八話・1
『何でも一つ言うことを聞く、でしたわね。
楽しみにしているといいですわ』
傲慢な勝者の笑みでそう言って、オレリア・紫苑・グランヴィルは目の前から去って行った。
勝負をして『勝った方は負けた方に何でも一つ言うことをきかせられる』という、罰ゲームとしては割とよくある、しかし相手を間違えると悲惨なことになってちっとも笑えなくなること請け合いのこの内容。
そして、案の定というか、ちっとも笑えないことになっていた。
「フフッ……さあっ、女王様からの命令ですわよ!」
ビシィッ、と音を立てて両手で持った鞭を撓らせたオレリアは、なんかもう絶好調だ。
赤の際どいボンテージファッションに身を包んで、悪の女性幹部って感じの出で立ちをしている。
そして屈辱に震えながら跪いている自分へ見せつけるように、ついっ、とハイヒールを脱いだ右足を持ち上げて、
「私にひれ伏し屈従する証として、足を舐めるのですわ。
そう、犬のように尻尾を振って、高貴なる人間の肌に触れる喜びを露わにして!」
「そ、そんなこと出来るわけないだろうがっ!」
当然だけど拒否すれば、オレリアは妖しく瞳を光らせて笑い、
「負け犬には相応しい行為ではなくて?
それと貴方、約束を違えるつもりですの?
普段偉そうな口を利いている癖に自分から言い出したことを平然と破るだなんて……所詮は唾棄すべき下賤な民ということですわね!」
「んだとぉっ!?
従育科でも魂レベルではお前等にだって劣るつもりはねえぞ!」
「ならば男に二言はないと言うことを身をもって証明なさいな!
さあっ、私の前に跪いて頭を垂れて爪先から丹念に舐め上げればいいですわ!」
「ぐっ……くぅ……!」
「あら、どうしまして?
別に難しい注文ではないはずですわよ。
いつまで時間をかけるつもりですの?」
屈辱に身を震わせながら、プライドを守る為にプライドを捨てて身を屈め、突き出された足に爆弾処理するような気持ちで手を添えた。
「フッ……フフッ、いい様ですわ!
貴方、低い位置にいるのがお似合いですわよ!」
「っ……くそぉ……」
「いい気味ですわ……ッ……フフ……流石は犬のように仕える身ですわね。
人の足を舐める才能があるようですわよ?
どうせなら一生そのまま」
「……いやなんだろうな、足を舐める才能って」
意味が分からない展開になってしまったので、春輝は自分に突っ込みを入れてだらだらと続いていた現実逃避を終わらせる。
この暑さと荷物の重さを忘れられるんなら、と思って心頭滅却を試みたけど、どうやら色々と設定を間違えた臭かった。
ボンテージに鞭って段階でおかしかったかもだ。
現状よりもさらに悪い状況を想像すれば今の自分がまだマシな境遇にいると思い込めるかと考えてのトライだったけど……うん、浅はかだった。
キツい状況下で悪夢のような想像をしたら、えらい方向に蛇行して本気で意味不明な展開になるだけだと、計らずも証明してしまったらしい。
うんざりしながら、春輝は伏せていた顔を上げて、
「……うおぁー……」
夏に染められた風景に、目眩を起こしそうになった。
青々とした高い空では太陽が眩しすぎるくらい輝いている。
その光を反射しながら波打っているのは、更に深い青色の海。
誰もいない砂浜も心なしか輝いているように見えて、すぐにでも足を踏み入れたくなる。
灼熱のような暑さが、温い潮風が、全てが夏をアピールしている。
「……死ぬ。
蒸されて、死ぬ……」
ぐったりと肩を落として、ガードレールにもたれ掛かるように肘を置く。
思わず愚痴が溢れたけど、それも仕方ないはずだ。
青い空。
広がる海。
肌を焼くような暑さ。
……だっていうのに、何でまた立て襟シャツのボタンを全部留めて、上はモーニングコート下はスラックスの従育科ファッションでいなきゃいけないんだ。
