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牡鹿の夢  作者: redzou
2/14

2 気づいて

【2026年7月20日(月)中村記念病院】

 あや。

 ……って誰だろう……?


 さっき。純くんが寝言で、あや……あや……って……。

 うなされてる感じじゃなかった。他には何も聞き取れなかった。ただ、あや……ってだけ。

 女の人の名前かな。初めて聞く名前。

 純くんに聞く……なんてできるわけない。

 こういう時……凜ならどうするかな?


 調べる?なにを?純くんの交友関係?どうやって?

 凜なら、頭がいいし友だちも多いし、何でもハッキリ言うキャラだから、うじうじしないで純くんにズバッと聞いちゃう。

『ちょっと。あやって誰?浮気してんの?』

 とか。わたしには絶対無理。

『あわわ……待って!その名前、どこで?』

『とぼけてんじゃねえ!白状しろ!昔の女か?』


 ススキノのホステスさんの名前とかにする?でも純くんはそんなとこ行かないしなあ……。小説なら、いろんなこと、わたしの思った通りに書けるのに。

 あや……さん。誰だろう……。


「志川さーん」

 看護師さんがベッドに来て、バイタルモニターをチェックする。

「お加減どうですか?」

 純くんは寝てる。この看護師さん、美人だなあ……え?まさか……。

 看護師さんは名札を付けていない。最近はプライバシーがどうとかで、みんな名札つけないんだよね。

『ちょっと看護師さん。名前教えてくんない?もしかして、あや?』

 凜なら聞くだろうな。


「奥さん?何かお困りでしたら、ご遠慮なくおっしゃってくださいね」

「……あ!す、すみません……」

「お疲れですよね。お子さんも小さいし……ご主人は——」

「ママー。おそと——」

 純香が膝の上で身を捩った。飽きたんだよね。パパ、寝てるから。

「——よかったら、お子さん、お外を見せに連れて行ってあげたらいかがですか?ここ8階だし、廊下の突き当たりから藻岩山とかよく見えるんですよ。ご主人は私が見てますから」

「で、でも……」

「大丈夫ですよ!ご主人の容態は安定してます。お目覚めになったら、すぐにお呼びしますから」

「は……はい……」

 

 バカみたい。自分で創作したキャラがどうするかなんてどうでもいいのに。

 看護師さんと浮気なんてあるわけない。さっきICUから出られたばかりで、今朝までは人工呼吸器もつけてたのに。ほんと、わたしってバカみたい。


 純くん……ごめんなさい。変なこと考えて。大怪我して、死にかけたのに……こんな奥さんじゃ……純くん……ごめんなさい……。


 純香を抱いたまま腰を上げ、純くんの寝顔を覗き込む。

『——意識はあります。脳波も問題ない。今はまだショックでぼーっとしてますが、すぐに——』

 昨日救急車でここに搬送されて、お医者さんがいろんな検査とかして、診断は——


 純くんが目を開けた。

「——じゅ、純くん……」

 わたしを見た。じっと。

 黒い瞳。純くんの瞳。病室の照明が反射して、菱形に光ってた。その周りが少し茶色っぽく見える。いつもより少し明るくて繊細な虹彩。

「……純くん……良かった……」

 泣きながら、純香を純くんに見せようとした。純くんはその前に、また目を閉じた。


 涙が溢れて止まらない。嬉し涙……というより、ほっとしたからかな。

 寝息。静かな、聞き慣れた寝息。

 ゆっくり休んで、早くよくなってね。

 看護師さんにお願いして、純香と病室を出た。

 


 鹿だ。あの鹿のせいだ。

 突然横から飛び出してきた。純くんはいっつも安全運転で、スピード違反なんか絶対しないから、30……27キロ。スピードメーターのデジタルの数字を、鮮明に思い出す。

 でもあんなふうに飛び出されたら、レーサーだって避けられっこないよ。鹿の方からぶつかってきた。

 全部が壊れたみたいな大きな音。衝撃。鹿の……鹿の角が飛び込んできて……悲鳴をあげたかどうかも覚えてないけど、あの角は覚えてる……大きくて……黒っぽく見えたけど、色は……茶色。骨みたいじゃなくて、表面には2、3ミリの長さの毛が生えてる。先端は丸くて、少し赤っぽくて……なんでこんなこと細かく思い出せるんだろう?それが……純くんに……。純香は運転席の後ろでチャイルドシートだったし、わたしもどこも痛くなかった。シートベルトがグッて食い込んだだけ。

 

 ぶつかって車が止まって、パニくりながら純香を見たけど、泣いてなかったしなんかニコニコしてるし、だいじょぶかな?と思った。鹿はどっかに転がってった。

 

「……純くん……」

 返事がなかった。

「純くん?!」

 運転席で、動かなくなってた。肩を揺すったけど反応しない。

「……純くん!純くんッ!」

 頭が真っ白になりそうだったけどとにかく車を降りて、運転席のドア開けて、肩を掴んで揺さぶったりしたけど動かなくて……目も閉じたままで……顔が……顔色が、どんどん白く……青くなって……。

 胸。なんともないように見えたけど……動いてない。顔を近づけてみた。息をしてなかった。

 

