八話・7
場所が熱海でパートナーが勘違いしまくりということを除けば、グランヴィル家の見学は春輝にとってそれなりに面白いものだった。
出迎えてくれたアンナはハウスメイドの役割だそうで、掃除や洗濯が主な仕事だと教えられた。
実際に窓拭きをしたり洗濯物を干したりする場面を見せて貰いながら話をきくと、量的にはさほどでもないけど、質はかなりのものを求められるのだとか。
……それはいいけど男の前でお嬢様の下着を干すのはどうなんだろうな?
ちなみに使用人の寝泊まりは邸宅のすぐ裏にある長方形の小さな建物でしているらしい。
まあ小さいと言っても納戸を含めて六部屋あるんだから、かなり整った環境だろうけど。
一応は試験なんだし真面目に見学をして、それでいて仕事の邪魔にならないようにと気を配っていると、時間はあっという間に過ぎて、気が付けば日が沈んでいた。
「で、ようやく起きてきたと思えばこれかよ?」
春輝に宛がわれた部屋を夕食の席にも出て来なかったオレリアが訪れたのは、もう九時になろうかという時刻だった。
もう高校生なんだからこのくらいなら大して夜遅いとは思わないけど、少し気まずいのでそんな言葉が出る。
部屋に来る前に風呂に入ったらしくて、上気したように頰は赤らんでいていつもより肌が艶々してるし、シャンプーだか香水だか知らないけどなんかいい匂いがするし落ち着かない。
けど、どうして風呂上がりで髪もやや湿っているように見えるのに、相変わらずのドリルスタイルなんだろーか。
濡れた髪でよくもまああんなにくるくると巻けるもんだ。
……ともかく、復活して部屋に来たオレリアが手にしているのはチェス盤で、敵意丸出しで睨まれたとあればどういう展開なのかはすぐに分かる。
つまり、これは、
「リベンジですわ!」
そういうことらしかった。
「前回は最後に勝利を手中にしましたけど、それまでの敗北が消えたわけではありませんもの。
このままではグランヴィル家の……いいえ、英国人の血を引く者としての恥ですわ!」
「そこまで?」
「当初の予定は果たせなくなりましたけど、その分もここで挽回してみせますわ。
ええそうですわ、見事勝ち越してみせますわよっ!」
夜の温泉地でチェス盤を手にしてここまで燃えているのはこいつくらいだろうなー、と他人事のように思いながら、春輝は腰掛けていたべッドの上から立ち上がる。
「分かった分かった、いいから下に降りるぞ。
ここだとテーブルも無いし、使用人の人達にいらん誤解させてもつまらないだろ」
「フン、我が家の使用人を見くびらないで貰いたいですわね。
一番年の若いアンナでもそのような下賤な真似はしませんわよ」
自言満々にオレリアがそう言うのとほぼ同時に。
ドアの向こうから、パタパタと慌てた風に遠ざかっていく足音が。
「……」
「……」
……うん、とても気まずい。
オレリアの奴もバッチリ聞こえたみたいで口端がほんの少し引きつってるし。
ここは思う存分突いてからかってやるべきかと、春輝は口を開いて苦笑だけに留めることにした。
オレリアを弄るのはいいけど、こつそりドアに張り付いていたアンナが後で怒られるのは可哀相だし、人の家に来てまで面子を潰すような真似をするのは良くないし。
なのでオレリアが持っていたチェス盤を奪う形で受け取り、盤の表面をポンと軽く掌で叩いて、
「んじゃ、勝負といくか。
手加減無しでいいんだろ?」
「っ……ええ、当然ですわ。
勝つのは私ですのに、後で言い訳にされたらたまりませんもの」
ほんの数秒だけホッとしたように表情を緩めたけど、すぐにオレリアは自信たっぷりの『らしい』態度に戻った。
春輝も挑戦的に笑ってそれに応え、内心ではもう一度苦笑する。
なんだかんだでこんなやり取りを楽しんでいるんだから、だいぶこいつに毒されているんだなぁ……と思いながら、チェス盤を持ち直した。
で、約一時間後。
「これで終わり、な」
予定通りにビショップを移動させて春輝が今日四回目の詰み宣言をすると、空腹な鳩が横倒れになって絞り出したような呻き声が聞こえて来た。
……本当は蛙が挽き潰された声って感じだったけど、武士の情けで控えめな連想に置き換えておく。
移動した応接室はエアコンが程良く効いていて、冷たいジャスミンティーも喉越し爽やかでとても美味しくて文句無し。
豪華な黒革のソファにゆったりと背を預けて上流階級の満ち足りた生活に身を浸しながら、春輝は向かいに座っている敗者の姿を目に焼き付けた。
盤面を凝視したままふるふると肩を震わせて、ギュッと握り締めた拳を膝の上に載せて、唇を嚙み締め白い頰を赤くして……
「まだっ!
