2 気づいて
【2026年7月20日(月)中村記念病院】
あや。
……って誰だろう……?
さっき。純くんが寝言で、あや……あや……って……。
うなされてる感じじゃなかった。他には何も聞き取れなかった。ただ、あや……ってだけ。
女の人の名前かな。初めて聞く名前。
純くんに聞く……なんてできるわけない。
こういう時……凜ならどうするかな?
調べる?なにを?純くんの交友関係?どうやって?
凜なら、頭がいいし友だちも多いし、何でもハッキリ言うキャラだから、うじうじしないで純くんにズバッと聞いちゃう。
『ちょっと。あやって誰?浮気してんの?』
とか。わたしには絶対無理。
『あわわ……待って!その名前、どこで?』
『とぼけてんじゃねえ!白状しろ!昔の女か?』
ススキノのホステスさんの名前とかにする?でも純くんはそんなとこ行かないしなあ……。小説なら、いろんなこと、わたしの思った通りに書けるのに。
あや……さん。誰だろう……。
「志川さーん」
看護師さんがベッドに来て、バイタルモニターをチェックする。
「お加減どうですか?」
純くんは寝てる。この看護師さん、美人だなあ……え?まさか……。
看護師さんは名札を付けていない。最近はプライバシーがどうとかで、みんな名札つけないんだよね。
『ちょっと看護師さん。名前教えてくんない?もしかして、あや?』
凜なら聞くだろうな。
「奥さん?何かお困りでしたら、ご遠慮なくおっしゃってくださいね」
「……あ!す、すみません……」
「お疲れですよね。お子さんも小さいし……ご主人は——」
「ママー。おそと——」
純香が膝の上で身を捩った。飽きたんだよね。パパ、寝てるから。
「——よかったら、お子さん、お外を見せに連れて行ってあげたらいかがですか?ここ8階だし、廊下の突き当たりから藻岩山とかよく見えるんですよ。ご主人は私が見てますから」
「で、でも……」
「大丈夫ですよ!ご主人の容態は安定してます。お目覚めになったら、すぐにお呼びしますから」
「は……はい……」
バカみたい。自分で創作したキャラがどうするかなんてどうでもいいのに。
看護師さんと浮気なんてあるわけない。さっきICUから出られたばかりで、今朝までは人工呼吸器もつけてたのに。ほんと、わたしってバカみたい。
純くん……ごめんなさい。変なこと考えて。大怪我して、死にかけたのに……こんな奥さんじゃ……純くん……ごめんなさい……。
純香を抱いたまま腰を上げ、純くんの寝顔を覗き込む。
『——意識はあります。脳波も問題ない。今はまだショックでぼーっとしてますが、すぐに——』
昨日救急車でここに搬送されて、お医者さんがいろんな検査とかして、診断は——
純くんが目を開けた。
「——じゅ、純くん……」
わたしを見た。じっと。
黒い瞳。純くんの瞳。病室の照明が反射して、菱形に光ってた。その周りが少し茶色っぽく見える。いつもより少し明るくて繊細な虹彩。
「……純くん……良かった……」
泣きながら、純香を純くんに見せようとした。純くんはその前に、また目を閉じた。
涙が溢れて止まらない。嬉し涙……というより、ほっとしたからかな。
寝息。静かな、聞き慣れた寝息。
ゆっくり休んで、早くよくなってね。
看護師さんにお願いして、純香と病室を出た。
鹿だ。あの鹿のせいだ。
突然横から飛び出してきた。純くんはいっつも安全運転で、スピード違反なんか絶対しないから、30……27キロ。スピードメーターのデジタルの数字を、鮮明に思い出す。
でもあんなふうに飛び出されたら、レーサーだって避けられっこないよ。鹿の方からぶつかってきた。
全部が壊れたみたいな大きな音。衝撃。鹿の……鹿の角が飛び込んできて……悲鳴をあげたかどうかも覚えてないけど、あの角は覚えてる……大きくて……黒っぽく見えたけど、色は……茶色。骨みたいじゃなくて、表面には2、3ミリの長さの毛が生えてる。先端は丸くて、少し赤っぽくて……なんでこんなこと細かく思い出せるんだろう?それが……純くんに……。純香は運転席の後ろでチャイルドシートだったし、わたしもどこも痛くなかった。シートベルトがグッて食い込んだだけ。
ぶつかって車が止まって、パニくりながら純香を見たけど、泣いてなかったしなんかニコニコしてるし、だいじょぶかな?と思った。鹿はどっかに転がってった。
「……純くん……」
返事がなかった。
「純くん?!」
運転席で、動かなくなってた。肩を揺すったけど反応しない。
「……純くん!純くんッ!」
頭が真っ白になりそうだったけどとにかく車を降りて、運転席のドア開けて、肩を掴んで揺さぶったりしたけど動かなくて……目も閉じたままで……顔が……顔色が、どんどん白く……青くなって……。
胸。なんともないように見えたけど……動いてない。顔を近づけてみた。息をしてなかった。
「……じゅ、純くん?純くんッ!!」
「——息してないの?」
「——どいて。車から出さなきゃ」
