10 迷って
【2026年9月18日(金)札幌市南区真駒内】
「明日、洞爺湖行くから」
「……洞爺湖?……えーっ?!」
シルバーウィークだから?びっくりした!すごい!嬉しい……嬉しいけど、明日?また急に。でも嬉しい!
「レンタカー?ホテルどこ?もう予約したの?」
「え?うん……総務の人が予約してくれたはずだけど?」
「ええ?役所の人にお願いしたの?……いいの?そんな……でも嬉しい!」
「今度は、新しい服とか買わなくていいからね。ぼくはいつもの服でいいし」
「えー?うん……また、あのワンピースでもいい?純くんが選んでくれた——」
「え?カナコも行くの?」
「……え?」
鹿の研修旅行の話だった。
【9月19日(土)】
"潤はネクタイを緩めると、私に背中を向けて、ベッドに腰をおろした。
「……君が……世界中の人から非難されたって、僕は味方だから。それだけは忘れないで」
「……うん。わかってるよ」
抱きついたその背中は、いつもより広く感じた。"
……はあーーー。
このくらいまでなら、すらすら書けるんだけどなあ……。このあと、夜の描写はすっ飛ばしちゃったけど、そんなシーン書けないよ……。してたら、書けたかも?
火曜日の夜……送別会の夜。
夜中に帰ってきたと思ったら真っ直ぐベッドに来て……寝たふりしてドキドキしてたら、ただいまも言わないで寝ちゃった。
……もうずっと、してない……純香を授かってから。いや、別にそれはいいんだけど。わたしは、そういうことしたいって……あんまり、思わないし。純くんも、そういう話したこと……ないし。
そして今朝、純くんはひとりで行っちゃった。
"「——可哀想だなぁ……」
私にハンドルを譲って助手席に体をずらしながら、潤がボソボソ呟いた。
「なにが?」
「あれ。トイプードル。あんな派手なピンクにされて……本人は絶対嫌がってるよね」
潤が見てるのは、今日の収録でスタジオに来ていた、ショッキングピンクのトイプードルだった。
「うん、まあ確かにあの色はね。でも犬の気持ちなんてわかんなくない?元気だったし、飼い主さんも喜んでたよ?」
「……飼い主さんは、でしょ?」"
わたしの書いた潤は、純くんそのまま。もちろん、セリフとかは小説らしくカッコよくしてるけど。
周りの人たち、それどころか犬の気持ちまで考えちゃう。
わたしに対してだってそうだった。
純くん……わたしは純くんのことばかり考えてる。もちろん純香のこともだけど、純香はわたしの身体の一部みたいな感じだから……純くんは違う。
7年。わたしが知ってるのは、16歳からの7年だけ。純くんの人生の、3分の1未満。
スマホをテーブルに置いて、まだ寝室で寝てる純香をのぞいた。
『お願い……ぼく、働くから!絶対、香奈子さんと……お腹の、ぼくたちの子ども、幸せにするから!だから……』
2人ともわんわん泣いた。あれが結局、プロポーズになっちゃって。
純くんのデスクに飾ってある、純香とわたしの写真。真っ赤な顔して、猿みたいな純香と、髪もなにもぐちゃぐちゃだけど、笑ってるわたし。
プリントが一枚、デスクの上にあった。
『壮瞥町 グルメマップ』
純くん、忘れてったのかな。ご飯ならスマホとかでも探せるし、いらなかったのかも。純くんらしい——
『絶品!エゾシカバーガー!』
——嘘でしょ。こんなの、純くんは絶対食べない。
……食べない……よね?
わたしが知ってる純くんなら食べない。
でも、今の純くんは?
……出会う前の……純くんは?
エゾシカ……鹿。
なんで急に、鹿オタクになったんだろう。それとも、前から?わたしと知り合う前から?
あの事故。ぶつかる前に、純くんは鹿だってわかったのかな。わたしはわからなかった。そのくらい突然飛び出してきた。その後は病院で目を開けるまで、純くんは意識がなかった。
鹿とぶつかって、その鹿はたぶん死んじゃって……だからかな。鹿がかわいそうだから?それとも——
『絶品!エゾシカバーガー!』
——鹿が怖くなったから?それとも憎いとか?怒ってる?