まだ終わってませんわよっ?!」
「いんや、終わり。
確かにまだ詰んでないけど、あと二手でチェックメイトだから。
どう心掻いても俺がミスらない限り、お前の負けは確定だ」
もう夜も更けているっていうのに大声で叫ぶオレリアに、春輝は改めて現実を教えてやる。
悔しげに盤面を見続けているけど、こいつもたぶん理解している。
この状況から逆転の手なんて見つかるわけが無いし、万が一そんな鬼手を指せるんならここまであっさり負け続けることもないはずだし。
「クィーンを取られまいと慌てたのが敗因だな。
あと将棋もそうだけど、一番地味で数が多い兵隊を上手く使わないと中級者にはなれないぞ」
「う、くっ……え、偉そうに……っ!」
ぐっと顎を引いたままじとっとした視線をこっちに向けてくる敗者に、春輝は黒のポーンを弄びながら講評めいたことを述べてみた。
自分だって上級者じゃないし偉そうな口を利ける程強くもないけど、こう何回もやればオレリアよりは数段強いっていうのは自惚れでなく言い切れる。
ただ、オレリアの方も前回に比べると少し強くなっていた。
たぶん負けまくったのが悔しくて本を読んで勉強したんだろうなぁ。
自分も父親にまるで歯が立たなくて怖しかった時、学校の図書室や町の図書館でその手の本を借り漁って頑張ったことがあるし。
それでも前回同様にこっちが勝ちまくっているのは、オレリアが常に攻めを意識しているので次の手が分かりやすいのと、何年かのブランクで鈍っていた腕が段々と戻ってきたからだ。
指している内に『この局面ではこうすると良かったんだよなぁ』とか思い出したりして、ちょっと懐かしくもある。
「もうちよっと相手の出方を見るってことも覚えろよ。
攻め方の筋はいいけど、狙われる立場でもあるって自覚ないだろ」
「戦いは攻めてこそ勝利を手にすることが出来るのだから当然ですわよっ!」
「いやだからその攻めを凌がれたときのことをだな。
将棋と違って相手の駒を再利用出来る訳でもないし、駄目そうなら引き分け狙いにするっていうのも有りなんだぞ?」
「そんな惰弱なことをっ……」
惰弱とか言うか。
たかがチェスで、ボードゲームで惰弱って。
どこまでも気性の激しい女だなあと再認識しつつ、春輝は手の中で転がしていたポーンをチェス盤の横に置いて、
「それで、まだやんのか?」
「やるに決まっているでしょう!」
「けど、もう十時過ぎたぞ?
それにこう言っちゃあれだけど、ガチの勝負なら俺の勝ちはまず動かないし。
ルークとナイトを一つずつ落とすか?」
「そんなあからさまなハンデなんて要りませんわよっ!
それにこの勝負も、まだ活路がどこかにあるかもっ」
良かれと思っての提案に、半ば予測はしていたけどオレリアはぶちギレ気味に文句を言って、さらに盤面を凝視し始めた。
なんっつーか、 サイコな力で駒を動かそうと念じているのかと思うくらい目に力が入っていてとても怖い。
どうしたもんだかな、と対応に困って春輝は息を漏らし……