突然後ろから声がして、背中に手が触れた。男の人が2人いた。
このへんからわたしは頭がぼーっとしてきて、なんにもわかんなくなって——
「事故です!救急車お願いします!」
——誰かが叫ぶ声。
横に押されて、ふらふらして、それから誰かに支えられて、道路に座って。
ぐるぐる、景色が回って、歪んで。
車から、純くんが男の人たちに引きずり出されて。道路に寝かされて。動かない。純くんは動かない。その少し離れたところに、やっぱり動かない、大きな生き物。鹿だ。動かない。死んでる?純香。純香はどこ?純香。純くん。鹿。純香——
「——すみかッ!」
——気がついたら救急車の中だった。
「ママー。おきた」
膝の上で笑ってる。
「奥さん。わかりますかー?ご主人は大丈夫ですから。今病院に——」
純くんは助かった。わたしが気絶してる間に、後ろからきたトラックの運転手さんとかが心臓マッサージをして助けてくれた。救急車も呼んでくれた。わたしが気絶してる間に。
病院で、純くんはICUに運ばれて、お医者さんの話を聞いて……。
ICUでは付き添いは出来なくて、純香を抱っこして待合室で座ってた。
心臓震盪。
お医者さんが言ってた、純くんの症状。
ググってみた。
♢AI による概要
"心臓震盪とは、胸に強い衝撃を受けたとき、心臓が致命的な不整脈を起こして突然停止してしまう状態です。"
突然停止。心臓が。
でも、純くんは助かった。ちゃんと生きてる。
「香奈子!」
お母さん。来てくれた。お父さんも。
「純くんは?大丈夫なの?」
「うん……大丈夫。今ICUにいるの」
「よかったねえ……びっくりしたべ、ほんとに。香奈子は?ケガはない?」
「わたしは……全然大丈夫」
「疲れたしょ?……すみちゃん!ばあばが抱っこしてあげるよ〜」
「ありがとう、お母さん……」
お父さんが、腰に手を当てながら隣りに座った。
「……よっと。やれやれ……俺も疲れたわー。街ん中運転すんの久々だ」
「ごめんなさい、お父さん……腰、また痛いの?」
「いやいや。良かったべ、大したことなくて」
良かった。ほんとに良かった。心臓が止まったのは大したことだけど。
これが、昨日わたしたちに起きたこと。
なんか不思議。事故のこととか、病院のこと、お医者さんの話、お母さんたちの口にした言葉。全部、細かく思い出してる。
「ママー。おそとー」
「……うん。お外、見に行こっか」
純香を下ろして手を引いて、廊下を歩く。突き当たりに大きな窓。
「ママ。抱っこ」
「はーい」
看護師さんの言ってた通り、景色は良かった。札幌の街並み。背の高いマンションはいくつもあるけど、緑の方が多い綺麗な街。豊平川。そのまま遠くを見れば、あのどこかにわたしたちの団地もある。そして……少し右の方、遠くに藻岩山。展望台かな?白い建物も見える。そのさらに南……。
硬石山ってみんなが呼んでる、低い山々、森。
昨日……純くんは、簾舞のわたしの実家に行くために、あの山道を走った。いつもは石山通りを真っ直ぐ行くだけなのに、混んでたから?抜け道。曲がりくねった山道。ナビにもこっちの方が速いって出てたけど。どうして——
「——志川さん!志川さん!まだ——」
大きな声。びっくりして振り返った。
純くん?!
病室の入り口に、純くんが立ってる。キョロキョロしながら、歩き出した。
「じゅ、純くん?!待って——」
わたしを見たけど……一瞬だけ。背を向けてそのままフラフラと、手すりにつかまりながら歩いて行っちゃう。
看護師さんがすぐに追いつき、純くんの腕を取った。他の看護師さんたちも何人か、詰め所の方からやってきた。わたしも、純香を抱いたまま小走りで駆け寄る。
「——アヤ…………アヤ…………」
足が止まる。わたしの。
「……じゅ……純くん?……」
わたしを見た。
「……カナコ。スミカ」
純くん。
「すみません、他の患者さんと話してて……志川さん……さあ、ベッドに戻ってください」
看護師さんに背中を押されて、純くんは病室に戻って行く。
香奈子。そう言った。呼び捨て。
初めて呼び捨てにされた。
知り合ったとき、わたしは高3。純くんは同好会の新入生だったから、当然、園田先輩とか、園田さんとか。
付き合い始めてもそのままだったから、呼び捨てでいいよって言ったのに、ずっと……香奈子さん、だった。結婚しても、純香が産まれてからもずっと。
「志川さん。まだ寝てなきゃダメですよ。今はお体を休めてくださいね?」
わたしのせいだ。目を覚ました時わたしがいなかったから……。
「ごめんね、純くん……だいじょぶだからね?わたし、ここにいるよ?」
「カナコ。いる」
「……うん。いるから。ごめんね……」
香奈子。純くんにそう呼ばれるのは違和感あるけど、でも、ちょっぴり嬉しい。
良かった。純くん、大丈夫そう。
神様とかは信じてないけど、感謝したくなった。
純くんを。純香のパパを。わたしの彼を、助けてくれて。
ありがとうございます、神様。
……あやって、誰だろう。