「……じゅ、純くん?純くんッ!!」

「——息してないの?」

「——どいて。車から出さなきゃ」

 突然後ろから声がして、背中に手が触れた。男の人が2人いた。

 このへんからわたしは頭がぼーっとしてきて、なんにもわかんなくなって——

「事故です!救急車お願いします!」

 ——誰かが叫ぶ声。

 横に押されて、ふらふらして、それから誰かに支えられて、道路に座って。

 ぐるぐる、景色が回って、歪んで。

 車から、純くんが男の人たちに引きずり出されて。道路に寝かされて。動かない。純くんは動かない。その少し離れたところに、やっぱり動かない、大きな生き物。鹿だ。動かない。死んでる?純香。純香はどこ?純香。純くん。鹿。純香——


「——すみかッ!」

 ——気がついたら救急車の中だった。

「ママー。おきた」

 膝の上で笑ってる。

「奥さん。わかりますかー?ご主人は大丈夫ですから。今病院に——」


 純くんは助かった。わたしが気絶してる間に、後ろからきたトラックの運転手さんとかが心臓マッサージをして助けてくれた。救急車も呼んでくれた。わたしが気絶してる間に。

 病院で、純くんはICUに運ばれて、お医者さんの話を聞いて……。 


 ICUでは付き添いは出来なくて、純香を抱っこして待合室で座ってた。

 心臓震盪。

 お医者さんが言ってた、純くんの症状。

 ググってみた。

 

♢AI による概要

"心臓震盪(しんぞうしんとう)とは、胸に強い衝撃を受けたとき、心臓が致命的な不整脈を起こして突然停止してしまう状態です。"


 突然停止。心臓が。

 でも、純くんは助かった。ちゃんと生きてる。

「香奈子!」

 お母さん。来てくれた。お父さんも。

「純くんは?大丈夫なの?」

「うん……大丈夫。今ICUにいるの」

「よかったねえ……びっくりしたべ、ほんとに。香奈子は?ケガはない?」

「わたしは……全然大丈夫」

「疲れたしょ?……すみちゃん!ばあばが抱っこしてあげるよ〜」

「ありがとう、お母さん……」

 お父さんが、腰に手を当てながら隣りに座った。

「……よっと。やれやれ……俺も疲れたわー。街ん中運転すんの久々だ」

「ごめんなさい、お父さん……腰、また痛いの?」

「いやいや。良かったべ、大したことなくて」 

 良かった。ほんとに良かった。心臓が止まったのは大したことだけど。

 


 これが、昨日わたしたちに起きたこと。

 なんか不思議。事故のこととか、病院のこと、お医者さんの話、お母さんたちの口にした言葉。全部、細かく思い出してる。


「ママー。おそとー」

「……うん。お外、見に行こっか」

 純香を下ろして手を引いて、廊下を歩く。突き当たりに大きな窓。

「ママ。抱っこ」

「はーい」

 看護師さんの言ってた通り、景色は良かった。札幌の街並み。背の高いマンションはいくつもあるけど、緑の方が多い綺麗な街。豊平川。そのまま遠くを見れば、あのどこかにわたしたちの団地もある。そして……少し右の方、遠くに藻岩山。展望台かな?白い建物も見える。そのさらに南……。


 硬石山ってみんなが呼んでる、低い山々、森。

 昨日……純くんは、簾舞のわたしの実家に行くために、あの山道を走った。いつもは石山通りを真っ直ぐ行くだけなのに、混んでたから?抜け道。曲がりくねった山道。ナビにもこっちの方が速いって出てたけど。どうして——


「——志川さん!志川さん!まだ——」

 大きな声。びっくりして振り返った。

 純くん?!

 病室の入り口に、純くんが立ってる。キョロキョロしながら、歩き出した。

「じゅ、純くん?!待って——」

 わたしを見たけど……一瞬だけ。背を向けてそのままフラフラと、手すりにつかまりながら歩いて行っちゃう。


 看護師さんがすぐに追いつき、純くんの腕を取った。他の看護師さんたちも何人か、詰め所の方からやってきた。わたしも、純香を抱いたまま小走りで駆け寄る。

「——アヤ…………アヤ…………」

 足が止まる。わたしの。

「……じゅ……純くん?……」

 わたしを見た。

「……カナコ。スミカ」

 純くん。

「すみません、他の患者さんと話してて……志川さん……さあ、ベッドに戻ってください」

 看護師さんに背中を押されて、純くんは病室に戻って行く。

 香奈子。そう言った。呼び捨て。

 初めて呼び捨てにされた。


 知り合ったとき、わたしは高3。純くんは同好会の新入生だったから、当然、園田先輩とか、園田さんとか。

 付き合い始めてもそのままだったから、呼び捨てでいいよって言ったのに、ずっと……香奈子さん、だった。結婚しても、純香が産まれてからもずっと。


「志川さん。まだ寝てなきゃダメですよ。今はお体を休めてくださいね?」

 わたしのせいだ。目を覚ました時わたしがいなかったから……。

「ごめんね、純くん……だいじょぶだからね?わたし、ここにいるよ?」

「カナコ。いる」

「……うん。いるから。ごめんね……」

 香奈子。純くんにそう呼ばれるのは違和感あるけど、でも、ちょっぴり嬉しい。

 良かった。純くん、大丈夫そう。


 神様とかは信じてないけど、感謝したくなった。


 純くんを。純香のパパを。わたしの彼を、助けてくれて。

 

 ありがとうございます、神様。


 ……あやって、誰だろう。

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