エリュース・ディネラ:優しさの居場所
エリュース・ディネラは扉の前で固まる。手にはケーキの入った大きな箱があった。
病院の一室であった。わざわざ個室の部屋を割り当てられるというからには、その主の地位というものを知ることができる。
だが、そのわりには、中から聞こえるのは少々、下世話であると言わざるを得ない。
当人たちは誰にも聞こえてないと思っているのだろう。確かに廊下に響くほどではないが、扉の前であれば聞こえてしまう。廊下の一番奥で静かだ、というのもあるだろう。エリュースが人よりも耳がいい、というのもある。
自分が暴走し、その暴走がどのようにして止められたのか。その真実はやはり、とても恐ろしい綱渡りの上で行われたことであった。
だが、聞こえてきたのは驚きの言葉だった。
「お前さ、実はエリュース・ディネラみたいな子、タイプだろ」
顔がかあっ、と赤くなった。
女子校に三年間も通っていたから、いままでそんな風に言われたことはなかった。
いや、同性からはモテる。自分で言うのもなんであるが、彼女たちの言葉を借りるならば、女性としての憧れなのだそうだ。そういう風に見られている、という事実としてエリュースは受け止めている。
とりわけ、この部屋の主、荒砥静志が異性として特別なわけではなかった。確かにパンケーキショップに入ったり、助けてもらったりはしたが。
だが、異性として意識している、などと言われてしまうと、困る。
自分はまだ中学生で、相手は高校生で。
いいや、そんなことは関係ないと、クラスメイトは言うだろうが。
「な、なにを考えてるの、私!」
部屋の中からも、抗議をしている声が聞こえた。
それはそれで悲しい気がしてしまった。
あのとき、暴走から目が覚めたとき。
エリュースが見たのは、ひび割れたアスファルトと、火の手のあがるショッピングモール群。
そして目の前で膝をついている荒砥静志だった。
まるで時が止まっているかのようであった。満身創痍で、制服のあちこちが破れていて、けれども顔は穏やかで眠っているようだった。
剣を地面に突き立てて支えにし、片膝をついている静志の姿は、まるで忠誠を誓う騎士だ。
姫など柄ではない。けれども、まるで物語から飛び出してきたかのような姿は、思わず想起させてしまうものだった。
静志の姿は、自分のことを止めたのがこの人なのだと雄弁に語っていた。
感謝の言葉を伝えようにも、気を失っている彼には届かない。
せめて彼を安全な場所で寝かせようと思った。四月になったとはいえ、まだ寒さが微妙に残っている。このままでは風邪をひいてしまうだろう。
そう思い近づくと、静志のVS-Driveから声が響いていたのを聞いた。
『聞こえますか、オーディンワン、荒砥委員長! 犯人の居場所をつかみました! いまから座標データをAPSとリンクさせます。至急、向かってください!』
それを聞いて、ああ、そうか、と思い出したのだ。
自分は友人の悠果を追っていたのだ。そこで占い師に何らかの能力を使われて……。
夢を見ていた気がする。暖かいぬくもりの中で、好きに暴れまわっていた。心地よかった。それは否定できない。
だが、現実へ戻されたときの虚しさといえば、苦しいものだった。
そのときエリュースは、静志のVS-Driveを少しだけ拝借して、地図の示す先へと向かったのだった。
それがあの事件が解決される、少し前の回想だった。
あれから自分は事情聴取をされ、あれだけ暴れまわったというのに事件を解決した立役者であるかのように扱われてしまった。いくつかのことは否定したが、結局ニュースには大々的に扱われてしまって、引くこともできなくなった。
雀瞬学院も、それを利用しているようではあったから、もはやなにも言うまいとした。
それよりも気がかりだったのが、あのとき力尽きていた静志だった。
戦う前、静志が自分に向けて、なにかを言っていたような気もしたが、まったく覚えていなかった。
