじゃねえか!」
支離滅裂に『とにかくやれ』と押し続ける朱音に、春輝は煩悩を振り払いながらの徹底抗戦。
なんかもう頭の悪すぎるやり取りは、結局倉木が戻ってくるのとほぼ同タイミングでオレリアが目を覚ますまで続いてしまった。