そして誰がこんな状態で爽やかに笑えるっていうんだ。
夏の陽射しは殺人的って言うけど、上下黒の長袖っていうのは本気で死ぬ……いくら通気性が良かろうと着心地が良かろうと、この温度の前では無意味だっての。
これは絶対にシャツを通り越して上着にまで汗が染み込んでいるに違いない。
地獄のような暑さで、潮風はただでさえ汗塗れの顔を撫でて神経に触るし、しかも両手には重い荷物がぶら下がっていて……
「ちょっと、いつまで休んでいるつもりですの!」
おまけに、甲高い声が責め立ててくる、と。
なんだこの不快指数の高さは。
春輝がうんざりと顔を上げれは、腰に手を当てたオレリアが傲然とこちらを見下ろしていた。
坂道なので仕方ないけど、この構図はなんかむかつく。
白いサマードレスが涼しげなのも、両手がフリーっていうのも、あと相変わらずぐるぐるドリルな髪型が暑苦しいのも、もう全部が全部腹の底をむかっとさせてくれやがる。
あーくそ、どんな拷問なんだろうなこれ。
「そもそもお前が歩きたいって言うからこんな疲れる羽目になったんだろ。
タクシー使えよ、金持ちなんだから!」
「フン、情緒というものが分からない男ですわね。
久しぶりにこの辺りを見て回りたかっだんですから、歩くのが当然ですわ。
それに使うのならタクシーではなく我が家のハイヤーを用意させますわよ」
「なら今からでも呼べよハイヤーを!
それが嫌なら荷物を少し持ちやがれっていうか殆どお前の荷物なんだから自分で持てよっ!」
「これも研修の一部ですわ……フフ」
尤もらしいことを言いながら、口元の笑みはどう見ても愉悦のそれだ。
こっちが逆らえない立場だと理解しているからこそ、優位な自分に浸っているに違いない。
さっきは妄想の中で足を舐めろとか言い出すし、どれだけ根性曲がっていやがるこのドリル。
「……あー、くそっ」
こんな暑いのに汗一つ搔いていないオレリアを忌々しく睨み付けて、春輝は気合いを入れてガードレールから身を離す。
ここで愚痴っている間も体力は奪われるし、汗も止まらない。
こうなったら不満を飲み込んで我が儘ドリルに従い、一刻も早く目的地に辿り着こう。
それが正解、精神的優位に立つ大人の態度ってヤツだよ、うん。
一歩踏み出しただけで体を襲う怠さにくじけそうになるけど、こっちを見ているオレリアにこれ以上笑われるのは癪なので態度に出さない。
春輝は奥歯を噛んで、自分を叱咤しながら足を進めた。
オレリアは当然のように頷いて、くるりとこちらに背を向けてさっさと歩き出す。
肩甲骨まで見える大きく開いた涼しげな服がとても羨ましい。
血管が透けて見えそうな肌の白さとか細っこいのに丸みを帯びている腰のラインとか、正直今はどうでもいいし。
そんなことより涼を寄越せと訴えたい。
そんな気持ちが心の奥底で破裂しそうになって、春輝は大きなため息を溢した。
そして、それを聞き取ったようなタイミングでオレリアが振り向き、
「ほら、しっかりなさい。
あと少しで着きますわ」
「……本当かよ?
ガセなら心臓が止まるまで暴れてやるぞ」
「そんなくだらない嘘なんて吐きませんわよ。
あとそうですわね、五分も経たずに着くはずですわ」
言って、オレリアは優雅な仕種で肩に掛かる髪を後ろへと流し……
「あともう少しで、私の家に着きますわ」
それは吉報のはずなのに、春輝は微妙に複雑な気分になった。
喜び半分、帰りたい気持ちがもう半分。
だってこれから、この金髪ドリルの家に行かないといけない。
それも、ただ行くだけじゃない。
二泊三日の、泊まりがけで。
「本当に、どうなるんだろうなあ」
先行きがまるで見えないお嬢様のお宅訪問に、春輝はため息を吐いた。