怒ってはいないよね。悪口言ったり怖い顔したりしてない——
待って?わたし……わたし、知らない……純くんの怖い顔?悪口言ってるとこ?……怒ってるとこ……見たことない。わたし、純くんが怒ったらどうなるのか……知らない——
突然空気が薄く感じた。胸……息が苦しい。心臓がバクバクする……空気……苦しい、吸わなきゃ……息、しなきゃ……息……吸って……吐いて……。
純香……純くん……純香。純香。
耳がキーンってなって、部屋が暗くなった。揺れる。ベッド。純香……ベッドに手をついて、純香の横に倒れ込んだ。
「——ママー。おはよ」
「……すみ……か。純香……おはよう……」
ゆっくり呼吸して、純香の髪を撫でた。
少し、落ち着いた。
純くんが、夜になっても帰ってこない、明日にならないと帰ってこない。だからかな。寂しいからかな?
今日はもう、変なこと考えないようにしよう……純香。純香のことだけ、考えよう。
明日、純くんが帰って来れば、またきっと。
安心して、元通りになる。
【9月20日(日)】
エゾシカジャーキー。エゾシカサラミ。エゾシカウインナー。エゾシカハム。
エゾシカハンバーグ。
純くんのおみやげ……エゾシカだらけ。
「パパー!おにくー!」
「これ、美味しかったよ。パンある?」
「……あるけど」
「よし!エゾシカバーガー作って、カナコ!」
『……は?ざけんな!てめえが作れ!』
凛なら……絶対キレる。でも、わたしは。
「……食パンしかないから……サンドイッチならすぐ……」
「なんでもいいよ!肉が美味しいんだから」
「……そう……なんでもいいのね……」
泣きそう……どうしよう……嫌だ。泣きたくない……。
「……待ってて。パンズとか、買ってくるね……」
「そう?じゃあ待ってる。楽しみ!」
わたしは純香を連れて、家を出た。
家に、いたくなかった。
どうするか、何も考えてなかった。考えられない。こうしたい、じゃなかった。ただ、家に……純くんといるのが……怖い?
どうして?
なにかされたわけじゃない。ただバーガー作ってって。ただそう、おねだりされただけ。なのに……なのに、なにが怖いんだろう?
悲しい?辛い?
なにが?
あの人が怖い。
顔も声も……あの人は、純くん。でも……わたしが知ってる純くんなら、あんな……なに?わたしが知ってる純くん?わたしは純くんのこと、全部知ってるの?
この7年のことなら知ってる。わたしの純くん……ほんと?
純香の2年間は知ってる。片時も離れたことがないんだから。ほんとに、一瞬たりとも。でも純くんは……高校では放課後、同好会で。付き合い始めてからだって、放課後や休みの日だけ。わたしが卒業してからは、週末だけ。結婚してからだって、純くんが仕事に行ってる間のことは……何も知らない。
当たり前。でも、知らない、一緒じゃない時間の方が長い……純香とは違う。
そんな人と……わたしは2年間、毎晩同じベッドで寝てた。結婚したんだから当たり前。夫婦ってそういうもの。
……ほんと?
お母さんとお父さん……何十年も一緒に、同じ家で暮らしてる。とっても仲がいい、とかじゃない。よくケンカもしてたし、昔、お母さんは何度か、わたしをおばあちゃんの家に連れてった。
そんなの普通。当たり前。離婚話なんて聞いたことないし、よその家よりはずっとマシ。
……ほんとにそう?
当たり前、普通……なんのことかわからない。
わからない……純くんが……あの人がわからない……怖い。
「マーマー。いたいー」
「ご!ごめんなさい!」
純香の手を、強く握り過ぎていた。
「おさんぼー。パパは?」
純香の顔を見れない。
「……パパは——」
「あーっ!!」
急に、純香が駆け出そうとした。まだしっかり手を掴んでいたので、引っ張られる。
「きゃははっ!」
純香が明るく笑いながら、わたしをぐいぐい引っ張った。
「うさちゃん!りんちゃん!」
そこには、自転車を漕いで走ってくる凛ちゃんがいた。
前カゴに、大きな白ウサギを乗せて。