ただ、彼がボロボロになってまで自分を止めてくれた。
あのとき、第九区で居合わせて、一緒にパンケーキを食べただけの仲なのに。
自分は彼へ、とても厳しい言葉をかけたのに。
力尽きてもなお倒れることはなく、笑顔さえ讃えて見せた。
そのことに心を突き動かされたのは事実だった。
だから柄にもなく走った。悠果を助けるためだけではない。彼への恩義があった。代理、というのは静志に代わって、彼がすべきだったことをする、ということでもあった。
ただ、それだけだ。
異性としては特別ではない、けれども恩人であることを踏まえれば自分は彼に感謝の意を伝えなければならない。そう自分に言い聞かせてやってきたのだった。
しかし、こんな会話をされてしまうと中に入りにくい。
むこうも会話を聞かれたとあっては、面目がたたないだろう。
だからここから立ち去るのが吉なのだ。
「……でも、ケーキはどうしよう」
お見舞いの品として持ってきた真っ白な箱に視線を落とした。
中身はケーキだ。おそらく、甘党だろう彼へ贈る品で最もふさわしいだろうと考えたものだった。
二人で食べるつもりで買っていた自分に、少しだけ恥ずかしくなる。
たぶん、顔も真っ赤になっているだろう。
「お見舞いですか?」
「ひゃい!?」
急に声をかけられて、変な声を出してしまう。もしかすると、病室にいる彼らにも聞こえているかもしれない。
隣にいたのは女性の看護師だった。
学生ばかりの〈方舟〉であったが、こういった専門職の多くは大人である。子どもたちのために、と働いている。この看護師もそんな大人の一人だ。
「いま来られてるお客さんが帰られたら、言いましょうか?」
「い、いえ、そういうのではないので……」
なにか重大な勘違いをされているような気がして、否定してしまった。
これでは静志のことを非難することはできない。
けれども、真実をきちんと伝えないと、誤解されっぱなしも気持ち悪かった。
一刻も早くここから逃げ出したくて、ケーキを押し付けてしまう。
「その、これを渡してもらえますか。それと、ありがとうと……」
「わかりました。ただ、お礼は今度、きちんと口で伝えてあげてくださいね」
看護師はそう笑顔で言った。
それは、そうだ。きちんと自分の口から伝える以上のことはない。
でもそれはいまじゃなくても、いい気がした。友人との会話を楽しんでもらいたい。
ちょっとだけ微笑んで、看護師に頭を下げて、足早に去っていく。
ここは〈方舟〉だ。先駆者がいる限り、事件は起こるし、そのたびに彼は奔走するのだ。誰かの居場所を守るために。
その守る者に中に自分がいる限り、きっとまた会える。自分もまた、自分の居場所を守らんとする者なのだから。
エリュース・ディネラは異端だ。
世界のどこにいたとしても、この〈方舟〉でさえ、人と異なった存在であった。
だが、そんな自分でさえ、居てもいいのだと言ってくれる人がいた。
居場所を守るために動いてくれた人がいた。
いまはそれだけで、幸せだ。
エリュースが去ったあと。取り残された看護師は、ケーキの入った箱を見て、思わず口をついて言った。
「12号のケーキって、誕生日パーティーで買うようなサイズよね。そんなにいっぱい食べるつもりだったのかしら……?」
* * *
ノアの方舟は今日も揺れる。
波が立つ。中に住まう者たちは、どこへ行くともわからぬ船の行方に、心を揺らしてしまうのだ。
おおよそこの世界は、厳しいものだった。
夢や理想など、握りつぶしてしまうほどに。
残酷など、誰かの尺度にすぎなくて。
ただそこに在るだけなのだから。
けれど、恐ることはない。
私たちは知っている。雨が上がれば、虹が出るのだと。
これは思い出のプリズム。
夢を忘れらない者たちの跡。
いつかこの断片たちを拾ったひとが、思わず飾ってしまいたくなるような。
そんな青春だった。




