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牡鹿の夢  作者: redzou
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9 Watch

【2026年9月17日(木)札幌市南区豊滝】

「コテツ!帰るよ〜」

 ウェルシュ・コーギーは飼い主に呼ばれてひと声吠えると、とよたき公園の芝生を、ロングリードに巻き戻されるように全力疾走した。

 短足胴長だが逞しく、低い姿勢で緑の上を転がるように突っ走り、佇んでいた柴犬のすぐそばを掠める。柴犬も大きな声で吠えたが、コーギーは脇目も振らず飼い主の元へ駆けつけると、その脛に体当たりした。

「コテツ!もー、それやめてって」

 飼い主は痛さに顔をしかめながらも、コーギーの頭を雑に撫でた。


 そのすぐ脇には、ラブラドール・レトリーバーとボーダー・コリーが寝そべっていた。

 ここはドッグランではないただの公園だったが、十分な広さの平坦な芝生は、飼い犬の運動不足解消には最適だった。天気の良い平日は、豊滝1丁目、2丁目の住宅街で犬を飼っているほとんどの飼い主が、午後、小学生の下校や夕飯の支度までの時間をここで愛犬たちと過ごしていた。


 小さなトイプードルの飼い主も、いつもここに来て、飼い主たちとの触れ合いに参加していた。だが当のトイプードルにとっては、大型犬も集まるこの場所は、憩いの場どころか恐怖の危険地帯だった。

「だいぶ伸びたから、アフロにしてみたの!今年は涼しかったし——」

 トイプードルの飼い主は、走り回らせたり他の犬たちとの親睦を深めさせるためにこの公園に連れて来ているわけではなかった。愛犬の新しいカットを自慢するためだった。トイプードルはケージの中で、アフロにされてまん丸になった頭の毛を小刻みに震わせて脅えていた。


 やがて飼い主たちはそれぞれの家への帰路についた。トイプードルを除く全犬がまだ遊び足りないか、または腹が減ったと吠え散らかした。トイプードルはその声にまたびくびくと震えた。



 深夜。

 豊滝1丁目の、比較的新しい住宅が並ぶこの一画には、札幌市のヒグマ対策の一環として、新型のゴミステーション、「あけれんベア」が設置されたばかりだった。

 隙間なく鉄製パネルで密閉され、ヒグマが爪を引っ掛けられるような凹凸もない、四角い銀色の箱。複雑なロック機構がセットされ、外観はゴミステーションではなく大型の金庫だった。自重は大型のヒグマを上回る400キロ。よほどのことがなければ倒すことも壊すことも、もちろん扉を開けることも、ヒグマには不可能なはずだった。


 この夜は晴天で、三日月が暗い住宅街を照らしていた。この辺りにはコンビニもなく、人工的な光は数本の街灯のみ。その光は、隣接した山林までは届かない。

 

 闇から光の中へ、その大きな影は現れた。

 月と街灯が、頭部や背中の獣毛を、微かに金色に縁取っていた。

 ヒグマの分厚い肉球は、乾いたアスファルトの上ではほとんど音を立てなかった。金色の影はのっそりと、家々が立ち並ぶ住宅街を歩き始めた。

 

 フッ、フッ。

 鼻息だけが聴こえる夜。

 ヒグマは、真っ直ぐにゴミステーションを目指していた。

 フッ、フッ。

 犬の10倍、人間の千倍、陸上哺乳類中最強とも言われるヒグマの嗅覚は、人間たちがゴミを鉄の箱に密閉し、完璧にゴミ出しルールやマナーを守って匂いを隠しても、簡単にそれを嗅ぎつけた。


 ヒグマは銀色の箱に近づくと、細部を見回すように頭を巡らせた。新品の鉄の箱。平坦で光を反射しているが、鏡像が映るほどではない鈍い光。隙間はないはずなのに、食糧の匂いが漏れていた。

 このヒグマにとってそれは未知の物体だった。中に食糧が入っているらしい、未知の物体。

 ヒグマは、その2メートルを越える身長で立ち上がると、右前足を振り上げた。


 突然、アゥ!アゥ!とカン高く耳障りな騒音が、夜をつんざいた。ヒグマが動きを止め固まった。ゴミステーションのすぐ傍の家の明かりがつき、人間の怒声も聴こえた。

 

 ヒグマはくるりと向きを変え、慌てることなくのっそりと静かに、林の中へ戻って行った。

 フッ、フッ、と、鼻息だけを鳴らして。



 犬たちは人間の家の中に居ながら、ヒグマには気づいていた。林から出て来たその時から。

 最初に柴犬が、祖先から引き継いだ血に流れる本能で、その気配を察知した。柴犬はその本能の命じるままに飛び起き、窓辺に行ってカーテンの前で佇んだ。声をあげずに。

 続いてコーギーも気づいたが、寝ていた犬用マットの上で顔だけをあげ、低い声で唸るだけだった。全て、本能に培われた知恵の成せる業だった。


 トイプードルは違った。

 ゴミステーションの一番近くの家で、ヒグマが立ち上がった瞬間に初めて危険を探知した。トイプードルは一瞬でパニックになり、凄まじいやかましさでアゥ!アゥ!と吠えまくった。


 危険はすぐに遠のいた。

 トイプードルは飼い主に怒鳴りつけられながらもしばらく警戒を怠らずに、脅えてプルプルとアフロを震わせていたが、やがてもう大丈夫らしいとわかると、安心してその場に横になった。


 このトイプードルが脅えて吠えなければ、ヒグマは振り上げた前足でゴミステーションを強打し、何らかの痕跡を残したはずだった。翌朝人間たちがその痕跡に気づけば、そのことはすぐに通報され、未だ遺体も発見されていない10日前の行方不明者の件と合わせて、大々的なヒグマ警戒体制が敷かれ、猟友会のハンターたちによる山狩りが行われたかも知れなかった。


 そうはならなかったが、トイプードルには何の責任もなかった。

 トイプードルは、柔らかく安全な犬用ベッドの上で、気持ちよく惰眠を貪った。

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